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フランスといえば何を思い浮かべるだろうか。

フランス南西部の都市、ボルドーで生産されるボルドーワイン、古今東西の素晴らしい絵画を集めて所蔵しているルーヴル美術館、歴史的な価値のあるヴェルサイユ宮殿、ちょっと詳しい人ならばドイツとの国境に築かれたマジノ要塞などを思い浮かべる人もあるかもしれない。

しかしまさかこのフランス、ましてや芸術の都と賞賛されているパリのどまんなかにマフィアがいるなんて誰が想像できようか。

何を隠そう、彼らの先祖はWW2のどさくさに紛れてシチリア島からパリへ秘密裏に渡ってきた正真正銘シチリアンマフィアである。当時のナチスと結託し闇の世界で暗躍、悪行の限りを尽くした彼らだが泰平の世の中が訪れるとその生活は急転直下。ジリ貧の生活を余儀なくされていた。

そんな彼らだが、パリに移ってきたときからずっと途絶えることなく続いているある貿易がある。本国からのダイヤの密輸である。彼らは質のいいダイヤを手に入れるとそれを仕入れ値の何百倍もの高値でパリの金持ち連中に売りさばく。その金をもとに生活に必要なものを整えたり、取引を行うのである。

ある日、彼らのボスのもとに一本の電話が入った。相手は本国シチリアにいる組織の元締めである。彼がいうには、素晴らしいダイヤを日本のヤクザなる組織から手に入れたのだという。彼らの説明によればそれはこの世に二つとないダイヤらしい。何しろあの天皇陛下に当時の仏首相からWW1の助力を感謝して賜られたものだといい、それは長らく宮内省のものとなっていたようだ。しかしWW2末期のアメリカによる大空襲で焼け落ちて以降行方知れずになってしまった。占領軍が持ち帰ったとか、どさくさに紛れて誰かが盗んだとか、様々な憶測が飛んだが実は密かに人から人へと受け継がれ今に至るという。

そんな曰く付きの品だ、かなりの高値で取引できるだろう。そう踏んでのことだった。

しかしだ、と電話の相手は話を濁す。よく話をきいてみると、このダイヤを狙っている奴がいるという。して、誰なのか。



「その名は......怪盗スクーロ、現代のアルセーヌ・ルパンだ」



彼らの間に衝撃が走った。スクーロを知らない奴は誰もいない。それもそうだろう。大胆不敵でどんなに厳重な警備もものともしない稀代の泥棒、新聞やテレビなどは盛んに報道している人物である。そんな奴がこれを狙っているとは。

しかしこれは大きなチャンスなのではないか。無事にこのダイヤをパリに持ってくることができれば、我々の株も大きく上がる。組織内で敵対しているライバルを追い抜く最大の一手になるのではなかろうか。しかし当然ながらリスクも伴う。相手はあのスクーロだ。見事に盗まれてしまえば株が下がるどころか我々のクビが飛ぶ。さて、どうしたものか。

当然の如く組織内で意見が割れた。今回の取引は降りるべきだとか、このミッションを成功させて立ち位置を大きなものにしようだとか、その他様々な意見が溢れなかなか纏まらない。

「"彼"を呼んでこい」

唖の如く口を閉ざしていたコミッショナーが、開口一番こう言った。"彼"とは、コミッショナーがまるで我が子の如く大切に育てている男である。曰く"彼"がまだ赤ん坊だった頃に捨てられていたのを拾ったのだという。

「失礼します」

あれから18年が経った今、その赤子は大きく成長しがっちりとしたガタイのいい細身の好青年になっていた。

「待っていたぞ」

「それで、何の用ですか。コミッショナー」

この国には珍しく、地の底からきこえてくるような低い声でぶっきらぼうに答える。普通ならばこういう態度をとれば射殺されてもおかしくないのだがそこはコミッショナー自慢の息子、多少の無礼は許されるようだ。"彼"は他の幹部を差し置いて彼の元へ着席する。

「実は近々、あるダイヤがこの国に運ばれることになっている。しかしそのダイヤを横取りしようと企むやつが現れた」

「いつもの事じゃないですか」

なんだと、と周りがいきり立つなかコミッショナーはまぁまぁと宥めすかし、続けて言う。

「その相手が少々厄介でな。相手は怪盗スクーロ、お前も知っての通りの人物だ。正体不明神出鬼没、狙った獲物は必ず奪う。現代のアルセーヌ・ルパンとも言われる人物だ。どうだ、殺れるか」

