6

1945年4月。戦局は刻一刻と悪化の一途をたどり、首都ベルリンも連合国の爆撃に遭い陥落寸前の状況のなか私はヒトラー閣下に呼び出された。

「閣下、失礼いたします」

ひときわ大きく厚い扉の奥、応接室には顔を真っ青にして日に日に細く弱っていく閣下と恋人のエヴァ・ブラウン、そして愛犬のブロンディが足に絡みついてくる。

まま、座り給えと促されるままにソファに腰かけた私。閣下は単刀直入にこう切り出した。

「君、この戦争は何年前にはじまった?」

「1938年、ですから7年も前です」

「そう、私がワルシャワ侵攻してから7年も経ったのだ。知っての通りはじめは破竹の勢いだった。周りの国々を我々の手中に収め、欧州統一も夢ではない、そうとさえ思ったのだ。しかし、次第に戦況は翳りを見せ始め、終いにはベルリンまで空襲に遭う有様だ。どうやら私が生きている間にこの夢は成し遂げられないだろう。そこでだ」

彼は恋人をそばに寄せると、首からロケットペンダントをとって私に手渡す。鷲十字が中央にあしらわれた金色に輝く豪華なものでエンブレムを囲むように歌曲「君は東方に朝焼けを見るか」の一節が彫られている。

「閣下としてお前に命ずる。必ずやドイツ第三帝国の建国を実現せよ!」

「はっ!」

私はすくっと立ち上がり、敬礼した。それがまさか、私がみた最期の閣下のお姿だったなんて夢にも思わなかった。

人づてに閣下の訃報を聞いたのは、それから数時間後の事だった。

あれから70年が経った。私はこの出来事を今日まで忘れたことはない。幸運なことに、今日に至るまで一度たりとも危機というものに見舞われたことがなかった。しかし......だ。

「"ドイツの星"をいただく」

数日前、そんな予告状が届いた。差出人は怪盗スクーロ。今巷で何かと話題の人物である。新聞によれば、イタリアやイギリスなどの大国から曰く付きの宝石を盗んでいるという。不可能な状況下でも必ず盗むという神出鬼没の泥棒だということが書かれていた。

「ふん、コソ泥めが。やれるものならやってみろ」

私は内心、ぼそりと呟いた。




東欧、クロアチア。首都ザグレブから車で飛ばすこと6時間。アドリア海に面する都市ザダルに着いた時には太陽は西へと傾き、空は燃えるような赤と全てを包み込むような黒に支配されていた。

「ジクムント・ケッテラー。地元の有力者であり余程の金持ちと聞いているが」

アルメリコはふんと鼻息を荒くした。元々彼はヒラからのたたき上げ刑事である。従って金持ちをあまり快く思っていないのだ。全く、金持ち風情に庶民の何がわかるというのか。

彼の屋敷は穏やかな海を臨む岬の縁に立っていた。それは古風な石造りであり土台から装飾のディテールに至るまで全て石で精巧に建てられていて、まるでドラキュラ伯爵の城を思わせるような厳かで立派な造りである。これだけ見ると美しく静かな屋敷であるが、この予告状の為に護衛隊や大量投入されたであろう地元の警察官が道に点々と長い列を作っていて事態の重さを現実的に物語っている。

「はるばるイタリアからご苦労でしたな、アルメリコ刑事」

闇の底から湧き出てくるような渋い声がアルメリコの名を呼ぶ。初老の頃だろうか、頭頂部は全体的に禿げ、白い髪に白いひげを蓄えた彼は白いスーツに白い革靴といういで立ちでアルメリコを迎えた。

「して、スクーロの狙っている"ブツ"を見せていただきましょうか」

「まぁまぁ、急いだって逃げはしない」

話を急ぐアルメリコとは対照的に落ち着き払っている彼。ケッヘラーはこちらだと屋敷の最上階、特別に拵えたと見える部屋(総統室という部屋名がかけられている)に案内した。一対のソファにテーブルが配された室内は至る家具がみな深紅に統一されていて、椅子の脚や棚の取っ手に至るまで鷲の彫刻があしらわれている。

