第2章_第20話 そんな権利は認めない

20話

一方樒は、毒薬を買いに赴いていた。

警備隊御用達の店、『薬屋杏』。そこは一見ただの家だが、ノックを二回してからドアを開けると薬を売ってくれるのだ。

トントン、と小気味好く二回。そして扉を開く。顔を出したのは幼い見目に似合わない糸目を持つ少年だった。13、4と見受けられる。

「音々ちゃんやん。いらっしゃい」

「やほ、杏(あん)。お薬かーわせて?」

「美人さんの頼みじゃ断れないなぁ」

「色気付いちゃって、ガキ」

そうやり取りする2人の間にはこなれた雰囲気が漂っていた。中に入ると、独特の匂いのする水を出される。近頃本守りの書庫に行き詰めて物語文を読んでいる樒には、毎度出されるそれが何かようやく分かった。

「お茶! お茶だね!」

「おー、やっと気付きはりました? そうです、これが伝説のオチャです」

杏はとぼけて笑ってみせ、先に茶に口を付けた。樒もそれを口に運ぶ。香ばしさと甘み、少しの苦味が通り抜けて行くこの味が樒は好きだ。

「何でこんなものがここに? ボクは噂で聞いただけだけど」

書庫の存在を外に出すことはご法度、と樒は顔を上げて問う。いくらなんでも茶葉が大戦以前から残っていたと言うことはないだろう。

「その辺に生えてる草が元なんよ、これ。これがお茶になること知ってたってことは、うちの親がお茶屋だったんかもね?」

いつも思うが、不思議な喋り方だ。杏曰く『関西弁』なんだそうだが、関西の商人にそんな訛りは見受けられない。

(本で学んでいけばいずれわかるだろうか)

『物語を読むってことはね、幾千の人生を追憶するってことなの! 一編の物語もその人の人生を育んだ無数の物語から出来ているのよ。そしてその物語も成り立ちは同じだわ。本を通して私達は無限の生を得られるのよ』

何か本を読みたいと言った時、生き生きとした顔でそう語った本守りに惹かれて、樒は物語を手に取った。幾千の人生の中で、彼の謎も解けるのか? 途方のない話だ。

「音々ちゃん、何笑っとるん」

「笑ってた?」

「なんか嬉しそうに」

樒は一瞬意外そうに小首を傾げて、破顔した。

「いやぁ、先は長いなあと」

「何の話さ。杏くんにも教えてよー」

この少年は本守りに似ている、と樒は思う。険のない喋り方といい、浮世立った生き様といい。それが心地いいのだなんて多分、本守りや彩と出会う前では考えられなかった。世界はこんなに残酷で血生臭いのに、何を1人だけお綺麗ぶっているのかと、腹さえ立てた筈だ。世界は綺麗じゃないけれど、綺麗事は綺麗なのだ。それを偽物だと感じるかどうかはその人次第。

「それより、薬を売ってよね。いつもの毒薬が瓶1杯分と、傷薬が瓶3杯分。信頼してるんだから」

「そんなに買ってくの音々ちゃんのところくらいだよ、何しとんの? まあ用意するけどね」

たぷたぷと、紫の液体と透明に透き通った液体が瓶に詰められて出てくるので、金を支払った。因みに使われているのは主なギルドが使用している中古の硬貨である。

「2000円でいいかな」

「はーい、ありがとうさん。相変わらずきっぷがいいね」

500円玉が、分かりやすく言って金貨である。100円玉と50円玉は銀貨、5円玉に10円玉が銅貨。全てを500円玉で支払うというのはかなり破格の対応だ。バックが政府だから出来ること。ぼったくりで効かない薬を売る店が多い中、まともな薬を販売してくれるこの店に、潰れられては困るのだ。

「次も来るよ」

「杏くんは明日も命日やから、次にいるかは約束出来ないなあ。ご贔屓に」

「またそんなこと言って」

毎日が命日だ、と言うのがこの少年の口癖だった。いつ死ぬのかわからない、の裏返しだと思うが、偶発的に、そして頻繁に人が死ぬこの世においてその口癖はあまりに悪趣味だった。かく言う樒とて、明日生きているかはわからないし、ましてや近日ある作戦などは生き残る方が至難の業。……。

