5

ブリテン島西部、自然豊かなことで知られるウェールズ。その中心的都市であるカーディフの駅にひとりの男が汽車から降り立った。黒いトレンチコートを着たその男は、爛々とした目つきで周囲を窺っている。中心駅といってもロンドンほどにぎわいはない。しかし、夕暮れ時だからか沢山のサラリーマンや学生たちが行き来している。その一人一人に目を向けているのだ。

「プリンス・オブ・ウェールズ所蔵の〝円卓の星〟をいただく」

彼の手に皺くちゃになるまで握られていたのは、数日前に届いた予告状だ。いうまでもなくスクーロの筆跡である。この文字列を見ていると、ふつふつと彼の怒りが沸きだし次第にかっかと燃えてくる。全身がふるふると震え、拳を固く固く握り、絶対に逮捕してやるのだという気概に満つ。

―――待っていろ、スクーロ。貴様を必ず豚箱にぶち込んでくれるわ―――

「アルメリコ刑事ですか。ウェールズ警察、カーディフ署のカドワラデルと申します」

でっぷりと太った禿げかけの男が声をかけてきた。額に脂汗を滲ませ、頬はイングランド人特有の赤くそばかすのようなシミができている。彼は一礼すると、黒革の警察手帳を提示した。

「怪盗スクーロの案件で、あなたにつくようにとの命令でやって参りました」

その一言でアルメリコはふと我に返る。彼曰く、〝円卓の星〟が安置されているプリンス・オブ・ウェールズはここからそう遠くないのだという。折角だからと歩いていくことになった。

「冬の寒さは、イタリアの方がキツイでしょう。この辺りは南風が入ってくるので想像以上に温かいのですよ。とはいっても寒いことには変わりありませんが」

道端の街路樹はすっかり葉が落ち、丸裸になって凍えていた。落ち葉が北風に舞う。道を行き交う人々も、首までコートを着て足早に家路を急いでいる。ヒュルヒュルと冷たい風が吹きあげ、爪先から全身を凍らせる。アルメリコは大きなくしゃみをひとつして、体を震わせた。

「ここがプリンス・オブ・ウェールズ。テューダー家のヘンリー八世が建設したものです」

枯れ草色に染まる公園の敷地の中に石造りの建物。異質に見えるかもしれないがけしてそんなことはなく、建物は長き年月の中で風化しさらに蔦が石壁に沿って高く高く絡まり元からあったかのようだ。

カドワラデルはそんな様も見慣れたものだとテューダー家の薔薇の家紋が入った扉をあけ、館内へ入っていく。アルメリコも置いていかれては敵わないと続く。

館内は古代から中世、近世、近現代のウェールズに纏わる様々な物が展示されている。

館長曰く、この建物もひとつの展示物であり館名にもなっている「プリンス・オブ・ウェールズ」―――イングランド王子に与えられる称号―――の別荘のひとつで16世紀終わりに建てられたものだという。

そして今回の標的、〝円卓の星〟は館内最上階の角部屋に安置されている。

「ほう、これがその……」

元々書斎だったというこの展示部屋は当然のことながら窓がないにも関わらず、まるで自ら光を放っているかのごとく美しい。宝石のその名に恥じぬ輝きは、長きにわたって見る人誰をも魅力し圧倒させてきたとみえる。

「〝円卓の星〟。5世紀から6世紀に玉座に就いていたと言われている半ば伝説的な王、アーサー王が日夜離さず持っていたと伝わるものです。この地は太古の昔からアングロ・サクソン人などとの対外戦争に明け暮れ、彼も幾度となく戦地に赴きその度に勝利を収めていきました。書物によると、戦に勝利することができたのはアーサー王が日夜戦勝の感謝と祈りを欠かさなかったからだと伝えられています」

