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ローマから真北に500km、イタリア北東部に位置する街ヴェネツィア。“水の街”“アドリア海の真珠”とも呼ばれ古くは国の首都に、1987年に文化遺産に登録されてからは観光で栄える地だ。
その地に昔から言い伝えられる宝石がある。それが〝ポセイドンの涙〟だ。
その昔、ポセイドンはこの地で愛する妻を宿敵に殺された。それがあまりにも衝撃的で、普段強いはずの彼が生涯一度きり流した涙が固まったものだといわれているのだ。
「それを狙うとスクーロから予告が届いたというわけですか、本部長」
「あぁ、その通りだ。アルメリコ君」
本部長は窓の外を見下ろしながら答える。外には青いパトロールシップが何隻か繋がれていて、掃除の真っ最中だ。太陽に照らされ水面がキラキラ反射する。
「お任せください、宝石に指一本触れさせません」
「任せたぞ。あれはヴェネツィアの、いや我が国の宝なのだからな」
アルメリコは自信満々に敬礼し、回れ右をして部屋を後にする。と数分もしないうちに嵐の勢いで戻ってきた。
「今ここに、私が来ませんでしたか?」
何を言っているんだ、この男は。今しがた退出したばかりだろう、と訝しげに彼を見つめる。と、とたんにアルメリコの顔は茹でたタコのように赤くなった。
「来たんですね?くそ、遅かった。奴がスクーロです。私に変装してあなたに会っていたのです」
「なに?」
本部長は再び目線を窓に向ける。真っ白な小型船が爆走していくのが見えた。それは次第に遠のいていく。
「何をやっている!追え、追うんだ!」
すぐさま数艇のパトロールシップが、サイレンをけたたましく鳴らしてそのあとを追う。が、凄まじい爆音が耳をつんざいた。見ると先頭を走っていた船が爆破し、後続の船や周りの商業船を巻き込んで運河の底に沈んでしまった。
「くそ」
アルメリコは猪の如く部屋を飛び出すと、停泊中の小型船に飛び乗り船を追いかける。
だが、大通りに出ると無数の船舶の往来でかき消されてしまった。
彼は苦虫を嚙み潰したような表情をする。だがここで悔やんでばかりもいられない。今夜か、はたまた明日か、予告してきた以上奴は必ず〝ポセイドンの涙〟を盗む。こうしてはいられない、今すぐ警護体制を敷かねば。
アルメリコは気を引き締め直し、〝ポセイドンの涙〟が保管されている邸宅へ向かった。
ヴェネツィアの一等地に立つ、ルネサンス様式の屋敷。大きな窓からは数隻のゴンドラが川を上り下りせわしなく行き交う様子が覗ける。
ニッコロはこの景色を眺めるのが好きだった。自分は他の多くとは違うのだと優越感を味わえるからだ。
「旦那様、刑事の方がお見えになっておりますが」
執事が声をかける。振り向くと、大柄な体躯の男がこちらに向かってぺこりと頭を下げている。
「はじめまして、ニッコロ伯爵。スクーロという怪盗からお宅の宝石を頂戴すると予告が来ましてな、ぜひ警備をさせていただきたく参りました」
スクーロ?あぁ、先日ローマの博物館から宝石を盗んだというあの怪盗か。バカめ、ここがどこだか知っているのだろうか。
ニッコロは刑事にソファに座るよう促すと、自信げに
「〝ポセイドンの涙〟を盗もうというのかね。そんなことできっこないわい。過去にも盗人がこれを狙って侵入したが誰一人としてできなかったのだから」
と高を括る。が、アルメリコは引き下がることなく食いついた。
「スクーロをバカにしないほうがいいと思いますな。奴は盗むと予告したものはどんな手を使っても必ず手に入れます」
それでもなおニッコロは余裕の表情を浮かべ、コーヒーを啜る。
「それも今回でおしまい、この金庫から盗めるはずがない」
「へぇ、随分と自信がおありの様で。その根拠はどこにあるのですかな?」
「ふむ、そこまで言うなら我がダンドロ家に伝わる金庫を紹介しよう」
アルメリコは彼に促されるまま立ち上がり、彼のあとについていく。
入ってきた時には気にも留めなかったが、この屋敷は古代ローマの神殿を模したような造りになっている。しかし中世騎士の鎧が凛々しく立っているかと思えば、その奥にはヴィーナスの絵画が飾られていたりと色々な時代が交錯する何とも不思議な空間だ。
「凄いだろう。あのヴィーナスの誕生はレプリカでね。本物はフィレンツェにあるんだが、有名な画家に本物そっくりに模写させたものだ。本物よりも断然こちらが綺麗で好みだね」
ニッコロはその後も事あるごとに自慢げに語るが、全く面白くも何ともない。ただただ不愉快になる一方だ。
そんなに名家というのは偉いのか。1,000年以上前から続く名家だろうが、今やただの民間人だろう。
