3
彼がパーリア刑務所に収監されたのは、囚人達が寝静まった真夜中過ぎのことであった。
彼―――
この刑務所はイタリア西岸に面するティレニア海上にポツリと浮かんだ島で、人々は〝鉄壁の要塞〟と呼ぶ。それはけして間違いではなく、周囲を高いコンクリ壁でぐるりと囲まれたこの監獄は、脱獄不可能と言われアメリカのアルカトラズと並び称されている。
「囚人番号235、ここに入れ」
並み一通りの身体検査――持ち物は全て没収――と橙の囚人服に着替えた李は、看守に連れられ灰色の檻に放り込まれた。
「精々そこで楽しい余生を送るんだな」
嫌味な言葉を残し、看守が遠ざかっていく。残されたのは、闇より深い静けさと、囚人の鼾だった。
刹那、彼は背中に何かを感じた。彼以外はいない筈の房である。恐る恐る振り返ると、漆黒に光る二つの物体。それはしっかりと彼を見据えていた。そして低く呻くようにこう言った。
「久方ぶりだな、怪盗スクーロ。もう変装は解いてよいぞ」
「何を言う、私は李浩宇だ」
反論する李をよそに、声の主は嘲笑ってこう続けた。
「この刑務所に、アジア人は収監されたことがない。それにお前が扮するその男は、この世にはいない。十年前に俺が射殺したからな」
声の主が月光に照らされ、姿が露わになった。無精髭を生やし、全身が骨ばるほど瘦せこけた爺だった。
「それに、一番の根拠は〝匂い〟。それもそんじょそこらのじゃねぇ、大物特有の匂いだ。姿かたちをどんなに変えようと、この匂いは絶対に消えない」
さあどうだ、と詰め寄る爺に李は、はあと諦めた様に溜息をつき、地べたに座り込んだ。
「ご明察、その通りだ。それにしても変わらないな、エリック爺さん」
李、もといスクーロは、普段の砕けた声色で爺の顔を見上げる。
爺、エリック・カーラーは殺し屋である。世界各国を飛び回り、彼に狙われた者は例え一国の大統領だろうと逃れることはできない。
そんな彼が、致命的なミスをした。ひとりの重要人物を消し損ねてしまったのだ。それがもとで、捕まってしまったのだという。
「ところで、スクーロは何故ここに来たのだ?大方、狙ったお宝があるから来たのだと検討はつくが」
今度はスクーロが笑う番だった。そう、ある大きな目的のためにこうして孤島までやってきたのだ。
「
かのツタンカーメンが王冠として、クレオパトラが指輪として身に着けたものだという。
後世エジプトより発掘されたこの宝石は、オークションにかけられた。それを大枚をはたいて購入したのが、所長のアルタである。
「それを盗みに忍び込んだというわけだ」
淡々と話すスクーロの横で、エリックの顔から次第に血の気が消えた。ただでさえ青い顔がさらに青くなる。
「やめておけ、いくら稀代の大怪盗とて盗めない。収監された時に見ただろう、周囲を囲む高い壁を。それに奴らには私設警察がある。風紀を乱そうものならすぐさま消される。他にも問題は尽きない」
「任せろ、私に」
はっきりとした声でそれだけを言うと、頑なに止めようとする彼の言葉を一蹴する。
「……わかった、余程意志が固いらしい。もう止めはしない」
エリックも、これにはこれ以上なにもいうことはないようで硬い布団にもぐって眠りについのだった。
翌朝、囚人達の慌ただしい足音とスピーカーから大音量で流れるクラシックで目が覚めた。隣をひょいとみると、綺麗に畳まれた布団だけが鎮座していた。
やる気のない看守に連れられ食堂へ向かうと、囚人達は既に席に着き食事の時を待っている。昨晩は暗くてわからなかったが、見渡すと様々な囚人がいる。顔に刀傷が入ったようなイタリア人や、片腕が義手の黒人、顔中に殴り合った傷がある白人もいる。どうやらよほどの荒くれもの達が収容されているようだ。
「さあ、ここの所長のお出ましだ」
エリックの横に腰かけた時、食堂を囲むように配置されたギャラリーに女が一人立った。分厚い化粧にスパンコールのついたドレスを身に纏ったその女は、ここが刑務所であると感じさせない風体である。そして、中指には古来より輝きを放ち続ける蒼の宝石が嵌められていた。
「あれが〝紺碧の月〟か……」
スクーロの目が光る。さっと周りに目線を飛ばすと、ギャラリーの上には沢山の刑務官の姿があった。どの手にもアサルトライフルが握られ、厳めしい顔で囚人たちを見下している。
