第22話 羊刈り(狩り)


「もう暗くなり始めてるなぁ……と言うかそろそろ他のプレイヤーとか現れないのか? ソウルオルターやった人は例外無く来ると思ったけど違うのかな?」


 既に日は落ちていて辺りは僅かに残る夕日の残光が照らすのみ、その残光を背に受け、アキラはこの世界に連れてこられたのは自分だけではないと、蓮との会話で確信していた。


 しかし、実際に他のプレイヤーらしき人物とは未だ接触していないアキラは、その考えを置いておく。


 お腹が満たされて落ち着いてしまったせいか、精神的にも肉体的にも疲弊してしまい、溜まっている物が吹き出したのか、眠気が襲ってきた。もうアキラは考えることも動く力も殆ど残っていない。


「あぁ……ホーム行って寝よう……もう限界みたいだ」


 立っているにも関わらず、頭がうつらうつらと船を漕ぎ始めていた。




 即座にホームの自室に帰ったアキラは、なんでもいいから寝具は無いのかとナシロに相談していた。


「…レイアウト…えと……ベッドと炬燵こたつが…後……家」

「家具あるんだ? ってか家ってなんだよ」

「…ある」

「だから家ってなんだよ、まぁ取り敢えず出せるなら出してくれ」

「…お金…かかる」

「まじ?」

『ナァ』


 レイアウトには量にかかわらず1回1000Gかかると教えられたアキラは、眠気で限界だった頭で思い出す。


「あぁ~そういえばレイアウト無料券があったな」

「…それな……はよう」

「何言ってるかわかんなくても意味が通じるってなんだよ、ほら」


 アキラが報酬で手に入れたレイアウト無料券をナシロに渡そうとする……が受け取らない。仕方なく押し当てると収納されたのか、レイアウト無料券は消えた。


「少しは動けよ」

「…管理人様は……動かない」

「…」

「…ほぃ……出した」


 気がつけば壁の隅にベッドが用意され、炬燵が中央に置かれている。なぜかベッドの足元の方には止まり木とダンボール、その中には毛布が入っていた。


「おい! レイアウトさせろよ!」

「…大して……無いでしょ」

「いやそうだけど…はぁ眠いしいっか」

「…ナシロも……寝る…おやすみ」

「オヤスミ!」

「あぁ、おやすみ」


 アキラが寝ようとしたのを見たメラニーが、ナシロの首輪を掴んで持ち上げた。ナシロが就寝の言葉を告げた瞬間、メラニーが「オヤスミ!」と言いながらナシロをダンボールで作られたスペースらしき所に放り込む。


 毛布に着地したナシロはクッションの落ちる音が聞こえる勢いで毛布の上へと着地した。


 ナシロを放り込んだメラニーは、当たり前のように止まり木に降り立って寝始めた。首が沈んでふわふわな羽毛に頭を静めて、目を閉じている幸せそうな雰囲気を漂わせるメラニーは凄く愛らしい。

 ナシロは普段と全く変わらないので、逆に寝ているか心配な位だったが。


 アキラはベッドの上に敷かれたシーツを掛け布団にして潜り込む。木製の簡単なベッドの上には、硬くても最低限の柔らかさのあるマットレスが敷かれている。

 この世界で安心して眠れることに贅沢にさえ感じられた。


(まさか……家ってホーム専用管理小屋のことだったのか?)


 あまりにも貧相な様相に疑問を覚えるも、ナシロもメラニーもまったく気にしていないのにアキラがどうこう言うわけにはいかなかった。


(機会があれば新しいのそれとなく勧めてみるか)


 そうして初めての世界で少し早い夜を迎えて、アキラの激動の一日は終了した。






 1つしか無い窓から朝日が差し、部屋の中に光が広がる。薄暗い部屋が太陽の暖かさで満たされ、落ち着いた空気と小鳥のさえずりが癒やしの目覚めとなってアキラの意識を刺激し、覚醒を促す。


 未だ完全には目覚めていないが、その耳はしっかりと小鳥のさえずりを捉えていた。


『チュンチュン』

「お前かよ」


 やけに鳴き声が近いとぼんやり考えていたアキラは、それが止まり木に居るメラニーだとわかればツッコんでしまうのは仕方が無いだろう。

 そんなメラニーは鳴いていたのに寝たままだ。


 ゆっくりとベッドから降りようと足を外に投げ出し、床に降りる。ざっと辺りを見回すと、ベッドと止まり木とダンボールに炬燵こたつがある殺風景な部屋を見て、ふと自分の服装を見た。