殺れるか以前に確実に殺れってことでしょう。"彼"ははぁとため息をついた。

「かしこまりました。必ず殺ります」

「うむ、頼んだぞ」

"彼"はコミッショナーにくるりと背を向けると早々に退出した。その背中に冷ややかな目線を浴びながら。




スクーロが密輸ダイヤの情報を得たのは数日前のことだった。ひょんなことからこの宝石がフランスへ渡ることを知った奴は、密輸を取り仕切っているシチリアンマフィアのボスにすぐさま予告状を出した。

「近日中にフランスに密輸されるダイヤ"アジアの煌き"を頂く」

この予告状を出してすぐに警戒厳重な東欧クロアチアを抜け出し、華の都パリへ移動したのだった。

パリは恋を呼ぶ街、なんて歌の句にあったな。スクーロはそんなことを思いながらカフェでコーヒーカップを傾けた。窓から見える空は珍しく涙に濡れ、高くそびえる塔は厚いグレーの雲に姿を隠している。そのせいか街を歩いている人もまばらで、みな急ぎ足で道のりを急いでいる。薄く軽快なジャズが流れる店内は各所に空席がみられ、コーヒーを曳くゴリゴリカリカリという心地いい音とポットからいれたばかりのほろ苦くほのかに果実の豊かな香りがこの場を支配していた。

そういえば、クロアチアを抜け出してから何も食べていなかった。どうりでこれが腹に染みるわけだ。スクーロはウエイトレスを呼び、サンドウィッチを注文した。

カランカラン。誰かが雨を連れてきたらしい。芳醇な香りの中に独特の香りが混ざり合う。スクーロはちらりと人物の様子を伺った。

どうやら東洋人らしい。この時期にあわない厚いコートを着込み、一重に特徴的な垂れ目、すっと鼻筋が通っている面長の男はスクーロの背後の席に座ると、珈琲を注文して新聞をはらはらとめくっている。一見なんでもない客であろう。

しかし奴の本能はこう叫んでいた。こいつはただの客ではない、と。それどころかこれは

「お待たせ致しました、コーヒーでございます」

陶器のぶつかりあうかちゃっという音を皮切りに、新聞の影で隠し持っていた短機関銃が火を噴いた。鋭く乾いた金属音と、ガラスの弾ける音。人々の言葉にできない悲鳴と呻き声がしゃあしゃあという雨音と共に店内を包む。

東洋人は悠々と立ち上がると足下で真っ赤なボロ布のようになっているウエイトレスを蹴り飛ばし、呻き声と錆びた鉄の匂いが澱んでいる店内を見回して生きている影がないかと目を皿にして確認した。特に、先ほどまでこちらの様子をうかがっていた何者かである。あれが今回のターゲットであることは容易に理解できた。驚いたのはあの軽々とした身のこなしである。並みの人間ではほぼ不可能だと言っていい。

彼は銃弾で穴あきになったテーブルを蹴る。木製のそれは火災で焼けた家具のようにカラカラと軽い音を立てて床に散っていった。奴は絶対に生きている、あんな程度で死ぬタマではない。しかし死体の山をかきわけて探すもそれらしい影を見つけることはできなかった。

「あれが、怪盗スクーロ......」

彼の呟きは、次第に近づいてくるサイレンと雨の音に吸い込まれていった。




「やつの暗殺に失敗した?それでやつは」

「申し訳ございません、コミッショナー。そのまま上手く逃げられてしまいました」

この馬鹿。用心しろといったはずなのに。しかし彼の頭は感情に反して冷静であった。当然こうなることも織り込み済み。加えて次にどう指示を下すべきか、彼の頭にはゴールまでの設計図ができていた。しかしその前に。

「脱げ、今すぐだ」

"彼"は伏目がちになりながら、彼に言われるがままジャケットを脱ぐ。ワイシャツを脱ぐ。タンクトップを、ズボンを脱ぐ。

「よし、そのまま姿勢を正せ。動くんじゃないぞ」

彼のすらりとした剛板のような体には無数の傷がある。小さな切り傷や擦り傷なんてそんな生易しいものではない。太ももや脇、腕などいたるところに銃創がありまわりの皮膚よりも黒ずんで変色している。さらに背中には刀傷だろうか。肩から斜めにクロスした傷が大きく入っている。つけられてからまだ浅くところどころまだ肉が見え、場所によっては膿んでいる。