「会っておこうかな、本守りさんに」

なんて、と聞き返した少年に何でもないよと返し、樒は店を出た。扉が閉じてしばらく。静かに杏は呟いた。

「本守り……」


杏の店を出て、しばらく。政府に立ち寄ってナイフを補給したところで、茜にノ風、それと雪白に行き合った。

「あれ、茜くん。どうしたの?」

すると茜はいつもの仏頂面で、後ろからついてきていたノ風の腕をぐいと引っ張った。

「あんたと同じだよ。武器の補充だ」

ノ風の背中には、その華奢さに不釣り合いな大太刀が吊られている。樒は得心したように自分のナイフをひらひらと振ってみせた。上からフーデッドケープを着込んでそれらを隠せば、きのこのような姿になる。ノ風のような大振りの武器を持っているところがバレると危ういのだ。茜の姿はすとんと、こけしのようだ。こけし、と樒は絵本で見た知識を引き出した。つられてぱらぱらと落ちたかけらの中で、茜が自分にひらがなを教えていた。

「ねえ茜くん」

急に立ち止まった樒に引かれるようにして、三人が振り向く。樒は叱咤して唇の端を吊り上げた。

「次の作戦、参加しなくちゃだめかな」

茜は困ったように眉根を寄せた。

「悪いが、お上からはうちは全員、とのお達しだ。あんたの暗殺術、情報術は期待されてる。頼むぜ」

「だよね」

茜も、その命からは逃れられない。胸から喉まで氷が詰まっているような心地になった。


「ボクさー、最近本読んでて思うんだけどね。なんでこんな武器が第四次大戦以降に残ってたんだろう。大戦前はもっとカガク? が進んでたんだよね?」

場違いに明るく樒は切り出す。茜の顔が一瞬曇ったが、樒は気付かなかった。笑って続ける。

「もしかして第四次世界大戦て、ボクが思うよりずっと古代的な戦い方してたのかもだよね」

その台詞に茜は元の顔に戻る。その表情は心なしほっとしているようかにも見えた。

茜の表情の一部始終を見ていたのは雪白だ。

「だがな、第二次世界大戦頃の地球では、第三次世界大戦では核っつう強大な兵器が、第四次世界大戦では石と棍棒が使われることになるだろうって言われてたんだぜ」

「ではこの空が謎ですね」

茜はあのなあ、と同意することをやんわり拒絶した。

「謎だらけだこんな世界。言っとくがな、生きている意味やらご先祖様やら、思いやるだけ無駄だぜ。その内に飢えて死ぬ」

「ですが世界の設計を知るのは無駄ではない。窮した時、走る方向が見当違いでは困るでしょう」

「そうならないために俺がいるんだろ……黙ってついてこい」

そうですか、と静かに。雪白は引き下がった。茜は不満気にまだ口を動かしていたが、そういうこった、と台詞をしめる。雪白は、隠し事の一端に辿り着いたような気がしていた。この世界に関する重大な何か。それを茜はあの地下の工場で知り、必死に隠そうとしているのだ。それを聞き出すことが吉か凶かは定かでないが、どうもこの班長殿1人に秘密を飲み込ませているというのは気分が悪かった。

もう少し追及しようかとも思ったが、隣で「あの」と樒が、茜に向かって話しかけたので雪白は黙り込む。

「僕らはさ、君がいるから統制が取れてるわけじゃないか」

鬼の力がなくとも、振るう力は十全に危険な雪白。本来根無し草の樒。頭の弱いノ風。

だから、と樒は困りきったような、弱った顔で手を組んで、茜を伺った。

「なら、今回は君は退いててもいいんじゃないかな? 作戦前に命令してくれれば、1人いなくたってボクらは作戦を達成してみせるよ。君がいなくなる損失の方がずっと大きい」

茜は呆気に、心から呆気に取られていた。まさか樒がそんなことを言いだすとは思わなかったからだ。

「樒……矛盾してるの気付いてるか」

「だってそうじゃなきゃ君が死ぬ!」

「おい」焦った茜は樒の口をガスマスク越しに押さえた。しゅーっ、しゅーっと荒々しく息をする樒に、何人かの通行人が振り返る。落ち着け、俺はここにいる、落ち着け、樒。顔に手を当てがったまま何度も名前を呼ぶうちに、樒はひとつ震えて、茜をかき抱いた。

「行かないで。そばにいて」

茜は雷に打たれたように固まった。


「大事な作戦前なんだろ。なーんで別行動してるわけ?」

ノ風がわからないという風に首を振ったので、樒は苦笑して彼の頭を撫でた。あんがいおまえ、頭いいね。そう呟いて。

自分が彼の逆鱗に触れてしまったことは間違いない。あの後茜は誤魔化すように、だから側で、作戦を決行するんだろう? と笑った。そして、残りの武器の補充は1人でやると帰されてしまったのだ。取り乱した樒を気遣われたのは勿論だが、彼にも1人になりたい意図があったに違いない。やらかした、とは後の祭りである。撫でられたノ風はきょとんとされるがままにしていた。天然で愛嬌があって手のかかる、そんな彼に嫉妬しないでもないのだ……とまで考えて、嫉妬、とガスマスクのない唇に触れ、呟いた。自分は嫉妬しているのだろうか、ノ風に。

