第1章_第10話 破り捨てるほどに
職業や資格と呼ばれるものが、かつてはあったらしい。
今は仕事は自分で名乗るものだ。そして、大抵の人間は仕事ごとに名前を持っている。名前に拘りのない彼らにとっては、分類分け出来た方が記号として都合がいいのだ。
そんなわけで、ありとあらゆる職業のありとあらゆる名前の人間が繁華街を賑わせていた。
だが流石にこれは珍しい部類だろう。
すっと鼻を通す紙の匂い。それを塗り替えていく、透き通った泥のようなかおりが辺りに充満していた。
「こいつは驚いた。画家だぜ」
茜が言う通り、そこにシートを敷いて広げていたのは画展だった。質素な札が値段を書き添えている。が、そこにはその慎ましやかさとは裏腹に、一週間も飯を食べていけるような金額が載っていた。
だがその価値はあると思われた。その絵の色々たちにはそう思わせる力があった。
まず目を引くのは空だ。
中央、一番大きなキャンバス。そこに贅沢に絵の具を使って描かれたのは山の裾野に広がる夜明け寸前の空だった。上から黒、紫、紺、藍と移り変わるいろは、裾野で透明な水色を孕んだ灰色になり、稜線は黄金に輝いている。
もちろんこんな空は現実で見れたものではない。空はいつでも灰赤色だ。だが、これはきっと本物以上にうつくしい、と思われた。心を揺らすいろだった。
「茜くん? 大丈夫かい?」
「んっ、ああ! すまん龍さん、呆けてた」
我に帰った茜は他の絵も見渡す。小物の絵から人物画とレパートリーは多く、ほとんどは葉書大(サイズだけが伝わっている)で、そう高くもなかった。
「これが家にありゃ、確かに心が浮くな。いい絵だ」
「商売になるのも納得だね」
昔は繁華街で働いていた樒のお墨付きである。売れないはずがない。事実、画展には人集りが出来ていて、茜たちはそれを一番外側から見なければならなかった。
「すごい人気だなあ。しかし誰が描いたんだろう。茜くん、欲しいのある? 僕が買ってあげるよ」
「りゅーうーさん。子供扱いはやめとくれっつったろ」
呆れて、だが優しく笑って断った茜に、雪白が何か言いたげに手を伸ばす。それに気付いた茜が雪白を振り返った瞬間。
「帰って!」
劈く様な叫びが轟いた。
なんだなんだトラブルか、と色めき立つ人混み。単純な興味で茜たち一行はそれをかき分けた。
肩で大きく息をしているのは小さな少女。
まさかこれ、あの子が描いたの? と囁く樒に合わせる様に、セミロングの少女は目をいっぱいに見開き、目の前にいる男性に叫んだ。
「あなたに売るあたしの絵はない! 帰って」
それは毅然としたというよりもヒステリックな声で、その声が益々人を呼び寄せ、男は顔を紅潮させた。
「絵の具なんざ、その身体でどう稼ぎゃ買えるってんだ、ええ? どうせカラダ売ってんだろ! お綺麗ぶるなや!」
言うなり一番近くの絵を取り、破り捨てる。
「何するの‼︎」
悲鳴。激昂。小さな少女が自分よりもふた回りも大きな男に殴りかかる。
そして。
水音。けたたましく水滴が男を叩いた。
「…………雪白、1つ聞いていいかい」茜は今日何度目かの呆れ顔だ。
「なんです」
「なんで水を浴びせた」
「一番早いかと思いまして」
バケツを持った雪白が平然とそこに立っていた。
水浸しになった男は一瞬呆気にとられたが、フードを取り払った警備隊隊長──龍巳の姿を目に止めると、そして彼ににこりと微笑みを向けられると、苛立たしげな舌打ち1つとともにずんずん帰っていった。
周りから歓声が上がる。やるなにいちゃん! 龍巳! お前最高だぜ! だのと。
何かと目立つ風貌である龍巳は自らの立場を思い出したのか、茜に合図をして去っていった。
「さっきまでは見てただけのくせに」樒は半眼で冷たく吐き捨てると一転、脱力して座り込んだ少女に、優しく手を差し伸べた。
「うちの乱暴者のせいでお客さん引かせちゃったらごめんね。立てる?」
「……うん。ありがと」
先程までとは違う、気怠げで柔く、まろい声の少女は、樒の手を両手でとってゆっくり起き上がった。
「あなたも、ありがとう。助かった」
フードを深くかぶった雪白に少女はぺこんと頭を下げる。その幼い仕草は14、5といったところか。雪白は顔を逸らして、事も無げに「災難でしたね」と呟いた。
「別に。……破り捨てるくらい、あたしの絵が無視できなかったんだ。むしろざまみろだよ」
その強気なセリフに茜が身動いだ。なんと強い。武力ではない、己のこころのみで戦う人間の言葉の何と重いことか。
「少し濡れたろう、悪いな。代わりと言っちゃなんだが、絵を見繕ってくれないか」
茜も穏やかに話しかける。男4人じゃあ部屋が殺風景なんだと茶目っ気たっぷりに肩をすくめると、少女も少し笑った。
「嫌」
「えっ」
「へっ?」
すでに店の裏で財布を出していた龍巳まで固まった。
少女は、怒っていた。
少女は心なし冷ややかな口調で「そんな代わりみたいに買われたくない」と茜を睨め付ける。
「あたしの絵はあたしの絵が欲しい人が買うの」
身震い。感銘。茜は深く頭を下げた。
「────悪かった! すまない。俺はあんたの絵がすごく好きだと思った。だから欲しいんだ、悪い。あんたを侮辱する様な言い方をしちまった」
心底悔いた口調に慌てたのは少女だ。
「えっ、あっ、その、……真っ向から謝られると困るってゆか、……こっちこそお客さんにこんな態度とってごめんなさい。どうぞ買ってください」
ほっとして茜の顔が上がる。
「ちょうどいいのではないですか」
突然雪白が言い出して茜は驚いた。
「何がだい」
「青空。……夢なのでしょう」
「あんた……覚えてたのか」
短すぎる言葉をやり取りする2人の間。割ってはいったのはノ風だった。
「なあ! あんたは何て名前?」
「あたし? あたしは、イロ。彩りって書いてイロって読むの」
「ふーん……俺は、のかっ」
言いかけた彼の頭が地に落ちる。拳を下に降り下げた茜はにこやかに「こいつは颯太(ふうた)だ。俺は新哉(しんや)。あんたに水をぶっかけちまったのは砂湯(さとう)で、起こしたのが音音(おとね)だよ。さっきは本当に悪かった」と早口に告げた。表向きの彼らの名前である。
視界の端では樒が「お前有名な傭兵なんでしょ⁉︎ バカなの⁉︎」とノ風を叱りつけていた。
そんなことには気付かず、彩は小さく頷いた。ほんのりと顔が赤い。
「シンヤは空が好きなの?」
「……この浮遊毒物はまっぴらだけどな。普通の空は好きだぜ」
「なら……これ、とか。どうかな」
気怠げな口調、だが緊張気味に差し出されたのは祭り前の夕焼けの絵だった。両手でささげ持たれた腕には何故か包帯が巻かれていたが、それ以上に目を引いたのはその絵だ。
透明感のある黄金に、ぼんやりと光る藍色の提灯が下がっていて、森の向こうは、
「茜色」
樒が華やいだ声を上げる。
「優しい赤だよね。私この色大好き!」
「うん。……あたしもこの色は好きだよ」
そして茜に向きなおる。
どうかな? そう聞いた、瞬間。
茜色が燃え上がった。
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