 牧草や泥をそのままにしていたため、麻の服は上下共に汚れ放題だった。そのまま就寝したせいで、ベッドを土で汚してしまう。


「朝からやっちゃったよ、はぁ取り敢えずリペアしとくか」


 ベッドのことを嘆きつつ、アキラはリペアで服と身体を綺麗にした。清涼感を感じながら、ふと思い出す。


「俺、もしかしてこのまま飯食いに行ったのか?」


 日本人なら汚れた服で店に入ること自体忌避すべきことだ。そもそもこの年になって汚れることはほぼ無くなったとしても、普通ならやらないだろう。


 逆に言えばそれ程余裕がなかったとも取れるが。


「受付の人とか顔見知りってわけじゃないから、指摘してこなかったんだろうな……。食事処の娘もフレンドリーだったのに、俺がしんみりしちゃったから言い辛かったんだろう、きっとそうだ」


 気にしていない可能性もあるのだが、敢えてその可能性は外しておく。


「…アキラ……お腹空いた」


 いつの間にか起きていたナシロが空腹を訴えてきた。アキラはそんなナシロの言葉に疑問を感じる。


「おはよう、起きたら挨拶ぐらいしろよな。所でお前腹減るの?」

「…おはよう…ございます」

「…」

「…」


 アキラは辛抱強く待つ。


「…減る」

「その一言をなんで時間掛けて言うんだよ。まぁいいや、そう言えば昨日二匹でなんか飲んでたもんな、またそこに行けば?」

「…外出の……設定…弄って……欲しい」

「なんだそれ? そんなのあるのか、どうやってやればいいんだ?」

「…………へっちゃん」


 ナシロが沈黙の末、ヘルプを呼び出した。ナシロは、アキラに理解してもらう努力を欠かさないのだ。

 そんなナシロに驚きではなく、呆れを感じるアキラはヘルプを読んで理解する。


「お前はヘルプに愛称付けてどうするんだよ、取り敢えずわかったよ。お前らが外に出るには俺と一緒か、常に設定で許可しておく必要があるんだな」

『ナァ』


 アキラはホームの設定から管理人と書かれた項目の設定を常に外出できるように計らう。そんなこんなで時間を潰しているとメラニーも起きる。


「アキラ! オアヨウ!」

「違うぞ、オハヨウだ」

「オハヨウ!」

「おう、おはようメラニー」

「ゴハンホシイ!」

「お前もか、自由に外出れるようにしたから出てもいいけど……そうだ」


 アキラはクエストの報酬のホーム管理人用豪華餌セットを1つ取り出す。見た目は正方形の手の平サイズの箱だった。


「ナシロこれお前ら用の豪華なご飯らしいんだけどどうやって使うんだ?」

「…くれ」

「お前は喋り方もう少しなんとかしろ」

「…うん」

「……」


 何かを掛け違えた気がする会話を終えて、アキラは持っている正方形をナシロに放り投げる。


 ナシロは尻尾でその正方形を地面に叩きつけると、そのブロックが小さく複数あるブロックになって散り、その小さな箱から光が少し漏れると、段々とその形を変える。


 1つはチューブ状のスティック、他のブロックはミルクらしき液体が入った猫用の皿が出て来る。


 それだけでは終わらずにメラニー用なのか、極小サイズのカステラが数個出てきて、鳥用の受け皿には生米と細かく砕いたピーナッツが入っていた。


 ナシロはスティックを加え、牙を突き立てて中身を出す。どうやら食べられる筒らしく簡単に破けてそれを味わい、中に入っている粘度の高い餌を舐めている。


 一方のメラニーは止まり木からジャンプで降り立ち、一瞬で食卓に着いた。それからのメラニーは食事の速度が尋常じゃなく早い。


 頭を下げて餌をついばむと、高速で振動している。どうやら気に入ったらしく、頭を上げれない位に夢中になっていた。


「俺も飯行ってくるから後は自由にしててくれ」

『チュー』

『カカカカカ』

「……どんだけ夢中なんだよ」


 アキラがホーム管理人用豪華餌セットは特別な時にだけしようと心に決めた瞬間だった。


 そして思う。


「結局世話してるの俺なんじゃ、まぁいいか」


 噴水広場で食事をしたいが、まだアキラにはシステムが良くわからず、ハードルが高い。それにまだ朝なのに食事が出来るかもわからない。取り敢えずは噴水広場のテーブルに座って時間を潰して様子を見ることにした。