「アルタ様」
一人の下男が女に何かを囁く。無表情で聞いていた彼女だったが、目には動揺の色が浮かんでいるのがわかった。
「わかった、すぐに戻る」
アルタは慌しい足取りで、下男を連れて戻っていった。
「怪盗スクーロからの予告状?それは本当なの、デルタ」
「はい、そうでございます」
管制塔の最上階に自らの部屋を持つアルタは、肘置きのついた革の椅子に凭れながら下男―――デルタを見る。彼は懐から、一通の封筒を取り出すと中身を取り出して彼女の前に置く。
〝紺碧の月〟を頂く Phantom Scuro
小さな便箋にたった一行、そう書かれていた。
「今朝、食堂に目立つように置かれていたのを刑務官の一人が発見したそうです。差出人の名がなく、ただアルタ所長へという宛名だけがありました。」
アルタは深く椅子に沈み込み、目を閉じた。
まさかこの宝石を狙う輩が現れるなんて。しかしここは刑務所、しかもアルカトラズ刑務所と肩を並べるくらいの設備だ。盗もうにも盗めるわけがない。しかし噂には、スクーロはどんな厳重警備でもいとも容易く掠め取り、雲隠れしてしまうという。はて、どうしたものか……。
暫くの沈黙の後アルタは目を開き、デルタにこう命じた。
「拳銃の腕の立つ者、腕節に自信のある者を集めてきなさい」
「決行のチャンスは今夜だな……」
鉄柵の外をそれとなく眺めながら、スクーロは呟いた。夜空には大きな満月がぽっかりと浮かんで、柵から漏れた光がエリックの髪を照らし、さらに白く鮮明に映し出している。彼の両の瞼は閉じられ、腹は上下に規則正しく浮き沈みしていた。
「爺さん、やっぱり決意は変わらないわ。お前さんが幾ら説得しようともな」
何とはなしに、エリックに向かって呟く。それでも尚止めたいのか、硬いベッドが軋み、腕が宙を掴む。
スクーロは彼に背を向けおもむろに靴を片方脱ぐと、かかとの部分をくるりと回した。
何ということだろう、中にはデリンジャーと銃弾が収まっているのだ。
デリンジャーを手に取ると、長年積もった埃をさっと払いとる。すると、月明りに照らされ銃器本来の輝きを取り戻した。
「今夜は活躍してもらうからな……」
そう声をかけ、銃弾を装填する。その声に反応するように、更に煌きが増したように感じた。
次にスクーロは時計の表蓋を開け、長針を取り出した。その時、巡回する看守の規則正しい靴音が響いてきた。その足音はこちらへ次第に近づいてくる。
スクーロは柵の間から手を出し、看守をチョイチョイと呼ぶ。
「なんだ?」
看守が柵に近づきふと気を緩めたその一瞬を狙って、首筋に長針を刺した。看守の若く逞しい身体から力が抜け、目の前に崩れ落ちた。そう、これにはちょっとした睡眠薬が塗られていたのだ。
「暫く眠っていてちょうだい」
スクーロは看守を自らのベッドに寝かせると、看守と入れ替わりするりと房を抜け出した。
所内は闇と静寂に包まれ、スクーロの革靴の足音だけがコツコツと空間に響きわたる。囚人達はすっかり夢の中で、誰も目覚める様子はない。
「おい」
ふと声がして、肩がポンと叩かれる。まずい、スクーロはびくりと止まり、そっと後ろを振り返った。
「交代の時間だ。どうした、そんなに青ざめた顔をして」
看守がそこには立っていた。青白い顔をした仲間を見つめている。
「あぁ、大丈夫だ。ちょっと具合が悪くてな」
「そうか、今夜は無理せず休め」
助かった、スクーロはほっとした表情をする。しかしまだ安心はできない。彼に気がかりなことを聞いてみた。
「そういえば、囚人達に目立った動きはあったか?」
「いや、特には……あ、そういや終身刑の連中が管制塔へ集団で移動していたな」
「終身刑の囚人が?」
スクーロは訝しむ目つきをする。
「あぁ。みなギャングやマフィアの一味で、人殺しや死なんざ屁とも思っていない人間ばかりだ」
呼んだのは確実にアルタだろう、しかし理由がわからない。
「わかった、ありがとう」
スクーロは暫く考え込むと、片手をあげ素早くその場を立ち去った。
沢山の囚人が、アルタの自室に集められた。正確には押し込まれたと言っても過言ではなく、室内は異常なまでの熱気と男たちの荒い息遣いが詰まっている。
「それで、所長直々に何の用ですかな。こんなに手荒い歓迎をしたんだから何かあるんでしょうな?」