館長は幾度となく繰り返したであろう定型文をスラスラと滞りなく読み上げる。

「所謂お守りです。しかし、スクーロはなんでまたこんなものを。いやはや、悪党の考えることは理解できませんな」

館長のボヤキをよそに、アルメリコは周囲に視線を飛ばす。どうやら大掛かりな仕掛けは一切施されていないようだ。歴史的建物であり、あまり手を入れたくないのだろう。

しかし、道中に警官がひとりも立っていないようではあまりにも手薄すぎる。これでは盗んでくれと言わんばかりではないか。

「それで、奴の手からこれをどう守るおつもりなのですか?」

アルメリコは危惧の念をもって館長に問う。彼はよくぞ訊いてくれたと満面に喜色を湛え意気揚々と話し始めた。

「実はですな……」




宙から青く美しい光が、石造りの街に降り注ぐ。街灯がほとんどないこの街は月光だけが唯一の明かりであり、光が当たると経年劣化によって生み出されたこの街の独特な世界観を生み出す。

アルメリコも街中にパトカーを配置することは流石に控えたとみえ、その代りに警官を増員して警備に当たっているようだ。

スクーロは相変わらず警備の目を易々とかいくぐり、博物館の前まで到達する。問題はここからだ。相手が、具体的には我が宿敵アルメリコ刑事がどんな仕掛けを仕込んでいるかわからない。心して進まねば……。スクーロは慎重に慎重を期し、しかし何も変わった事がないようにゆっくりと忍び込む。

ホールは展示品とともに闇に沈んでいた。床全面に大理石が敷かれ、闇の底を仄かに照らす。当然人ひとり猫一匹の気配もせず、そのあまりの気味悪さからすうと全身の毛が逆立った。微かなペンライトの光を頼りに闇の中を進む。革靴のコツコツという自らの規則正しい足音だけがホールいっぱいに響く。全神経を多方面に張り巡らせ、どんな小さな変化にもすぐに対処できる体勢をとる。

しかしその緊張は杞憂だったようで、すんなりと目的の展示室に辿り着いた。こうなってくるといよいよ誰もいないことが寧ろ不自然、かつ非常に不気味に感じられる。

スクーロは赤外線グラスをかけ、さらに腕時計の爆弾探知機を作動させる。しかし、赤外線は張られていないし爆弾も探知しない。

おかしい、これではまんまと盗んでくれと言わんばかりではないか。その後、思いつく限りの様々な手を試してみたが一向に反応がない。

スクーロは慎重に右足を出した。続いて左足、右足、左足。一歩一歩慎重に踏み出しているが相変わらず無反応だ。そのうちに獲物に手が届く範囲になってもなお何もない。が、スクーロが宝石に手を触れたその瞬間、身体が大きな衝撃と共に横に押し倒される形で吹き飛んだ。手からすっぽりとペンライトが抜け、カラカラと大理石を滑っていく。冷たい床に叩きつけられ全身に強烈な痛みが走った。何か大きなものが身体の上にのしかかり身動きが一切取れない。床に転がったペンライトの微かな光がこちらを照らす。その光に映し出されたのは、一頭のクマだった。一般的に考えるそれよりも大きな個体で、圧倒的な力をもってスクーロを抑えつけている。所謂グリズリーと呼ばれる種なのだろう、凶暴性を滲ませる目が、全身を覆うダークブラウンの毛からのぞく。口の端から涎を垂らし、牙を剥き出すその様はまさにモンスターそのものである。そのモンスターがその毛むくじゃらの拳をスクーロの頬に叩きつける。避けることは当然できず、拳を顔でもろに受け止めた。二発、三発と回数は増えそれにつれて重くなっていく。口内は出血し、唾ではなく血を吐き出した。何度も抜け出そうと試みたが、一向に相手は動かず拳だけが飛んでくる。

ここでやられるものか。最後の足掻きと四肢をばたつかせる。無理に動かすほど毛むくじゃらの巨体が食い込み、更に全身を傷つける。疲れも相まって全身が次第に痺れてきた。まずい、このままでは本当に食われてしまう。頭の中で焦りながらもそれでもなおばたつかせる。

と、右手が不意に軽くなった。スクーロはしめたと獣の長い顔にお返しとばかりに一発叩き込む。勢いはあまりなかったが、毛むくじゃらの巨体は怯んで離れた。スクーロは間合いをとり、全身で息をしながら空手の構えで対峙する。だがその構えはか弱いもので、軽く押せば倒れてしまうくらい体力を消耗している。ここで戦闘すると今度こそ奴に命を狩られかねない。そこで苦肉の策であるが、その場を後にせざるを得ないだろう。