「とは言っても普通に人居るな」


 朝食を取りに来る人が多いのか、それなりに人が集まっていた。席についたアキラに出前をしているらしき子供が近づいて来るのを見ると、まだ心の準備が出来ていないアキラは、観察を忘れて流れに身を任せることにした。


「おはようございます! こちらのメニューをどうぞ!」

「……ありがとう」


 出前っぽいと言ってもキッチンから多少離れたファミレスと変わらないのかと考えたアキラは、渡されたメニューをざっと眺める。


 野菜や魚と言った色々な屋台の名前と共にメニューに載っている。アキラは昨日見た【肉食通り】の肉を思い出す。


 串焼き肉が無性に食べたくなったアキラは、メニューからそれらしき物を探し出して注文した。値段も300Gと書いてあり、昨日の報酬が全て無くなってしまったが、後悔は無いと心で納得する。




「お待たせしました!手間賃込で320Gです!」

「!」


 アキラは出前料がかかるとは一切考えていなかったため、動揺が一瞬だけ顔を出す。しかし、すぐに落ち着いて相手が差し出してきたカードを、アキラもポケットから取り出して重ねる。一瞬光ると会計は済んだ。


「ありがとうございました!」

「また頼むよ」


 頭を下げて席を離れる子供を見て、アキラは内心ヒヤヒヤしたままだった。そして残金も残り9Gになってしまう。


「取り敢えず……食べよ」


 運ばれてきた串焼きの盛り合わせは同じ串が5本程だが、それなりの大きさを確保している肉だった。


 肉だけ食べると、若干の血生臭さを感じるが殆ど気にならない。むしろその溢れる肉汁はご飯が欲しくなるほどだ。次は肉と香草を一緒に食べてみる。


 噛む度に溢れる肉汁は香草から抜け、胡椒に似た香りのお陰で綺麗に気になっていた臭みのみが消えている。朝から串1本で肉汁だけをうまくいただける贅沢を楽しめた。




 5本全てを腹に収めたアキラは、多少物足りなくても満足の行く内容にほっと一息付く。昼食もしっかり取りたいと考えているアキラは、一段落した後依頼をこなすためにギルドへ向かう。




 ギルドのウエスタンドアを押し開けたアキラは、早速最後の依頼へと向かう。これが終わればクエストもクリアされるだろうと考えて掲示板へと向かった。


「最後のロット依頼はこれ……ね、ウルフよりは強く無さそうだな」



【ファーンシープの討伐】

達成難度:☆

達成条件:北門付近のファーンシープから取れる【植木羊の肉】を15個納品する。

失敗条件:7日経過時点で15個の納品が確認されていない。

受託期限:なし

詳細:保存のかめを購入後、素材買取出張所に納品してください。素材買取出張所で貰う納品書を15個分提出していただければ依頼達成です。


報酬:初心者セット引換券1、1050G



 ロット依頼に向けてカードをかざしていつもの音を聞きながら受領所へと向かう。


「これ願い」

「お預かりします」

「少し聞きたいんだけど、保存のかめって何処で買える?」

「ソナエ道具店に売っていますよ」

「助かったよありがと」


 聞きたい内容を聞いて、手早く手続きを終えたアキラは、すぐにソナエ道具店へと足を運ぶ。当然ゲンゴロウが歓迎の口上を述べると、アキラを覚えていたのかすぐに注文を聞いてきた。