「勿論です。さぁここに貴方達が収監された時に取り上げた武器弾薬があります。ここであなた方は自由です」
どよめきが起こった。終身刑だと思われていた身が自由になるなんて、そんなことがあっていいのだろうか。
「その代わり、働きアリになって頂きます。反論なんて聞きません」
そういうとアルタは、壁際のスイッチを押した。すると、どこからともなくガスが噴出され部屋をすっかり満たしてしまった。暫くは動揺し抵抗していた囚人達も、ガスの噴射が収まる頃にはすっかり大人しくなった。
「さあお前たち、武器を持って立ち上がり、私を、宝石を守りなさい」
スクーロは訝しんだ。思い返せば、ここまで来る間に看守に一度も見つかっていない。私が脱獄したという連絡もない。
運がよかったと言えばそうだが、果たしてこんなに都合よくいくだろうか。
終身刑の囚人がこの管制塔に向かっていったというのも謎だ。私を陥れる為だというのはわかるが……。
突如、数本のサーチライトがスクーロの姿を照らす。急に強烈な明かりに照らされた為に眩むも、無数の人影が並んでいるのがわかる。
「くたばれ、スクーロ!」
耳を劈く程の銃声、コンクリートに無数の弾丸が突き刺さる。スクーロは横飛びに避けて、暗がりへ逃げる。
「逃げたか!追え!奴をアルタ様の元へ行かせるな!」
声を荒らげているのは、おそらくあの下男だろう。とすると当然、この場所に目的のものはない。アルタの部屋はこの塔の上のようだ。
スクーロは、素早く階段を駆け上がる。奴を弾丸がすぐさまあとを追う。
「撃て!行かせるな!」
下男の怒号と銃声、革靴のカツカツという音が内部に共鳴し、コンクリートに無数の穴を空けていく。
「これではキリがない……」
スクーロはポケットから1発取り出すとデリンジャーに装填、上に向かって発砲する。すると弾は空中で破裂、煙と強い光が四散した。
「くそ、閃光弾か。奴め、うまいことを…」
アルタは海の奥に広がるイタリアの夜景を眺める。真っ黒な背景に赤や白などの鮮やかなインクがそこかしこに点々と、滲んで見えた。
彼女は赤黒い液体を流し込む。中で液体を転がすと、葡萄独特の渋みが口いっぱいに広がった。
「アルタ様、デルタでございます」
「入っていらっしゃい」
すっと扉が開く。その奥には服や髪は乱れ肩で息をするデルタの姿があった。
「スクーロはどうなの?」
「はっ、鋭意捜索中でございます......」
「そう……」
するとアルタは引き出しから黒光りする何かを取り出すと、あろうことか彼にその口を向ける。
「な、なにを......!」
「この、役立たず」
憎々しい表情で言い放つと、なんの躊躇いもなく引き金を引いた。重い破裂音と、空薬莢が床で弾ける音、それに硝煙が部屋の中に仄かながら薫る。部屋は再び静寂に包まれた.......ように思えた。
「全く......痛いですよ、アルタ様.....」
馬鹿な、奴の眉間を割ったはず、生きているわけがない。アルタは恐る恐る振り返ると、確かにデルタが立っていた。いや、正確にはデルタではない。デルタに扮したスクーロその人だったのだ。
「こんばんわ。紺碧の月を頂きに参上しました」
スクーロは西洋貴族よろしく華麗に一礼した。この怪盗についての噂はかねがね聞いていたが、この刑務所を易々と脱獄し私の目の前に現れるなんてそんなことがまさか本当に行われるなんて。アルタはたじろぎ、瞼も動かさずにじっと怪盗を見つめた。
「紺碧の月、確かにちょうだいしました」
気が付いた時にはもう、この宝石はスクーロの手の中にあった。奴は今まさに、彼女に背を向けて悠々と入ってきた扉から出ていこうとする。
「待て、スクーロ!」
アルタの最後の足掻きなのか、拳銃の銃口をスクーロの頭部に向けた。引き金は今まさに引かれんばかりである。
「......やめておけ」
「遺言はそれだけか!」
「......やめておけ、これ以上足掻くのは」
「うるさい!」
引き金を引いた。先ほどの比ではない程の重い破裂音、そして、悲鳴が部屋に響くのだった。
「.....だからやめておけって忠告したのに」
収監時に没収された自分の武器を回収し、スクーロはその場を後にした。
遺されたのは、銃口の先に弾が詰まった拳銃の残骸を握ったアルタの変わり果てた遺体と硝煙の残り香、闇と静寂であった。