「それで、スクーロが狙っている"ドイツの星"というのは......?」

「時は第二次世界大戦末期、総統閣下が肌身離さず首からかけていたと言われているロケットのことだ。私は閣下から密かに受け継ぎ、この70年もの間ソ連のスパイや他のコソ泥の手からこれを守ってきたというわけだ。とただ話をしているだけではしょうがない。現物をお見せしよう」

彼はテーブルに配された赤いボタンを押す。すると、部屋のカーテンが締め切られ床から全面ガラス張りの台座、そしてその中心にその"ブツ"が現れた。元々は金で出来ていたと思しきそのロケットは、半世紀以上が経過してあちらこちらに黒ずみが見て取れる。

「これがその......」

アルメリコはガラス越しにこれを見つめる。見たところなんという変哲もないロケットだ。強いてあげるのであれば、黒ずみの中に鷲の紋章と何かの文字が彫られているということばかりか。

「しかしまぁ、こんな汚らしいものを......」

「何を言うか!これは畏れ多くもヒトラー総統から賜った貴重な品であるぞ!それをお前は何と言うか!」

ケッヘラーは顔を真っ赤にして怒鳴る。

「お前はただ、警備をしていればそれでいいのだ!さぁ行け!この品がスクーロの手に渡ったら、お前を即刻アウシュヴィッツ送りにしてくれるわ!」

殺気を帯びた怒号が屋敷を駆け巡る。いけない、これは本気だ。アルメリコはうなるような罵声から逃げるように部屋から退散した。




夜のアドリア海を天高く昇った月が照らしていた。海は静かに揺れ、波が光に照らされて星のようにパチパチと瞬いている。

廊下に等間隔で設置されている柱時計は2時、屋敷は当然ながら静まり返っている。そんな屋敷にひとつ、月影に紛れて何かが動いた。そう、スクーロである。スクーロは足音を立てぬよう慎重に、かつ大胆に廊下を移動していた。昼間、この屋敷の使用人として侵入しある程度の偵察を済ませていたスクーロはわき目もふらずに目的の部屋へ一直線に進んでいった。

全く同じ造りの扉が幾つも並ぶ。そのひとつに"総統室"と札が下がった部屋。文字が月光に照らされて赤い文字が青く霞んで見える。スクーロは他の部屋よりも一層装飾が施されている扉を慎重に開いた。

室内は家具もろとも夜に沈み、燃えるような深い赤で統一された家具も今はただ闇に飲み込まれ夜が明けるのを待つのみである。スクーロは手探りでテーブルを探し当て、昼間ケッヘラーが押していたであろうボタンを押した。

と、そう簡単に物事は簡単に進まなかった。スクーロの足元の床がスポっと抜け落ちたのだ。そのまま真っ逆さまに闇から闇へと転げていく。

と、明るい部屋についたかと思うと途端にドンとしりもちをついた。

「待っていたよ、スクーロ。それにしても稀代の怪盗が無様な姿だ」

「手荒な歓迎だな、総統閣下。ゲルマン人の歓迎はみな一律にこうなのかね」

スクーロは部屋を見回した。先ほどいた部屋とはとても比べ物にならないくらい狭い部屋だ。小さな机とソファ、そして今なお赤々と燃えている暖炉の前にはウィスキーのグラスをもったケッヘラーの姿があるだけである。

「私をどうするつもりだ」

「なに、簡単なこと。このままあの慇懃無礼な刑事に引き渡せばいい。しかしこちらにもやってほしいことがあるのでね。そこでだ」

彼がこちらに振り向く。影になっていて表情は読み取れない。しかし、スクーロを利用して良からぬことをしようとしていることだけはわかった。

「君には泥棒をしてもらう。それも明日中だ」

そういって彼はスクーロにつかつかと歩み寄ると、腕を取り手首に時計を巻いた。

「この時計はただの時計ではない。翌日の午後6時が来ると爆発する仕組みになっている。勿論、外そうともすればドカンだ」

くくくと彼は冷笑を浮かべた。彼の白い歯が影に浮かんでより一層不気味に見える。

「それで、何をすればいいんだ?」

足掻けば死、ならばとスクーロは彼に問いかける。彼は続けて

「現金輸送車を奪取してもらう」

と答え、大きな地図とミニチュアの模型を取り出した。

「近々、大量の紙幣を載せた現金輸送車が通過する。それを襲ってほしいのだ。ルートは決まっている。首都ザグレブを朝8時に出発し、高速を使って南下。2時にザダルを通過することがわかっている」