「おう、確かアキラだったな。何をお求めで?」

「保存の瓶ってのが欲しいんだけど、予算無いから値段だけでも聞こうと思って」

「なるほどなるほど、ファーンシープだな? それにしても、お前さんもう生産依頼終わらせたのか?」

「見かけによらず力持ちでね」

「ほぉ、こいつぁ将来が楽しみな新人さんが入ったな! 保存のかめだったな、あれは今の在庫だと3種類有るんだが、懐が寂しいならこいつだな」


 オブラートに表現した経済状況をぶち壊しにしながら紹介したのは、使い捨て用の保存の瓶だった。


「こいつぁ使い捨て用の保存の瓶なんだが、安く手に入る割には使い勝手のいい代物だぜ。値段も8Gだ」

「それじゃそいつを1個くれ」

「おいおい使い勝手はいいが、1個じゃ肉は3つしか入れらんねぇぜ?」

「……1個しか買えないんだよ」

「そ、そこまで金がねぇのかよ。取り敢えずほら、受けとんな」


 ゲンゴロウがアキラに使い捨ての保存の瓶を手渡す。受け取った保存の瓶らしきものを見ると、手のひらサイズの小さな壺の形をした革袋のように見える。


 その革袋は小さく嵩張らないため使い勝手がいいと言っていた理由を察する。口を広げて物を中に入れるようだ。すぐにカードで支払いを済ませたアキラは、一言告げて行ってしまう。


「それにな、俺には1個あれば十分なんだ」

「あん? そりゃおめぇ、一体全体どういう…って行っちまったか、なんだ殆ど納品でもしてんのか?」


 ゲンゴロウの疑問だけがその場には残った。




 ソナエ道具店を後にしたアキラは、昨日入ってきた南門とは反対方向の北門へとマップを頼りに向かう。


 門の出入りは特に何も言われないようで、すんなり外に出ることが出来た。そこから軽くジョギング程度の速度で走ると、10分もしない内に息が乱れ始めた。


「はぁはぁ……ど、どうなってんだ? 昨日は疲れたりなんか……ってもう呼吸落ち着いたな」


 アキラは昨日の小走りで全くと言っていい程疲労を感じなかった。汗もかかなかったのに、少しジョギングしただけで汗は出てきて呼吸も乱れていた。


 昨日は必死だったが、アジーンの門に着いたことろには酸欠になる程度には疲れていた。小走りでは息も乱れず少し走れば体調は崩れる。


 そこでアキラは疲れない程度の小走りを始めた。ファーンシープの名前を見つけるが放置して走り続ける。


 途中で折り返して走り続けるが、やはり息は乱れない。早く走ると当たり前のように呼吸は乱れるが、小走りにするとすぐに息が整う。


 このことからアキラは、この体にスタミナが設定されていて、そのスタミナがある限りは体調に異変は現れないと仮定した。


 ステータスには表示されず、自身で把握しなければならない裏ステータス的存在にアキラは動揺を隠せない。


 現実ではペースを守れば10分とは言わず、軽く乱れた呼吸を維持しながら数キロは走れたのだ。


 しかし、今ではいつものペースで走っただけで、10分が経過する前に呼吸が乱れる。


 ウルフの時に酸欠のような症状が出ていたのは、無我夢中で呼吸が乱れても気にしていなかったからだろう。


 無理やり走ることは出来ても、その隙はいつか致命的な失敗を生み出す気がしてならない。


 アキラはそんな不安を抱えつつも、小走り程度なら未だに限界を知らないで動き続けられる。

 その事実を有効活用しつつ、スタミナがあるならそれを上昇させる方法を考えようとした。


 鍛えれば伸びるかもしれないが、今は金策とクエストをこなすことが優先事項なのだ。


 自身の体調を認識したアキラは、先程見かけたファーンシープの元へと近寄る。羊ならなんとかなると考えているのが目に見える行動だ。


(思った通り近づいても何もしてこないし逃げもしないな)


 ファーンシープは見た目が植物の葉っぱらしき物を大量に体に付けている羊だった。おかしな所は毛が一切見えないと言う点だ。そしてアキラは勘違いに気づく。


(葉っぱが巻きついてるんじゃなくて、葉っぱが生えてるのか! ……これ食っても大丈夫なのか? 体から葉っぱが生えてきたりしないのか?)


