第55話 田、死にかける。

 サキちゃんには申し訳ないが、気付くと俺はトイレに駆け込んでいた。慌て過ぎてて普通に開けて便座に腰を下ろしたが、「違う!」と叫んで1回出た。玄関に置いてあった鍵を取り、震える手で回して再度入る。そこはPVDO本部。チャイムを連打するとエルさんがまるで予想していたかのように出迎えてくれた。


「もうすぐ今日の試合が始まりますよ。このままだと棄権という事に……」

「もういい。とにかくタマルと管理人に会わせてくれ」


 これまでも度々管理人に対する不満は漏らしてきたが、今回は本気の怒りだ。俺は確かに管理人の出した条件を断った。はっきりと、「タマルは渡さない」とそう言った。

 にも関わらず、今日俺の家に転送された来たのはサキちゃんだった。


「分かりました。お急ぎのようですので、こちらへどうぞ」

 エレベーターを開けると、もうそこは管理人の部屋だった。やはり前回来た時に感じた建物として矛盾した構造も、エルさんの能力によるものだったようだ。何故そんな事をしたのかは分からないが、今はどうでもいい。

 俺は目を瞑ったままのエフに怒鳴る。


「約束が違う!」


 エフはゆっくりと目を開けて、こちらを見ずに天井を向いたまま答えた。

「約束?」

「そうだ。俺はタマルを渡さないとここではっきりお前に言ったはずだ」

「あなたは何かを勘違いしている」平然とエフは続ける。「そもそもあなたには少女の所有権が無い。少女の所有権はあくまでPVDOにあり、あなたにはメンターとしてその指導を依頼しているだけ」


 突き放された俺は思わず身を乗り出して1歩を踏み込んだ。確かに、俺の方から興味を持った事は認めよう。たまたま動画を見つけて過去のも漁り、ネットで情報を血眼になって探した。だがそれでも、少女を送り込んできたのはPVDO側のはずだ。巻き込んでおいてその言い草は、相手が少女だろうが覚醒者だろうが物申さなければ気が納まらない。


 その時、エフが何かをぼそぼそと喋った。はっきりと聞き取れなかったが、その言葉が聞こえた瞬間に俺の息が止まった。


「かっ……かはっ……っ……!」


 俺は喉を手で押さえながら膝を折る。姿勢を変えても状況は変わらない。もちろん声も出ない。口が塞がれている訳でもないのに、一切の呼吸が出来なくなっている。何をされた。何をされている。混乱しつつ、着実に死は迫ってくる。


「私の言葉1つであなたは簡単に死ぬ」


 俺は跪きながらエフを見上げる。肺を直接握りしめられたかのような苦しみ。


「今から説明するから真面目に聞きなさい。あなたの指導していた少女は自ら裏の世界で戦う事を選んだ。もちろん、学園に3年間通って能力の固定化を行う事にも同意した。あなたが担当している少女のメンターから解除されるのは、あくまでも前提条件であり、私が示す交換条件は別にある。それを受け入れるのであれば特別に橋本啓介が担当していた少女をあなたの所に回す。分かったか?」


 管理人が喋っている間も、当然俺の呼吸は止まりっぱなしだ。意識が朦朧としてきて、妙に眠い。交換条件も何も、おそらく俺はこのまま死ぬ。俺の存在はあらゆるデータから抹消され、知り合いの記憶からも消され、死体はエルさんの手でどこかの山奥にでも埋められる。妙に頭の回転が速いのは走馬灯なのだろうか。助かろうと必死で過去の記憶から情報を取り出している。


「分かったか?」


 死にゆく俺をエフが冷たい目で見ていた。いつの間にか俺は仰向けになって倒れ、世界が逆さまになっていた。

「エフ、そろそろやめなさい」

 誰かが言った。ああ、エルさんか。


 エフがまた何かを呟いた。その音自体ははっきり聞こえたが、何と喋っているかは分からなかった。おそらく日本語でもなければ英語でもない、人間の脳に直接干渉出来る言葉なんだろう。


 瞬間、俺の呼吸は解放された。必死で酸素をかき集める。何度も何度も、大きく息を吸って吐き、それから滲んだ涙を拭った。足が痺れていて思うように立てない。少し嘔気もする。


「分かったか?」


 何度目かのエフの問いかけ。情けない事に、俺の心は恐怖によって支配されていた。よく分かってもいないのに頷く。


「ならば話を進める。固定化する能力を3つ選びなさい。所持能力からではなく、全ての能力の中から選んで良い。お前の担当していた少女に対するメンターとしての最後の仕事だ」


 最後の仕事。はっきりとそう言われて、いよいよエフがタマルを返さない事を悟る。言い返したい。殴りかかりたい。だが次こそ俺は殺されるだろう。


「交換条件……受け入れるとは……言ってない」

 まだ息が整っていない。だが精一杯、今俺に出来る最大の抵抗をした。タマルを失うのが前提条件だと言うのなら、他にも何かを要求されるという事だ。


「受け入れないというのなら、今お前の部屋にいる少女を処分するだけだ」


 俺に選択肢など最初から無かった。

 そしてタマルは、俺が思っていたよりも遥かに強く成長していた。


 交換条件がどんな物であれ、それを俺が断るのはタマルの決意を無駄にする事に他ならない。タマルは自分を犠牲にしてでもサキちゃんを俺に託した。今の俺に出来るのは、それに答える事だけだった。

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