息をすること

第2章_第19話_生きるための

「名前がないなら、俺があんたに名前をやるよ」

——朝だった。清々しいには程遠い、だが概ねいつも通りの、赤い空の残滓が降り注ぐ朝だ。起き上がり、こき、こきりと首を鳴らし、長い手足を存分に伸ばす。正直なところ寝足りないが、余り寝汚いとあの鬼のような班長が木刀を振りかざして来るのでもう起きよう、と。白い前髪を払って雪白は起き上がった。夢のかけらがつるつると脳髄を通って、どうも夢見心地。

班長。あの小さな少年。小さすぎる体躯には合わない闊達な剣技と、心持ちを併せ持つ、自分の上司、以上の人、だろう。雪白は思う。何しろ茜なしに生きていく予定など、彼は立てられそうにないのだ。初めは手綱を引いてくれるから、そのために付いてきた。次は監視。自分という大きすぎる力を持った人間が、道を踏み外さないよう。

雪白は服を着替え、顔を拭き廊下に出る。

……だが茜は道を踏み外すどころか特権を振りかざすことすらせずに、時折雪白に申し訳ないような顔すら見せるのだ。多分自分の『鬼』を押さえつける方法があったら、自分より早く、そして必死に茜はその方法にしがみ付くだろう。良くも悪くも善人すぎるというのが、あの必要悪ぶった少年への雪白の評価だった。

「ああ、雪白。今日は早いな」

と、考えていたところに茜と鉢合わせた。雪白の寝坊助ぶりは新参のノ風でさえ広く知るところである。

「夢見がどうも」

悪かったとも良かったとも言わない。実物に会い、ほっとしている自分がいるとは尚更。

「そんなので早く起きれるんなら、毎日悪夢を見るこったな。飯ができてる。早く来いよ」

言う通り、下の方からは常にない香ばしい香りが漂って来る。食事は好きだ。朝の支度も、ベッドでの目覚めも。数年前まで想像もつかなかったものだから。人は慣れるものだが、いくら慣れても、この暮らしがひょんなことで消えてしまったらと思うと、身震いがする。

「今日はそれの出番はありませんでしたね」

と茜の提げている木刀を差す。どうも間一髪だったらしい……すると、茜は何やら意味ありげな笑い、何かを誤魔化すような、を一瞬携えて木刀をああ、まあなと背中に隠した。何か怪しいが、ここで質疑応答を重ねたところで拉致があかないだろう。そういった類の笑みだった。何より朝食が待っている。

「雪白くん! 今日は野菜と肉のスープにパンだよ!」

「早くしないとボクがお前のぶんまで食べちゃうんだからねー!」

微かな笑みを口元に刻み、雪白は「今行きます」と階下に足を向けた。


「ノ風くん、こっちも食べてくれよ」

「……そのくんていうのやめろよな」

食卓、パンを差し出した龍巳にノ風は眉をしかめた。おいノ風、と茜が咎めるが龍巳はいいんだ、と鷹揚に笑った。

「どうして嫌なのかな?」

「商品にくんとか……おかしいだろ」

茜が気色ばむが、龍巳は頷くのみに留めた。

「そうか。ごめんな、ノ風」

わかりゃいーんだよ、と口を開けるノ風は平然としている。樒に言わせてみれば道具らしいだのらしくないだのと気にするところが、いかにも人間臭いのだが、それを指摘してしまうとこいつのアイデンティティーが危うい。多分龍巳もそれを危惧したのだろう。茜は初めからノ風を人間扱いしたくて仕方ない様子だったので、今の言葉にも噛み付こうとする。

「あーかっねくん! この芋茜くんが焼いたの?」

「あ? ……あ、ああ。いつも通りだよ」

「やっぱり! ねえでも今日のこれいつもより美味しいよ」

多少無理だが割り込んだ。ノ風の積み上がったあれこれを砕くのは今ではないと、樒は感じるのだ。そうかいと笑う彼も、ノ風の心が壊れるところだなんて見たくないだろう。ノ風は何もない荒野のようでいて、その実足を踏み入れたら地面から崩れて後には空洞だけがあるタイプだと思う。まるで彼のいた地下のように。

「ところで、昨日見てきた結果どうだったの?」

樒が聞いた……空気は何も変わらないようだった。ただ茜と龍巳の間で交わされた何かを、樒と雪白は感じ取った。

「何もなかったな。ああそうだ、チューブみたいなのがあったぜ。ノ風もあれに入ってたんじゃないか。何にせよあそこに行ってわかることはもうないな」

雪白がぽつんと口を開く。

「では私が行っても? 知的興味があります」

いつもなら雪白の『興味』に敏感な茜が「地盤が危ないからもうあそこにゃ行かねえ方がいいな」と即答したので、雪白と樒はなにかあったのだと確信した。表向きは淡々とわかりました、と返すも肚の内ではさてどう聞き出してやろうかと考えている。