 通常余程生命力が強くなければ、人間という塩分と水分の塊から植物が生えてくる等殆ど無い。ましてや胃酸で溶かされるのだ、栄養となってすぐに消える運命なのだが、そこは性格なのか、余計な心配は尽きない。


 アキラが余計な心配を置いて、ファーンシープに触れる。撫でるように触ってもファーンシープは草を食べ続ける。


 アキラを共食いに近いんじゃないか? と思いつつ、触っても近づいても逃げないなんて本当に野生なのか疑わしいと思いながら、多少の罪悪感を抱いてシヴァを召喚する。


 気軽に挨拶してくるような感触と共にアキラは優しく声を掛ける。


「それじゃいくぞ」


 自分を落ち着けるかのように声をゆっくりにして目を瞑る。


「大丈夫、スーパーに並んだジンギスカンなら何回も食べてきた。これはその工程を1つか2つ前に戻って俺が処理するだけだ。バイヤーを通さないで現地で調達するだけなん……あぁ待ってくれシヴァ急かすな!」


 召喚されたシヴァがいつまでもアキラが自分を使わず、喋りかけても来ないので疑問を浮かべる感情をアキラに伝えてきた。


「わかった、わかったよ。すぐ終わらせるから待ってくれ……ふぅ引き金を引くだけだ。それで全て終わる。大丈夫、いずれ慣れる。俺はもうウルフ倒してるんだぞ?」


 アキラが言葉に出して勇気を振り絞っていく。ゆっくりと引き金に指を掛け、銃口をファーンシープにゆっくり近づけて触れる。トリガーをゆっくり絞るアキラはその間にも罪悪感を抱えたままだ。


(すっげぇ無防備な生き物の命を奪うって、え? これ本当にやっていいのか? 不安でしょうが)


『ドカァン!』


「わぁあ!」


 発砲したアキラは考えごとと言う名の罪悪感に夢中で、シヴァのインパクトドライブをそのまま実行してしまった。その音に実行した本人も驚いている。


 それを尻目に銃弾を打ち込まれた羊は呆気なく光の粒子となって消え、アイテムボックスをその場に残した。シヴァの銃口から立ち昇る硝煙が、立ち尽くしたアキラの顔を撫でる。


「……」


 アキラは無言でアイテムボックスをバッグに入れ、シヴァに対して「おつかれさん」と一言呟いてから仕舞う。シヴァはアキラに何かを感じたのか、仕舞われる時も何も伝えることは無かった。


 ウルフのように切羽詰まった状況での殺生ではなく、無防備な生き物を殺す感覚にただただアキラの心は動かなかった。


 罪悪感はどこかへ吹き飛び、自分は取り返しのつかない何かをしてしまったのか? それすらもわからない。


 正体不明の喪失感に力が入らなかった。5分位そうしていたのか、漸くアキラは下を向いていた顔を上げると、一言自重めいた呟きを吐き出す。


「俺って……結構デリケートだったんだな」


 自重すらアキラらしさが出ていなくもないが、本人は至って真面目なのだ。そんな一言を呟いてアキラは顔を上げる。


「よし! いつまでも落ち込むなよ、俺は絶対家に帰るんだ!」


 アキラが本来の目標を掲げて自身を励ます。金を稼いでその場暮らしをするなら、生産なり収穫で稼げばいい。こうすればこんな思いはしなくて済む。


 当然そんな選択肢は有り得ない。帰るのを目標に掲げているのに、それから遠のく行動をどうして取れようか? 一生をここで暮らす選択を取るなら何の問題もない。


 これは当たり前だが、アキラに妹を見捨てるなんて選択肢は存在しない。考慮に値すらしなければ質問文としても出てきてはいけないのだ。


 もしそんな質問が出てくるのは自身が弱いから、努力が足りないから、決意が鈍いからに他ならない。


 たかが羊1匹屠るのに大袈裟かもしれない。ウルフを倒したのに何を今更と考えられる。


 しかし、強いられた状況の中で確かな一歩を、自身の力で踏みしめる覚悟はアキラにとって絶対に必要だった。


 たかが1匹の羊に落ち込む気持ちも不可欠だ。心を折らずに進むには“まだ耐えられる”環境を維持し続けるしか無い。


 二匹三匹と続けて倒していけば、いずれ慣れてしまう。人なのだからそれは当然だが、この経験は最初だからこそ得られる。アキラは自身の心に“これからも似たようなことが起こる”覚悟を持つ準備が出来た。


「さぁ…続きだ!」


 アキラは小さな小石に躓いたが、再び歩き始める。その人生に立ち塞がる壁が現れるまで。

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