どこも欠けているところのない美しい月が、闇空を、山脈を、スクーロを照らしていた。奴は岬の舳に立ち、今しがた脱獄してきた島を眺める。サーチライトがあちらこちらを照らし、空と海には沢山の看守の目が光っている。
ふいにポケットに手を入れ、今宵の獲物を取り出した。青く美しい輝きだ。月光に照らされた海と見事にマッチしている。
そのタイミングを見計らった様に、一台の真っ黒なセダンが止まる。車内から、仕事服に身を包んだ爺がざっと顔を出した。手にはしっかりとグロックを握って。
「スクーロ、そいつを渡せ。さもなくばドタマを吹っ飛ばすぞ」
……なるほど、最初から仕組まれた罠だったわけか。道理でおかしいと思った。あんな簡単に脱獄できるわけがない。
スクーロは両腕をゆっくりと高くあげた。エリックは銃口を向けたままゆっくりとした足取りで近づき、宝石に手を伸ばす。
その時、スクーロの身体が閃きさっと彼から距離をとった。勿論その手には先ほど取り戻してきたPPKが握られている。
「大人しく素直に渡せばいいものを」
エリックの目は、ジャッカルが草食動物を狩るが如く、鋭く尖った目つきをしている。しかし往年の殺し屋としての目つきではない、これは欲に塗れた者の目つきだ。
まずい、これは確実に殺られる。ただでさえこの男に狙われて生きている者なぞ皆無なのだから。スクーロは内心震えた。
とにかくこのままでは分が悪い。状況を変えたいが運が悪いことに、舳へ立っているのだ。真後ろは闇より深い色をした海である。距離をとったとはいえ危ないことに変わりはない。
一か八か......。
「わかった。爺さん、お前にこれをやるよ。ただ、これをとることができたらな!」
スクーロは空高く投げた。宝石は月の光を浴びて、キラキラと星の如く煌めきながら飛んでいく。
「あぁ、紺碧の月!」
エリックは慌てて飛びつかんとする。が、
ダァァン……
一発の銃声、硝煙と血の薫りが仄かに鼻腔を突いた。
スクーロは、空から降ってきた月をキャッチし、遺体を見下ろす。
エリックはグロックを構えたまま、頭に赤い血溜まりを作って絶命していた。さすがにこのままでは気の毒であろう、今まで着ていた橙の囚人服を亡骸にかけた。
「悪く思うな、爺さん。これしかねぇんだ」
物言わぬ遺体に,小さく呟き,スクーロは胸の前で十字を切る。そして、月に向き直ると手にしっかりと握られている宝石をそっと月明かりにかざす。
流石は月という名を拝するだけの事はある。宝石を通して見る月の姿は、まるで夜の海中から見上げているようだ。まさに名に恥じない素晴らしい色をしている。
しかし、裏腹にスクーロの表情はけして良いとは言えなかった。奴は再びポケットに戻すと、月に向かって静かに目を瞑った。
「もういいかい?」
幼き姉妹は、いつもの大きな庭園でかくれんぼをしていた。
かくれんぼというのはいいものだ、見つかるみつからないというこのハラハラ感がたまらないのである。
胸が高鳴る。それはまるで心臓が早鐘の如く打ちつけ、今にも口から飛び出さんばかりだ。
「みぃつけた!」
あぁ…見つかった。存外早く見つかったものだとひょいと顔を上げると、全身が酷く焼け爛れた少女、いや少女の服を着た化け物ががっしりと肩を掴んでいた。掴まれた部位は、火炙りにされたが如くビリビリとした痛みを感じる。
「あぁっ……」
あまりの痛みに顔を歪め,口の端から声を漏らす。少女のか弱い肩が、ギチギチと悲鳴を上げる。
「っ……たす……け……て……」
スクーロはゆっくりと目を開ける。青白い光が強く目を刺し、一瞬顔を顰めた。ふと気がつくと頬を涙が伝っていた。どうやらあまりの恐怖に、泣いてしまっていたらしい。
スクーロはこれが現実に起きたとは考えたくない、思いたくない。あれは夢や幻と同じ類なのだと自分に言い聞かせた。
スクーロはふと振り返った。海風に乗って錆びた鉄の匂いが香る。暫く時間が経ち、赤かった血溜まりは地面に吸い込まれ赤黒く変色していた。
せめてもの手向けだ、スクーロはエリックの血に塗れた小さな手に握らせた。
「じゃあな,じいさん。向こうで会おうぜ…」
スクーロはエリックが乗ってきた真っ黒なセダンに乗って、その場を後にした。
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