そんな言葉が喉元まで出かかったその時、アルメリコの視線が大きく揺らぐ。と同時にホール全体に響き渡るガシャンという甲高い破裂音。彼の身体は白い大理石の床に倒れこんだ。
「ごめんなさい!大丈夫ですか?お怪我はありませんか?」
真っ白なレースをあしらった服を着たメイドが、慌てて起き上がり申し訳なさそうな表情で見つめる。
「あぁ、大丈夫だ。君こそ怪我はなかったかな?」
「はい、有難うございます」
メイドは深々と一礼し、大小の破片を拾い始める。欠片のひとつに家紋らしき刺繍が施されていることから、この家だけの大切な食器なのだろう。
「きちんと片付けておけ、よいな。私は今からこの刑事さんを金庫まで案内してくる。さ、刑事さん行くぞ。」
二人の背中を見送ったメイドは、口の端にふと笑みを浮かべる。拾うのもそこそこに、ポケットから小型機械を取り出した。耳に当てると二人の声が聞こえる、感度は良好だ。
「これが大金庫ですか……」
アルメリコは鉄柵の奥にどっかり構える、重厚な金庫を見つめる。金庫はダイアル式で簡素なものだ。天井には数えるだけの防犯カメラがあるだけで、これでは盗んでくれと言わんばかりのザル警備。これでは盗まれても何も言えない。だがニッコロはまだ何かあるようで、余裕の表情を浮かべている。
「手薄だと思うだろうが、けしてそんなことはない。なぜならこの鉄柵から奥は、ここの使用人であろうと親族であろうと、私以外は一切入れんのだ。仮に一歩でも入ろうものなら、コンピュータが不審者だと察知して瞬く間に機銃で蜂の巣にされてしまう」
「ふむ、これではスクーロも手が出せまい」
アルメリコはほっとした表情を見せる。が、いつスクーロがやってきて盗み出すのか皆目見当もつかないため、最後まで気が抜けない。
「しかしまぁ……」
彼は周囲を見渡した。悔しいが流石は名家の屋敷である。ただただ広いだけのこの邸宅に、主人のニッコロとその家族たち、それに加えて使用人合わせて40人にも満たない人しか住んでいない。ここで生活している人々より、むしろ美術品の方が多いくらいだ。
「そうだろう。我がダンドロ家は代々王家の血統でな。歴代の王が集めさせた古今東西の貴重な古美術品が数多くある。並みの美術館なんぞ目ではないわ」
ニッコロは自信に満ち満ちた顔で高笑いをする。アルメリコはそんな高笑いを鼻であしらうこともせず、この館の警備について頭を悩ませていた。ただでさえ広いこの屋敷である、それなりの人手が必要だが当然割ける人員も限られている。さて、どうしたものだろうか……。
「へぇ、本人しか開けられない金庫……」
小型機械を外したスクーロは、ひとり呟いた。然しまぁ大したものを拵えてくれたものだと心の中で拍手を送りつつ、ここからどのようにして盗んでやろうかと思案する。
地下に穴を掘って中身を盗むのもひとつだが、それでは華がない。かと言って当主のニッコロを脅して押し入るのはそもそも美学に反する。
「さて、どうしたものか……」
「まず私の金庫から盗むのは不可能でしょうな。お止めなさい、悪いことは言わないから……」
気が付くと真横に、ニッコロの顔があった。彼の顔にはにやりと醜く口角を上げ、自信と嘲りの交じった奇妙な笑顔があった。
「いくら稀代の怪盗と言えど、私の〝ポセイドンの涙〟は盗めん。そうだろう?最近巷を賑わせている怪盗スクーロさん……」
驚いた。ニッコロは既に見抜いていたのだ。だがスクーロは動揺を隠し、平然とこう言った。
「必ず盗んでみせますよ、ニッコロ様……」
「その自信満々の表情……いつまで持ちますかな……」
ニッコロは嘲る笑い声をホールに残して、消えていった。
「今に見ていろ、必ず盗んでやる……」
犯行予告から、もうひと月が経とうとしている。あれから全く動きがない。
「屋敷に動きはあったか!」
「いいえ、全くありません!」
屋敷に忍ばせている者に連絡を取るも、毎回同じ答えだ。
スクーロはいつになったら動き出すのだ。まさか、あの警備に恐れをなして…いや、そんなことは無い。奴はあの厳重な警備からいとも簡単に盗み、逃げおおせてしまった。
スクーロとはそんな奴なのだ。
「しかし、これは長い。長すぎる」
アルメリコは次第に焦りと不安で表情が鈍くなり、その場をウロウロしている。何をするにもガサツで心ここにあらずのままだ。もう既に事は済んでいて、とっくに逃走しているのではないか、と余計なことまで考える始末である。
「スクーロ、何を企んでいる……」
彼は、山肌から顔を出す太陽を苦々しく睨みつけた。
ニッコロは朝からがっつりと食す。