これ以上上げていくときりがないのだが、それほどまでにたくさんの傷や火傷の痕、蚯蚓腫れ、刺し傷が入っている。まさかこれで生きているとは思えない、奇跡である。

そんな身体にコミッショナーは新しい傷を加えようというのだ。

ヒュウッ、パチィッ。鞭は風と"彼"の身体を切った。ぱっくりと治りかけの傷跡が開き、血が噴き出す。

「任務失敗の仕置きだ」

ヒュウッ、パチィッ......ヒュウッ、パチィッ......ヒュウッ、パチィッ......。

皮が破け、傷が開き、肉が裂け、赤く染まった骨まで見える。

苦悶にゆがむ"彼"は時々うめき声を漏らすばかりで、じっとされるがままに拷問をその体で受け止めている。

「はぁ、もうこれでいい。早くスクーロの首を持ってこい」

"彼"のしぶとさに根負けしたらしい。コミッショナーは血肉に染まった鞭を放り投げ、その場を立ち去って行った。

残されたのは"彼"ひとりである。全身から血が噴き出し肉が見え、嫌な汗が流れるボロボロの身体、そして張りつめていた気がふと緩みその場にへたりと寝転がってしまった。血で赤く染まった大理石の床は火照った身体に心地よく、"彼"はつい両の瞼を閉じた。



どのくらい眠っただろうか。"彼"は全身がまるで火を押し付けられているかのような熱さと痛みに耐えかねて目が覚めた。顔を上げるとそこはいつもの牢である。彼は蝋燭を灯した。

ぼうっと炎に照らされて見えてきたのは、ギッチリと本が詰まった壁いっぱいにたてられている棚。そして今回の標的であるスクーロを写したと思われる写真が数枚である。しかしこれはどれもあてにならない。やつは変装の名人であり、今この顔でも少し目を離したら違う姿になっているかもしれないのだ。つまり、己の勘だけが頼りである。

彼は一枚の写真を手に取った。月に照らされるスクーロの姿である。月に向かって宝石を掲げるその姿はまるで、昔どこかで聞いた月のお姫様さながらである。裏には本国、イタリアで撮られたものと筆記体で記してあった。二枚目はロンドンのビックベンで撮られたもの。この街特有の突然の雨に打たれながら天を仰いでいる一枚である。往来を往く人々はスクーロに気が付いていないようで、彼らは傘の影で雨を避けながら家路を急いでいる。

今はもう骨董級だと言っていいカメラ白黒の写真、ロウソクの燈を帯びてほのかに化粧を施したようにスクーロの頬が橙がかっている。それらに写る怪盗はどれも、どこか哀しみの表情を浮かべている。

"彼"は人がこんな表情を浮かべている光景を見たことがなかった。これまで見てきたのは死に顔。それもただの死に顔ではない。銃撃による怪我や毒物で顔を苦悶に歪め死んでいく顔、涙と自らの血でぐちゃぐちゃにしながらなおも助けてくれと懇願し、無惨にも眉間を血に染めて死ぬ顔。そういえば"俺"は殺しの時も、普段も、どんな顔をしているだろうか。改めて鏡を覗いてみた。

なんとまぁ情けない顔をしているのだろう。ひび割れた鏡の奥に映っていたのは往年の名俳優でもハリウッドスターでもない、顔中が血と数多の憎悪にまみれ薄汚く汚れた青年であった。自分を忘れた顔。生気のないつまらない男がそこにいた。

ほろり、透明な水滴が滴る。おかしい。世界が歪んで、崩れていく。滴る水滴を拭っても拭っても視界は更にぼやけ、歪み元の姿に戻らない。次第に"彼"はこの胸を突き上げて迫ってくる気持ちに、怖いような悲しいような複雑な感情を覚え動揺した。どうしたらいいのだろう、こんな気持ちになったのは初めてだ。"俺"は拭うのも諦めた。この感情は溢れて止まらない。