「......もし仮に、だが。この仕事を断ったらどうなる?」

「勿論、その時にはここで君の身体は木っ端みじんだ。私はそれを望まないがね」

ケッヘラーは残念そうに肩をすくめ、スイッチに指をかける。

「わかった、やろう。だから押さないでくれ」

スクーロは迷った。このまま屈服していいのかと。今なら逃げることだって可能だ。しかし、腕に爆弾が付いている以上そうならざるを得ない。そう決するに至った。

「あぁ。君の働きに期待しているよ、スクーロ」

ケッヘラーはにやりと薄気味悪く笑う。スクーロはその顔をぎっと睨みつけることしかできなかった。




午前8時ちょうど、クロアチア国立銀行から支店があるマカルズカに向けて現金輸送車が出発した。

「出発時、乗組員や車両に異常はありません。至って平常です」

「そうか。輸送車にスクーロを近づけるな」

徹夜明けで翳む目を擦りながら無線で指令を飛ばす。スクーロの新しい予告が出されたという情報を得た私は至急分隊を首都のザグレブに送り、護衛の任にあたらせている。

「しかしなぜまた予告、それも現金輸送車を襲うというのだ」

うーんと頭を捻る。しかし寝不足がたたっているのか頭に霞がかかって動きが鈍い。

「アルメリコ刑事、おはよう。よく眠れたかね」

依頼主が屋敷から大あくびをしながら現れた。暢気なものだ、自分のものが狙われているというのによく悠々と寝られるものだ。感心してしまう。

「おはようございます、ケッヘラーさん」

私は目線すら向けず多少の苛立ちを覚えながら返事をした。

「スクーロが現金輸送車を襲うと予告したそうだな。新聞も各社一面に載せているぞ」

「そうらしいですな」

嫌な奴だ。権力があるのを鼻にかけて高圧的な態度をとる。もし任務でなかったらその憎い顔に拳を叩き込んでいたところだぞ。

「では頑張ってくれたまえ、スクーロの逮捕を頼んだぞ」

そうセリフを吐くと高笑いをしながら館に引き返した。


一方同時刻。現金輸送車はザグレブの街を抜けようというところだった。通勤時間帯だというのにあまり混雑もなく時間通りにポイントを通過していく。

「第一ポイント通過、目下異常なし」

上空からヘリコプターで姿を追う警官は周囲に隈なく目をやる。まるで碁盤の目のように綺麗に区画された街並みだ。その分警戒もしやすい。隅々まで見通せるからだ。ここで何百という人が何でもない日常を送っているのである。

輸送車は街を縫うように通っているハイウェイにのる。あとは暫く道なりに進むだけだ。交通量はあまり多くなく、赤や黄色の自動車が疎らに走っているだけである。碁盤の目から離れるにつれ、民家も疎らになり緑も多くなってきた。進行方向に目をやると陽の光を受けて輝くアドリア海、そして微かにイタリア半島も確認できる。ハイウェイはこのまま海岸までまっすぐに伸び、海岸線に沿って南へと下っていく。

アルメリコは気を抜くなと口すっぱく言っていたが、これだけ何も無いところだ。誰かが動けば必ずわかるはずだ。加えて地上にも数台の覆面警官が護衛している。迂闊には手が出せないだろう。

その読みは半分当たっていた。まさか、こんな大胆な攻撃に出るなんて。


そろそろここを通過するはずだ。スクーロは腕時計を確認した。現在時刻は午後2時少し前。仕掛けはもう全て整っている。あとは獲物がこの橋を通過すればいいだけである。

スクーロはたもとから双眼鏡片手にハイウェイの様子を眺めていた。口元には自然に笑みが浮かび、その深紫の両眼はキラキラと輝きを放っている。

そうこうしないうちに、早速おでましだ。鉄のような装甲に身を固め赤と白に塗装された輸送車、そしてそれを数台の覆面警官がスクーロに悟られないよう、距離を離して配置されている。

車列は次第にこちらに迫ってくる。いずれもこれから起ころうとしている驚くべきことを知る由もなく。


300メートル......