「それより野良だ」

パンを噛みちぎり茜は言う。パンと言えど、材料は水と小麦粉と油。固くパサついているがそれはご愛嬌である。これでかなり上等な部類だ。

「龍さんが今朝来たのは野良を誘き寄せる作戦ができたからだ。説明する」

さすがに全員の顔が引き締まった。何か隠しているのは後で暴くとして、取り敢えずは目の前の仕事である。

「今までの傾向から言って、政府の動向は向こうに割れてると思った方がいい。向こうに網を張りゃこちらで事件が起きる。だから今回はそれを逆手に取る」

茜はナイフを下に向けて握るような仕草をした。

「楠邸から柏邸に、表向きは取引ということにして金を移動させる。失えば大穴になる大金だ。警備隊からも大量に警備を突っ込む」

餌は相手が釣れて初めて餌だ。馬鹿を演じると力強く宣言する。

「楠邸の警備を薄くするがこれもフェイクだ。黒百合隊の別働班が一応警備するがな。全体的に裕福層の警備が薄くなるが、野良は商人街……市場の近くから狙う傾向がある。おそらく次に狙われてるのは欅邸だ。俺たちはそこで張る」

「狙われてる場所がわかっているなら、事前に防げないものですか」

「椿と笹の葉は主人が殺されたからな。主人は警備隊で保護する。防がずに、誘き寄せて叩くのがこちらの目的だ。なるべく多くの『野良』を殺し、出来れば大将である『トラ』を見つけ出す。そろそろ荒稼ぎしてる奴らの目的も知りたいこったな」

立て板に水。雪白は納得したように軽く頷いた。

それじゃあ、とノ風。スープをぐいぐいと飲み干して顔を輝かせた。「俺の出番だな」

「……そうだな。出来れば捕獲もしたいし、戦力も増強したいところだ。今日も買い物に行くぞ」

はーい、と揃った返事。と、食卓の全てを食べ終えて立ち上がった茜がノ風ににやりと笑いかけた。

「それから、あんたは俺と稽古だ」

「ええ! 班長が! 俺に⁉︎」

「失礼なやつだな。真剣を用意しとけよ」

しかも真剣、と悲鳴をあげるノ風に雪白と樒は顔を見合わせて、雪白は息だけで、樒は声を上げて笑った。「訓練で主人を失うとかやだよ俺〜」とべそをかく勢いで嫌がるのを尻目に、視線を交わす。(泣かされると思う?)(5は硬いですね)と。かくいうこの2人も茜の稽古を通って来たのだ。


「んじゃ、稽古を始めるぞ。適当に打ってこい」

気の乗らない様子で適当に振りかぶったノ風が、お約束通りに峰打ちで吹っ飛ばされているのを見て、買い出しに行く樒を見送った雪白は、ああ懐かしいなと感じ、観覧者に入った。あの時はあんなに余裕ぶってなかったし、剣筋も今より甘かった。だけど生き残ることにおいては雪白よりよほど闊達していた。雪白は多分それを嗤ったと思う。何て生き汚い剣法だと。浅ましいとまで感じた気がする。あの時は、それを口に出せるほど仲が深まってはなかった。今言うには相手に立ち入り過ぎている。

「その刀を殺すために振るうな、生きるために振るえ」——とは、確か自分の時も言われた気がする。

明らかに自分の方が速く練達の剣筋を持っている筈なのに、剣戟を受けられるどころか避け、あまつさえ一本取りに来た。峰でなければ死んでいる箇所だった。もちろん彼も無事とは言いがたく、息は乱れ、あちこちに切り傷が入り、限界を超えた挙動で肌にぷつぷつとあぶくが立っていて。結局殺すのではないですか、と悶絶しきりのその後で文句を言えば、生きて行く道の上で邪魔なものはなくさにゃ死ぬだろ、と頓知のようなことを言われた。その後大真面目な顔で自分の癖や隙、悪手を講義していく茜の隣で、ああこれが生きるための剣か、と思ったことを覚えている。

ノ風は相変わらず茜から一本も取れていないらしい。それどころか激しい口論に発展していた。

「打ち合いで刃を当てるな刃を! こぼれる!」

「こぼれて何が悪いんだよ! てか何がこぼれんだよ⁉︎ 刃か⁉︎」

「ああそうだよ馬鹿野郎! 切れなくなるだろうが」

「……切れるじゃんかよ!」

「指を落とすなあんぽんたん! それを押し切るっていうんだ」

「じゃあいつも押し切る!」

終いにははあと長い溜息をついて折れるぞ、と呟いた。折れたら刺す! と鼻息を荒くする彼はどうやら本気らしい。

「理想は毎回袈裟斬りで一発だ」

と茜は本気で講義の体勢に入った。これも懐かしい。雪白も基本戦法は茜に叩き込まれたものである。当の茜は初めは龍巳に剣を習っていたらしく、その後本守りの書庫で剣技を剣術まで昇華させた。

雪白は難儀なものだなあ、と空を仰ぐ。その色は白く立ち込めて赤かった。

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