"彼"は生まれて初めてこれが涙であり、悲しいとはこういうことなのだということを知った。



数時間前まで雨が降っていたとは思えない程綺麗に澄み渡った夜空には星が瞬き、銀のカーテンが芸術の街を照らしている。サークルの中にいくつもの区が存在しその様子から"エスカルゴ"とも形容されるこの都市は、優しい光に包まれ何とも形容しがたい情景をうつしていた。しかし優しいばかりではない。時には世に隠れた影の存在をも克明に映し出す凶器であり鏡となる。

スクーロはエッフェル塔から闇に沈むパリの街を静観する。この光景が最後になる、第六感はそう叫んでいた。それもそうだろう。隙あらば奴の命を狩ろうとする狩人の熱い視線を背後からひしひしと感じるのだから。しかし、自然と恐怖よりも寧ろやってみろという気概に溢れていた。この仕事を必ず成功させてやる。

スクーロは大義そうにぐっと背伸びをして、銀のカーテンに包まれた街にダイブした。


"彼"の手にはあの写真と、月明りに照らされて黒光りするライフルが握られていた。ああして泣いてもいられず、スクーロが出没したという連絡を受け"彼"はエッフェル塔がよく見えるビルの屋上へ上がり、ライフルを構えた。

奴は確かにそこにいた。夜に沈む街を眺め、精神を統一している。狙われているというのに無防備、丸腰のままで。全くのんきな奴だ。"彼"はトリガーに指をかけた。狙うはもちろん、一撃必殺、頭である。

......このまま引いていいのだろうか。もしかして、コミッショナーが言うほど、スクーロは悪人ではないのかもしれない。勿論、組織が取引しようとしているものを横取りしようとしているのは曲げようのない事実である。しかし、写真に映っていたあの瞳を見ていると、その奥に何かが隠れているように感じるのだ。"俺"はスクーロのその部分に強く惹き込まれた。奴はただの怪盗ではない。後ろめたい何かを隠していて、そのために泥棒活動を行っているのではないか。だとするならば、ただ組織と敵対しただけで殺すというのはある面にとっては間違っている。しかしこれは仕事であり命令である。殺さなければ今度は自分が殺される。そういう世界なのだ。食うか食われるか、殺すか殺されるか。生と死しかないのだ。しかし、引けない。まるで指が固まってしまったようだ。

勿論比喩だから引くことは可能なのだが、それにしてもなぜだろうか。どうしてもできない。

"俺"は大きなため息をつくと、ライフルをおろしてしまった。だめだ、殺せない。少なくとも"俺"の手では絶対に。人を殺すことってこんなに大変なことだったろうか。この仕事をしてきて初めてだ。米粒くらい小さく見える標的に対して殺したくないという感情を抱いたのは。引き金を引いてしまえば簡単だそれはこの間のカフェでもできた。しかし、それで"俺"はいいのだろうか?"俺"の心はそれでいいのか?組織としてではなく、一人の人間としてそれでいいのだろうか。

"俺"は結局、奴が夜の闇に消えるまで引くことが出来なかった。しかしこれでは顔が立たない。奴があの男のダイヤモンドを狙うとしたら、きっと取引相手かコミッショナーの側近に化けるはずだ。しかし数が限られている上に、彼から一時も離れないだろう。それに変装がバレてしまえば百戦錬磨のスクーロといえど一巻の終わりだ。そこまで危険な賭けにでないだろう。そうすると顔が知られていない且つあまり意識されない人物がいい。しかしそうすると膨大な数になる。それこそパリの街でスクーロを捜索している末端の人間から大物ふたりを運ぶ車のドライバー、取引現場を警護するガードマンまで。ただでさえ特定できないというのに、余計に奴を取り逃がすことになる。

マフィアと取引するからには当然人並み以上の警備だろう。じゃあ奴はどうするだろうか?




闇に沈んだパリの街を照らすヘッドライト。小さな点だったものが次第に大きくなり、エンジン音と共にこちらへ近づいてきた。

「お待ちしておりました」

黒のセダンから下車した男は、出迎えた下男にチップをくれるとそそくさと屋敷のなかへ引っ込んでいく。中華系のでっぷりと太った男はスーツケース片手にコミッショナーの待つ応接間に向かった。中ではソファにふんぞり返ったコミッショナーと彼の側近、ボディガードが暗い部屋で葉巻をくゆらせながら待っていた。