「樒?」

恥ずかしかった。子供のような駄々をこねる自分が、甘えきった自分がひたすら恥ずかしかった。恥ずかしくて、見ないふりをしたくて、ノ風の側から駆け出した。樒、と叫ぶように名前を呼ぶノ風を残して目指すは郊外、書庫の入口。

「死んでほしくないんだ」

入るなり吐き溢した気持ちは醜くて、醜くて醜くて蓋をしたかった。

「戦いになんて行って欲しくない、ただボクの側にいて欲しい」

だって必要としてくれた。血を吐くように樒は懇願する。

「ボクが、ボクだけが必要なんだって言ってくれた……なら、余所見しないでよ! 目を離さないでよ! 隣に、いてよ! いつも勝手に1人で死に急ぐ癖してさ……!」

ついに崩折れる。そんな樒に、きい、きいきいと、本守りは確かに近付いた。

「その誰かを、縛り付けたいのね、樒さん」

縛り、と樒が繰り返した。頰を引っ叩かれたような声だった。

「思い通りにだけ動く自分のもののようになってほしいのね? ……あなたの言っていることは、そういうことだわ」

今度こそ雷に撃たれたようなショックを、樒は受けた。自分は正しいと思い込んでいたからこそ判決が受け入れられなかった。

「違う……違う、ボクは茜くんにそんなこと……ただボクは……茜くんに死んでほしくなくて……ボクは! ボクは悪くない……」

「ええ、樒さん。あなたは悪くないわ」

毅然とした態度で本守りは言った。

「茜さんにどうあってほしいと願うのも、あなたの自由で許された権利だわ。だけどそれと同じように、茜さんにも自分の思うように振る舞う権利があるのよ」

いやいやと樒は頭を振る。そんな権利なら認めたくない。横暴でいいから引き留めたい。だってそうでないと彼は死んでしまう。

死んでしまえばもう隣で低い声を聞くことはないのだ。少し乱暴な優しい手付きで撫でられることも、あの仏頂面が綻ぶのを見ることもなくなる。あの地下に戻ることも同義の、そんなことは認められなかった。

だが、本守りは泣いたのだ。

「私だって茜さんに死んでほしくないわ」

目の前で女に泣かれたことは数多ある。娼婦には精神が不安定な者が多くて、よく胸を貸してやった。だけどこの涙はどうだ。こんなにも綺麗で胸が締め付けられる涙を樒は知らない。

「本当は出て行って欲しくない。ずっとここにいてほしいわ。でもそれは出来ないのよ。どうしてか分かる? あの人が人間だからよ。そして私も人間だから……こうして泣くしか出来ないんだわ」

全うな人道を説きながら泣く本守りは、明らかにそれに納得はしていなかったけれど、理解をしていた。それは樒にはない思考回路で、止めないで寄り添い、ただ人知れず泣く彼女に尊敬の念すら沸き起こってくるようだった。樒はとにかく彼女の涙を止めようとしたのだが、寸での所できっと睨まれた。

「あなたもよ、樒さん。茜さんが行くならあなたも行ってしまうんでしょう? やっと出来た私の新しいお友達。それなのに私を置いて行くんでしょう? ええ、ええ、責めやしないけど。……矛盾してるわね、私。実際こうして目の前で泣くのは責めていることだし、八つ当たりもいいところ。ごめんなさい、でもどうしても分かれないんだわ」

抱きしめた。

どうしようもなく大人になれない自分と、どうしようもなく大人な彼女が今この瞬間だけでも共鳴している気がして、そしてそれは美しかったから、樒は丸ごと抱いたのだ。

「一緒に泣こうよ」

声は濡れた。彼の腕の中、彼女が目を見開く。

「悪いことじゃないんでしょう」

逡巡の気配。少しして回った腕は余りにも華奢で、樒は初めて(守りたい)と強く願った。

意味をなさない嗚咽が漏れ出す。奪われることが怖くて、悲しくて、どうしようもなくて、2人でわんわん泣いた。泣いて、泣いて、泣き疲れた頃、樒がばつが悪そうに微笑んだ。

「約束するよ。ボクが必ず茜くんを無事に連れ帰ってくるから」

そう言葉に出すと、身体中に力が漲るようで、視界の全てががらりと入れ替わるようで。樒はああ雪白の強さは、敵わないと思っていた根源はこれかと納得する。本守りはもちろん、赤くなった目元で満面の笑みを見せ、頷いた。

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