スクーロは宝石とクマに一瞥をくれると、傷だらけの身体を引きずりながらその場をあとにした。




「っ……」

重い体を引きずって命からがらアジトに戻ったスクーロは、先ほどの獰猛な毛むくじゃらに負わされた傷を治療していた。これまで数多の銃創や刃物による傷を負ってきたスクーロだが、ここまで酷い生傷を幾つも負ったのは初めてで指一本動かすだけでも激痛が走る。消毒液がいつも以上に染みて患部全体が熱を帯び、じぃんと痺れる。幾度と濯いだ筈の口の中は、未だに鉄の味がする。またどこからか垂れてきているのだろうか。いや、歯が数本折れている可能性もあるだろう。

スクーロの脳内はただ一つ―――どうしたらあの獰猛な熊を出し抜けるかということにかかっていた。

一般に、クマは気が小さいため外部からの刺激により襲い掛かってくる。しかしあれは例外だろう。あの巨体には自然に生まれ持った凶暴な性格に加えて、宝を奪おうとする輩に襲い掛かりあわよくば殺しても構わないというプログラムが人為的に組み込まれている。

一体どうしたものか……。そんなことを考えながら、朝日が差しつつあるがまだまだ薄暗い部屋の中で微睡んだ。




「やりましたな、アルメリコ刑事。奴に触れさせることなく撃退しましたぞ」

館長は得意げに満面の笑みを浮かべる。

しかし彼は知らない、スクーロがそんな程度で諦めるほどヤワな人間ではないということを。しかし、先ほど俺は襲撃現場を見てきた。石の床に染み込んで黒くなった奴の夥しい程の血溜まり、グリズリーの爪の間には赤いものと皮膚片がこびり付いている。まさかここまでやるとは思っていなかった。あれでは過剰防衛、いやグリズリーという凶暴な獣を使った立派な殺しである。

「これはやりすぎではありませんか、奴とて人間ですぞ」

「よいではありませんか。犯罪者 ヤツは人でない、人間の形をした悪魔です。あのような者がおりますと世界はどんどん黒く染まっていきます。我々はそれを阻止するためにいるのではありませんか」

痛かったな、とグリズリーにキスを落とし、スクーロに殴られた頬の傷跡を処置しながら館長は低く甘い声で呟く。

彼の理論に則って考えるなら、犯罪者ならすべからく殺してしまえというのか。彼らと言えどもひとりの立派な人である。

―――奴が殺すより先に必ず捕まえねば

手が無意識に手錠に触れた。




いつの間にか日は高く登り、スクーロの顔を照らした。眩しそうに顔を顰め起き上がる。夜中よりは良くなったが、未だに傷口が焼けるように痛い。

さて、どうするか。あのグリズリーをどうして出し抜くか。未だに疼く傷口を処置しながら、スクーロは相変わらずただそれだけを考えていた。

対人であればどうにでも対応できるが、クマそれもグリズリーとなると今までの戦法は通用しない。参った。どうしたらいいのだろうか。

あぁ、これでは思考が循環している。いつまでも答えは出ない。

スクーロは何の気なしに窓の外にふと目を向ける。どうやら今日は地元のお祭りの様で、道の両脇に多数の露店がずらりと並んでいる。老若男女のカラカラと乾いた声、特に子供たちの楽しげな声が街角から路上まで至る所で高らかに響き渡る。

さて、スクーロもそんな熱に浮かされたのだろうか。重い腰をあげ、まだ閉じ切っていない傷を庇いながら眼下に広がる黒い人込みへと混ざっていった。


祭りの中心部、中央の広場に人々が集っている。何事かと混ざってみるとケルト民族伝統の陽気な音楽と共に独特な伝統衣装を身に纏った数組の男女が、手に手を取ってくるくると陽気なダンスを始めた。観客らは拍手や指笛で場を盛り上げている。