「待たせましたな」

「念のためにお聞きしますが、スクーロにはつけられていないでしょうな?」

「えぇ。おそらくは」

ほっと安堵の表情を見せると彼は傍らに置いていたアタッシェケースから、小型の透明なプラスチックの箱を取り出した。

「ほう、これがその......」

男は手に取って、様々な角度から観察する。ほかではお目に掛かれない、独特のアイデアルカットが施されたダイヤモンドの中心には、遠い東の十六菊の御紋と当時のフランスの紋章が刻まれている。

「どうです。ダイヤモンドでもいい値が付くというのに、極東の伝統ある皇室の紋章が入っているのです」

「よし、買った。ここに100万ユーロがある」

商談はすぐに成立した。彼はアタッシェケースごとコミッショナーに渡す。お互いがお互いのアタッシェケースの中身が本物であることを確認すると、彼はくるりと背を向け屋敷をあとにする

「よろしいのですか、あんな胡散臭い男に素晴らしい品を」

「構わん。それより"彼"から目を離すなと伝えろ。」

「かしこまりました」




彼らがコミッショナーの屋敷から出てきた。その手にはさっきまで持っていなかったはずのアタッシェケースが握られている。大柄の男は満足そうに大きなお腹を揺らしながら、横づけされた車に乗り込んだ。スクーロは相変わらず姿を現さない。諦めたとでも言うのだろうか。否、そんなはずはない。奴は狙った獲物は逃がさない主義なのだ。

そうこうしているうちに車は夜の底を静かに滑り出した。"俺"もスクーロにつけていることを悟られないように夜の空を滑る。パリは相変わらず殺し屋には似合わない。第一ネオンが明るすぎる。

車は狭い小路を縫うように抜け、セーヌの岸辺を西へ行く。この辺りは中心ほど明るすぎず、とうとうと流れる川の水面に商店の光が反射してキラキラと煌いている。普段なら観光客で栄えているところだが、この時間だからか黒猫がひとりでこの光景を独り占めしていた。次第にエッフェル塔と奥に鬱蒼と茂るブローニュの森が見えてきた。エッフェル塔はセーヌのほとりに19世紀のパリ万博の目玉として建てられたもので、夜空に堂々とそびえるタワーは見るものを惹きつけて人々の心をとらえて離さない。それは100年前も今も変わることはないし、これからも永遠に変わらないだろう。

車はエッフェル塔を横目に凱旋門に向かうマルシー通りへ折れ、何の変哲もないアパートの前に止まった。ここら一帯はパリの中心街、ネオンが休むことなく瞬いて闇という闇を余すところなく照らしだす。これではスクーロといえど隠れる隙が無いだろう。しかし奴は天才。どこへだって忍び込むだろう。"俺"はアパートの屋上に降り立った。いつ奴が現れても応戦できるように、拳銃を握る。

しかし、改めて考えてみるとスクーロと思しき人物はあれきり一度も現れていない。そう考えると、妥当なのは彼らの中にスクーロが紛れ込んでいるということだろう。一番手っ取り早くあのダイヤを手に入れるならば、あの恰幅のいい男に化けることだろうがコミッショナーの目の前に出るというリスクを伴う。天下の大怪盗といえどあの状況からは流石に脱出できない筈だ。ならば、彼のそばでずっと仕えていた彼の護衛に化けるのが一番いい。さらに言うなら運転手ならばコミッショナーに会うことはない。スクーロはきっと運転手に化けていたのだろう。そして今、運転手や護衛と共に男はアパートの中へ入っていった。計画はきっとこうだろう。運転手に化けたスクーロは車内で彼らを脅し、何らかの形で強奪したに違いない。きっと......そう、コミッショナーに狙われている。宝石には発信機が取り付けられていて危険だ、などと口実を繕って。

「なかなかやるじゃないか、少年」

男とも女ともとれる声がした。振り向くと、男と同乗していた護衛の姿......をしたスクーロが拍手をしながら近づいてくる。

「しかし、事実は少し違う」

スクーロは続ける。奴は最初から最後まで彼と共にいたと語った。じゃあ"俺"が見たのは......。

「そう、それも私だ。不思議なものだね」

さて、と前置きをしてから真剣な表情でこう切った。

「君の目的は私の殺害。組織から命じられたものだ。しかし、これには裏の目的がある。そうだろう、コミッショナー。隠れてないで出てきたらどうだ」

スクーロの口から意外な人物の名が飛び出した。コミッショナー?最初から見ていたというのか?