200メートル......


100メートル......


50メートル......今だ。

ドォォォォンという轟音と共にガラガラと橋が落ちた。コンクリートの破片は大きな波と飛沫を上げて沈んでいく。勿論この上を走っていた車も言うまでもなく海の藻屑と化す。

輸送車はというと、下で待機していた中型ボートの上に上下逆さまで着地した。これら全て一瞬の出来事である。

スクーロは計画成功、とひとり密かにほくそ笑んだ。そしてひらりと操縦席に乗り込むと惨劇を後目にケッヘラーの館へと舵を切った。




スクーロはボートを崖下にある彼の港に停泊させた。時間には余裕があるはずだが、針はもう5時30分を指している。

「ケッヘラー、約束の品だ」

岩を掘って作られたような薄暗い港に、声が反響する。あと30分の命、誰だって死にたくはない。それは勿論スクーロも例外ではない。どことなく震えているようだ。

「待っていたよ、スクーロ。君の活躍はあのへっぽこ刑事を通して窺っていた。どうやらうまくやったようだね」

暗闇の奥から数人の護衛と共に彼が姿を現した。ナチスの軍服姿の彼は手にロケットを握っている。

「ほら、約束の品だ。その前にその金をこっちに持ってきてもらおう」

彼はその場で立ち止まり、暗闇から声をかける。スクーロは輸送車の後部ドアをこじ開けると、現金の詰まっているアタッシェケースをふたつ両手に抱えた。

「よし、そのまま。こっちに歩いてこい......よし、そこで止まれ、アタッシェケースを降ろせ」

スクーロは彼の指示に従い、ケースを足元に下ろす。彼は歪んだ微笑を浮かべ、スクーロの一挙一動を見つめている。

「さぁ、これがその品だ。おっと動くな、こちらにはいつだってお前を爆殺できる用意があるんだぞ」

彼はつかつかと歩み寄ると、アタッシェケースを受け取った。そしてスクーロに顔を向けたままゆっくりと後ろに下がる。そして護衛の元まで戻ると、彼はにやりと口元を歪め、獲物を投げた。

「そんなに欲しければくれてやる!」

いうが早いか、それは地面に落下すると大爆発を起こす。その炎はボートや輸送車にも引火して誘爆を起こす。くそ、嵌められた。

「そこで果てるがいい、スクーロ!」

と同時に護衛の持っていた短機関銃が一斉に火を噴く。コンクリートと鉄筋がむき出しの天井や壁は一気に吹き飛びガラガラと崩落、更には無数の銃弾が煙の中を飛び交いスターリングラードの戦いさながらである。

「もういい。奴も死んだだろう」

彼は元来た道を館に向けて昇って行った。




何もかもがうまくいった。70年前のあの日の約束、やっと叶えられそうですぞ閣下。私は心の中で亡き英雄に報告した。そう、第三帝国を作ろうにも先立つものがない。閣下の遺産は死後、連合国によって略奪されてしまった。ポーランドに眠っているという話もあるが、いずれにしても今は追われている身故簡単には手が出せない。そんな時、私の元にあの予告状が届いた。しかもよくよくきくと、スクーロという怪盗は狙った獲物は逃がさない、どんなに困難な状況下であっても必ず盗むという。まさに渡りに船とはこのことだ。奴を使って軍資金を回収しようではないか。しかもこの頃、国の銀行の支店ができるというではないか。私はこの妙案を一瞬で思いついた。自分の手を汚さなくても、奴の素晴らしき腕で調達してもらえばいいのだ。

私は今にも笑い出しそうだった。こんなにすんなりと物事が進むなんてある意味計算外であった。今私の手元にはロケットも、軍資金もある。それに護衛隊やいざとなれば軍も動かせる。さて、手始めにまずどこを征服してやろうか。

ソファに寝転がるとポケットからころりと何かが転げ落ちる。みるとそれは何かのスイッチであった。あぁ、そういえば......。

「奴の身体は今頃この海の底だ。しかし......。」

しかし念のためにとスイッチを押した。




ドォォォォン......