普通イタリア人の朝食と言えば、ビスケットやクロワッサンにカプチーノかエスプレッソ等の軽いものを食すのだが、彼は硬いパンに野菜たっぷりのオムレツやサラダ、季節のフルーツのタルトに熱々のカプチーノという組み合わせだ。彼の幼い頃からずっと続けている朝食である。
「おはよう」
眩しい朝日の入る食堂に彼の姿が見えた時、洒落た長テーブルの上にはすっかり朝食が並んでいた。どれも朝日に照らされキラキラと輝いている。
ニッコロは用意された椅子にすとんと座り、硬いパンを千切る。
「旦那様、本日のご予定は……」
これも毎朝の事だ。執事が今日の日程について説明をするのである。
普段であればきちんと記憶するのだが、今日に限っては日程が一切頭に入ってこなかった。
「その予定、すべて取りやめにしろ」
「え?」
執事はぎょっとした表情で、タルトに手を伸ばす主人を見つめる。
「昨晩はよく眠れなかった。この状態で人に会うわけにはいかぬ」
「し、しかし旦那様。そういうわけには……」
「黙れ。そうしろと言うておるのだ、それがわからんのか」
ニッコロはエスプレッソをぐいと飲みきると、ドスドスと食堂を後にした。
あれからどのくらい眠っていたのだろうか、ニッコロは従者の足音で目が覚めた。その足音はばたばたとせわしく館内を行き来している。
「うるさい、静かに歩けんのか」
彼は不意に扉を開けると、足音に向かって叫ぶ。すると、執事が切羽詰まった表情で向かってきた。
「旦那様、それどころではありません。スクーロです。奴はあの金庫を破りました」
「なにを寝ぼけたことを言う。あれは私以外立ち入りできないのだぞ?」
何をバカげたことを、と口の中で呟く。が、それでも執事は真っ青な顔をして言葉をつづける。
「いえ、本当でございます」
次の瞬間、彼は金庫に向かって走っていた。もし執事の言っていることが本当ならば、それは我がダンドロ家の存続、国家の信用を失うことになる。
そうであってほしくない、これは悪い夢だ。とんでもない悪夢だ。彼は血の気の引いていく中、嘘であってくれと思い続けた。
だが次の瞬間、彼はがっくりと膝を落とす。開けられないはずの重厚な扉は今や全開にされ、中に収まっていた筈の〝ポセイドンの涙〟が忽然と消えていたのである。その代わりに、万年筆で書かれたであろう羊皮紙があった。
【〝ポセイドンの涙〟は確かに頂戴しました Phantom Scuro】
「あぁ、あぁ……」
ニッコロは全身をわなわな震わせることしかできなかった。スクーロに対する盗みの憤りだけではない。あまりに衝撃すぎて放心し、全身からいっぺんに力が抜き取られたような感覚がした。
絶対に盗むことのできない金庫は、今夜ここで破られたのである。
ヴェネツィア中心部から離れた、島々を一目で見られる小高い丘に、真っ白なベンツSL500が止まった。ボディは月明かりに照らされているからか、元の色にまして妖艶さが現れている。
スクーロは、ポケットから屋敷から盗んできた〝ポセイドンの涙〟を取り出す。純粋に綺麗だと思った。淡い水色に雫の形をした、手のひらサイズの宝石である。
スクーロはいつものように、これを月にかざした。宝石は月の青白く神秘的な光を吸収し、何とも言えぬ美しいオーラを纏っていた。
だがスクーロの目的のものではなかったのか、ほいと後部座席に投げる。手を離れた宝石は、弧を描き男物のスーツにすとんと着地した。
スクーロは席を倒し、目を瞑る。するとぼんやりとある光景が蘇ってきた―――
幼き少女2人は、その家自慢の大庭園で追いかけっこをしていた。彼女達に将来への不安や憂事なぞは陰も見せず、ただただ明るい未来が待っているとそう思って疑わなかった。
「おぉい……」
誰かが二人を呼ぶ。その声は聞き慣れたもので、安心し振り返ってぎょっとした。
「おぉい……助けてくれ……」
文字通り、火達磨が歩いてくるのだ。焼け爛れた両腕をゾンビの如く差し出して。
二人はすっかり腰を抜かした。その場から一歩も動くことすら出来ず、ただ抱き合って震えている。そうこうしているうちに、その得体の知れない化け物はどんどん距離をつめる。
あぁ、もうダメ……!食べられてしまう……!
スクーロははっと目を覚まし、これが夢である事を知った。
ほっと一息、息を漏らすと窓の外を見上げた。暫く魘されていたのだろう、月は高く高く上り街や山に薄いヴェールを張っている。
「と、そうも黄昏てはいられないみたいだ……」
遠くから、青と白のパトランプをつけた車の群れが一直線にこちらに向かってきていた。先頭車両に乗って陣頭指揮を取るのはもちろんアルメリコ。
スクーロは急いでエンジンをかけるとスタートさせ、水の都を後にした
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