その声に応えるように、姿を現すコミッショナー。その手には軍用ライフルが握られている。

「この男は、君をハメたんだよ。私を消した後に君も消すつもりだったのさ。それともふたりまとめて消すつもりだったか。今となってはどっちでもいいがね」

「つべこべいうな。おい、消されたくなければ今すぐスクーロを殺せ」

コミッショナーは腹の底から唸るような声で"俺"を貶す。信じられない。あんなに本当の父のように育ててくれたコミッショナーがまさか"俺"を殺そうとしていたなんて。周りに視線を飛ばすと、"俺"とスクーロを囲むようにいつの間にか手に軍用ライフルを持った仲間たちが取り囲んでいた。

「これでもまだ信じられないかい?」

信じられない、信じたくない。"俺"は目の前の怪盗と主人の顔を交互に見る。スクーロは飄々として、今起こっている状況を楽しんでいるかのようだ。事実、どこか笑みを浮かべている様に見える。対してコミッショナーはこの状況を固唾を呑んで見守っている。しかしその目の奥にはこの混乱に乗じて二人とも消してしまおうという思いが透けているようだ。

俺はスクーロを凝視した。コバルトブルーの瞳は冷たく、底のない深海のような色だ。しかしその奥には、今まで感じたことのない感情や情熱、そして悲しみが見える。"俺"はその瞳に吸い込まれながら、ゆっくりと腰のホルスターに手を伸ばす。金属特有の冷たくざらりとしたグリップを握り、迷わず引き抜いた。



「もう俺の意思は変わらない」



一発の銃声を皮切りに、複数の銃声がパリの夜を駆け抜けた。




「これでよかったのか、少年」

スクーロは俺に問いかけた。俺はこくりと頷く。屋上には火薬の臭いと血の臭いが立ち込め、そこら中に死体が転がっている。その中には、コミッショナーだった抜け殻も無造作に転がっていた。一発で眉間を撃ち抜かれ、驚く暇もなく逝ったことがうかがえる。

「もういい。組織には辟易していたんだ」

「そうか」

スクーロはそれだけいうと、胸元からあのダイヤを取り出した。そして、西に傾き始めた満月に翳す。しばらく月明りに翳していると、満足したのか胸元に戻してしまった。俺はそのタイミングをはかってスクーロに問いかけた。

「なあ、俺を仲間にしてくれないか」

スクーロは思いがけない提案に驚いたようだった。紺碧の瞳を大きく見開き、俺を見返す。

「おい、正気か?」

「俺は過去の柵に縛られて生きてきた。スクーロからも同じ匂いがする。悲しみと切なさを背負って何か大きな情熱に燃える、そんな匂いが」

俺はスクーロの目をまっすぐ見据えて訴えた。目に迷いが見える。それもそうだろう、今まで敵対して、命を狙っていた奴から仲間にしてくれと乞われたのだから。

暫く迷ったうち、スクーロが絞り出すように言った。

「いいのか、この旅は危険だ。いつ何時殺されるかもわからない。夜もおちおち眠っていられないぞ」

そんなこと、今までの生活だってそうだった。あの世界にいても気が休まる時間なぞ一瞬たりともなかった。今更そんなこと、どうということはない。

再び黙り込んでしまうスクーロ。流石に無理か、それもそうだとそう諦めかけた時

「......わかった。その代わり、くれぐれも私の邪魔だけはするなよ」

スクーロは半分呆れた表情をして手を差し出す。

「あぁ、わかった」

俺はがっちりと握り返した。その手は言葉とは裏腹に優しいものであった。




「すっかり変わったな」

スクーロは月のカーテンを浴びながら呟く。以前なら仲間なんているだけ邪魔であると、絶対に断っていた。ましてや、スクーロについていきたいという物好きなんてこれまで誰一人もいなかった。それもそのはず。孤独の一匹狼として通してきたのだから。誰の助けも必要とせずに幾度となく命の危機に晒されながらも自分の知恵と勇気だけで生き延びてきた。仲間なんてなくても十分に生活ができるのだ。

それもこれも、あの人の導きなのだろう。スクーロは心の中で感謝をつぶやいた。

月明かりが、仄かに明るくなったような気がした。

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怪盗スクーロ~Phantom Scuro~ 星下 輪廻 @BOOK0418

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