爆音と地響きでスクーロは目を覚ました。あの男、とうとうボタン押したな。にやりと笑みを浮かべる奴の右腕に腕時計はない。あの男は最期まで気が付かなかったようだが、実はケースの側面に時計を貼り付けておいたのだ。

爆発には巻き込まれたものの、幸い瓦礫の間のスペースに身体が収まっていた為にほぼ無傷であった。奴は立ち上がるとまだ火が燃えかかっている瓦礫の間を通り抜け、こちらも崩れかかっている屋敷の中を一歩一歩慎重に進んでいく。ところどころ壁が剥がれ崩れかかっている廊下を進み、崩れて下の階が見えるほど損傷したところをジャンプで越えながら、損傷が一番ひどい部屋に辿り着いた。

ボロボロになった部屋の扉を蹴り飛ばすとそこは文字通り大惨事であった。天井や壁は崩れ、ガラスは全て割れ、部屋中の家具という家具が吹き飛んでいた。深紅の美しい色に染まっていたはずの部屋は今や鴉よりも真っ黒に染まっている。

あちこちで燻っている燃えカスは多分紙幣であろう、風に吹かれて部屋中に散っているものもあれば部屋のはじで。

スクーロは唯一この爆風に耐えたテーブルに近づくと、スイッチを押す。するとキシキシと歯車が軋む音の後に、ガラス台と共に現れたは今回の獲物、"ドイツの星"である。強化ガラスはこの爆風にも耐え、傷ひとつない。しかし所詮ガラスはガラスである。スクーロは銃底で同じ場所を幾度となく殴りつけた。けしてスマートなやり方ではないが、それでもガラスが割れ中に保管されていたロケットを手に取ることができた。

でかでかとナチスの鷲十字が中央にあしらわれ、黒ずんでいるがエンブレムを囲むように歌曲「君は東方に朝焼けを見るか」の一節が彫られているのが辛うじて確認できた。

スクーロはそれを慎重にカパリと開けた。中にはぴったり嵌るように薄く薄く加工された緋色の美しい宝石が嵌められている。奴はそれを優しく外し、ちょうど出たばかりの満月の光に晒す。月の優しい光を受けた赤色の珠は、70年という長きに渡って眠っていたとは思えぬほど美しく、また滑らかな凸レンズのように加工されているからなのか優しい光をあちらこちらに放っている。

スクーロは優しく抱きしめた。しかし、その目からは青宝がつつと伝って、頬を濡らしている。




母が姿を消した翌日、騒ぎが起こるかと思っていたが宮廷の中は平然としていた。まるで最初からそんな人はいなかったかの如く。幼子たちに食事を給仕する使用人も、着替えを担当するメイドも、門番も、極めつけは昨日まで隣で笑っていたはずの父さえも。幼い二人にはそれが辛かった。まるで母が記憶から抹殺されたようで。

彼女たちは自室にこもってしまった。彼らの無機質な目線に晒されたくない。それもそうだろう。彼らは女王を、彼女たちの愛する母を、この世から抹消してしまったのだから。

彼女たちは泣いた。泣いて泣いて泣きじゃくった。愛しい母の名を呼んだ。会いたいと叫んだ。しかしその声に反応するものは誰一人いない。母はおろか、父もメイドも小間使いも。みな幼子に反応しなかった。

何日泣いただろうか。二人は夜空にぽっかり上った月を眺めていた。大きな大きな満月だった。彼女らはそこに母の面影を見た。


―――あとのことは頼みましたよ


今は亡き母の声が聞こえてきた。

これではいけない。二人は小さい手で涙を拭いて立ち上がった。幼いふたりの目には、こんな目に遭わせた相手への復讐の誓いが滲んでいた。

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