「Shall we dance? 」

女性だろうか。恰好だけに声だけでは明確に判断できないが、これだけ観客がいる中でスクーロに白羽の矢が立った。体を気遣い一瞬躊躇った様な目付きをするスクーロだが、出されたその手を無下にする訳にもいかないとその手を取る。すると女性は群衆のなかからスクーロを引きずり出し、集団の中央でひと際派手に舞う。それにつられて拍手や指笛が高らかに響き渡り、ムードは最高潮を迎えた。スクーロ自身も全身の痛みを忘れ束の間のひと時を楽しんでいる。

と、視界にあるものが飛び込んできた。子供たちの群れである。男女の別なく群がるその中心に、あるものを売っている露店があった。店主らしき男性はある子供にはそれを握らせ、ある子供にはそれを使って得た品を袋に入れている。なんとも微笑ましい光景ではないか。

その時、脳内で点同士だった二つの事柄が結びついた。その場で固まったスクーロの身体をまるで鳩が豆鉄砲を、いや全身を機関銃で撃たれたようなものすごい衝撃が四肢を駆け巡る。こうしてはいられない。全身の痛みを忘れ、電光石火の如くアジトに駆け戻った。




また満月の夜がやってきた。今宵もまた月の美しい光が燦燦と降り注いでいる。スクーロは小高い丘の上から警備の様子を眺めていた。どうやらひと月前と変わらぬ警備のようだ。だがあの男の事である、きっと内部の警備に重点を置いているに違いない。やられたらただでは起きない男、それがあの男である。

「さて、今宵こそ……」

スクーロは大義そうにぐっと背伸びをすると警察官に扮して、警備に当たる人々の中へそれとなく紛れ込む。そして相変わらずの手際の良さで館内へ。

館内は煌々と明かりが灯り、手には警棒を、腰には拳嚢を下げた警備員が闊歩している。スクーロの侵入に気が付いているのか否かわからないが、こちらに関心を示していない。この隙に堂々と目的の部屋へ入室する。

〝円卓の星〟は相変わらず闇に沈んでいた。窓がないから当然月明かりが入ってくるわけでもなく、文字通り闇の奥底なのである。ペンライトを握るスクーロの手に汗が滲み、あの時の傷が待っていましたとビリビリ疼く。あまりの恐怖心から腰が抜けかけたがそういう訳にはいかないと両足に力を入れて踏ん張り、足音や気配全てにアンテナを張りながら一歩ずつ慎重に歩を進める。

(やはり来たか……)

宝石に手をかけたその時、体を擦る勢いでグリズリーが通り抜ける。壁際まで一直線に向かうと身をぐるりと翻し、再びこちらに向かってきた。しかしそう二度と同じ手で易々とやられるスクーロではない。懐から取り出したのは、一本の細い筒。スクーロはその片方を口にあてがうと、突進してくる巨体に対してふっと勢いよく吹いた。

ドドドドドドドドド……ドシンッ……。

グリズリーがあわやぶつかるかというところ、スクーロの鼻先数センチ手前で大理石に倒れこんだ。額には一本の細い針が刺さっている。スクーロはふうと胸をなでおろした。しかし、どうやら敵はそれだけで終わらせてくれないらしい。部屋に侵入した時からただならぬ気配を感じていた方にライトを向ける。

光に照らされて円のなかに現れたのは、目を血走らせて両脇にマシンガンを抱えた館長の姿だった。直後、彼は何事かを叫んで引き金を絞る。軽く乾いた幾つもの銃声が石造りの部屋の中で反響し、火薬の臭いが立ち込めている。辺りは再び闇と静寂とに包まれた。

と、闇の中で何かがひっそりと蠢く。それはゆっくりと立ち上がり、男の握っているマシンガンを引き抜くと武装解除する。どうやら引き金を絞るより早く、スクーロの吹き矢が命中したようだ。彼の喉元に深々と針が刺さっている。スクーロは頬の傷を拭うと、獲物を懐にしまった。さて、事が済んだら早々に退散しなければ。さっきの銃声を聞きつけてまたあの男が追ってくる。

「スクーロ!神妙にしろ!」

グリズリーの群れがまとめてやってきたくらいの大きな靴音、そして吠えるより大きな声で名を呼ぶ男が扉を蹴り飛ばして堂々と入室する。しまった、一足遅かったか。

「こんばんは、アルメリコ刑事」

スクーロは至って平気な顔を装ってゆっくりと両手をあげた。アルメリコは動くなよとスクーロに銃口を向けたまま慎重に近づき、ボディチェックをする。

「お前も遂に年貢の納め時というわけだな」

と高らかに笑う彼。周囲に目をやると、一寸の隙も逃すまいと警官たちが目を光らせている。更にスクーロの手首には手錠までかけられてしまった。これでは到底逃げられない。俎上の鯉である。

「アルメリコ刑事」

「何だ?」

捕まってもなおスクーロはあのふてぶてしい笑顔を向けて、こう言ってのけた。

「もし……もしも、あのグリズリーが目覚めていたなら、どうしますか?」

「……なんだって?」

その瞬間、その場にいる全員の視線が巨体に注がれる。横たわっている筈のその毛むくじゃらの巨体は今や二本の脚で立ち上がり、大勢の人間どもを見下ろしていた。次第に血走りつつあるその目に比例するように、警官たちの顔から血が引いていく。

刹那、鼓膜を破るような大きな咆哮が響いた。それは部屋中に共鳴し何重にも増幅して聴こえ、重く頑丈な石同士がギシギシと軋む音がする。

青白い顔をした警官たちは我先にと出口を争い、押し合いへし合いしながらどうにか助かろうとしている。そこにグリズリーが勢いをつけて突っ込んできた。もうこうなってしまってはスクーロの逮捕どころではない。それどころか自らの身も危険である。一刻の余地もない。やられた、また一本上手を取られたのだ。

「スクーロ、貴様ああああ!!!!」

彼は、グリズリーに負けず劣らずの叫び声をあげた。




スクーロに対する捜査網が敷かれている首都カーディフから車で30分、岩盤むき出しの山の中腹に強固な石造りの城があった。ここからまた少し行くと世界遺産であるカーナヴォン城があることから観光客の足はそちらに向いているようで、観光客は独りも見受けられない。みると石壁のあちらこちらに落書きがされていたりタバコの吸い殻やアルコールの缶がそこら中に散乱していたりと無残な姿で、ただただ年を経て朽ちていくのを待つのみである。

スクーロは城の屋上にひとり、月明りを一身に浴びて立っていた。月はどんなに時が経とうとも貧富や善悪、憎悪や憤怒などの別なしに我々人類を平等に包み込む。まるで聖母マリアの温かい抱擁のように。

しかし、必ずしもマリアは望んだ結果をくれるわけではなかった。そう、あの時と同じように……。




幼き姉妹にとってのマリアは、その母である。強く謙虚で、いつも夫である父を立て自らは一歩引いている。良き妻であり賢い母だった。二人には厳しくも優しく、誰よりも愛情をもって接していた。

ある晩のことだ。夜も更けて寒い最中だというのに、母はバルコニーで湯気のたつ茶を片手に月を眺めていた。姉妹は不思議そうに彼女と月とをみる。

「太古から、月には不思議な力があると言われています」

彼女は落ち着いた声で語り始めた。特に満月の日には様々な事象が起こりやすいのだという。人類の身近な天体であるが故に、そういう噂も絶えないのだろう。

「この国も月のご加護を受けてここまで統治してきました。しかし……」

暫しの沈黙。母が何を言い躊躇っているのか、幼子でも感じ取ることができた。母は月なんて見ていない。そのもっと遠く、山の向こうを見ているのだ。

「まだ幼子であるあなたたち二人に重大な任を負わせること、許してください。あとのことは頼みましたよ」

母は今までで一番優しい手つきで愛する我が娘の髪を撫でた。これまで見てきたどの表情よりも悲しい目をして。

翌日、母は二人の前から姿を消した。そして、彼女はきっと……。考えたくはないが、幼い二人にもそれはわかっていた。




気が付くとスクーロの両目からは大粒の涙が溢れていた。これではいけないと指で掬うもとめどなく溢れてくる。心にどんよりと暗雲がたれこめ、ザーザーと横殴りの雨がスクーロにふきつける。

スクーロは涙を滲ませた瞳で満月を苦々しく睨んだ。満月は相変わらず、万人に対して等しく青い光のヴェールで包んでいるだけだった。




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