23.もう戻れない!優人と由香利の苦しみ
ちょうど由香利が教室に入った時には、五時間目の授業が終わった後だった。こんな時間に学校に来る事を珍しがったクラスメイトたちが、由香利に好奇の視線を向けた。しかしその中に、他の意図がある視線がちらちらと混じっている事に、由香利は気づいていなかった。
「由香利! 大丈夫なのか? っていうか、なんでこんな時間に学校に? 休んでりゃいいのに」
「いいの、ちょっと用があったから」
「用って……由香利、来ないほうが良かったのに」
「えっ?」
恩が声を潜めて言った言葉の意味が分からず、由香利はきょとんとした顔をした。
「カノジョじゃん」
「よかったじゃん、カノジョ元気じゃん。榊乃クン」
教室の奥のほうから聞こえてきた、男子の言葉の意味を考えるのに時間がかかった。
そして、言葉の中にあった「榊乃クン」という、嘲りにも似た言葉に気づいた時、思わず隣の席を見た。
優人が居た。前よりもぼろぼろになった教科書を手に、耐えるような横顔をしていた。
「付き合ってるんでしょ、天野さんと榊乃クン。だって天野さんって、榊乃クンのストーカーだったじゃん、あっ、これ言っちゃいけなかった?」
今度は女子の声だった。クスクス笑いが聞こえてきて、つい声のほうへ顔を向けてしまった。よく見ると、彼女は4年生の時に、由香利をいじめたグループの1人だった。
「いいじゃんヘンジン同士、気が合うじゃん」
「ヒューヒュー、お似合いですよー」
ストーカー、カノジョ、カレシ、付き合った、コクった……まるで罵倒なのか呪文なのか分からない言葉が教室中に溢れ出ているようだった。
何か言いたかったが、由香利の直感が、何も言ってはいけないと警告していた。言ったが最後、辛いのは自分と、優人なのだと。由香利はぐっとこらえ、優人の事も、あえて見ないようにした。
「おい、お前らいい加減に……」
恩が身を乗り出すが、由香利は慌てて服を引っ張って制止し、無言で首を振った。
「私知ってる。神崎さんって4年生の時に、暴力ふるって他のクラスに入れなくなったんでしょ」
「うっそ、私知らなかったんだけど」
「神崎さんって合気道やってるんだよね、男っぽいなって思ってたけど、そういう事なんだ……」
固まって集まる女子グループが、ひそひそ話すのが聞こえてきた。ちらりと恩を見ては、申し合わせたように声を潜めてしゃべっていた。あれはひそひそ話じゃなくて、わざと聞こえるように言う言い方だった。同じ事を、4年生の時にもやられた事を思い出した。
「……卑怯者。あんなの、私、気にしてないから」
由香利にしか聞こえないように恩は言う。しかし、その拳が震えている事に由香利は気づいていた。
「なあ、聞こえてねえの、榊乃クン、カノジョ、泣いちゃいそうだよ~」
「やめろよ、その前にカレシの方が泣いちゃうだろ、ハハ」
「なあなあ、チューしたの? なあ、したの~?」
男子数人が、優人を箒の柄でつつきながら意味の無い質問をしていた。
箒を使うのは、皆、優人に触りたがらないからだ。それでも優人は耐えていた。しかし、今にも爆発寸前の目つきをしているのが見えた。
クラスに居る全員が敵みたいだった。しかし実際にはやし立てているのは数人でしかなかった。残りのクラスメイトの大半は無視を決め込んでいた。
薄情ではあったが、由香利とて立場が逆ならば同じようにしていただろう。しかし、今の由香利は、どうしよう、どうしようと、頭の中の選択肢を選んでは消し、選んでは消していた。そして、1つの結論を出した。
(自分の気持ちに嘘、つけない……!)
気持ちを振り絞って、男子の持つ箒を無言で取り上げた。「なにすんだよ」驚きと嫌悪の顔になった男子に吐き気を催したが、我慢した。
「やめてよ、こんな事」
声は震えていた。でもこれで、少なくとも恩には被害が及ばなくなる。そう考えた。
「なんだよ、質問してただけじゃん。なんか文句あんの、偽善者ストーカー女子」
最後に男子が言った言葉に、一斉に笑いが起きた。
どうやらそれが、由香利の新しいあだなのようだった。そして同時に、由香利は自分もいじめのターゲットにされていた事にようやく気がついて、一瞬にして頭に血が上った。今すぐにでも変身して、この教室一帯を壊し、燃やしてしまおうかと激昂しかけた、その時だった。
「いい加減にしろ」
ぼそりと呟いた声に、皆が驚いて声の主を見た。俯いてばかりだった優人が、がたんと席を立った。今まで反撃らしい反撃をしなかった優人の行動に、皆が一瞬言葉を忘れた。
そして風が吹いた。開けっ放しにしていた窓に、びゅうと風が入った。そして、真っ青に晴れた天気のはずなのに、大型台風がいきなりワープして現れたかのような暴風が窓を叩きつけた。びりびりと震える窓に驚いて、窓の近くに居た女子グループが積み木倒しのようにこけて倒れた。優人の傍にいた男子3人が、窓から入ってきた突風をもろに受けて、後ろに転び、柱の角で頭を強く打った。
罵倒と嘲笑をしたクラスメイトが、ことごとく倒れたり痛がったりして泣いて喚いていた。カーテンは風圧でずたずたになっていた。
あまりにもありえない、そして見た事の無い
「せ、先生、呼んでくる!」
何も被害の無かった恩だけが、冷静になって先生を呼びに走った。由香利は一瞬、自分がやってしまったのかと思ったが、その力は自分のものではなかった。自分の激昂が治まる代わりに、とんでもない事実に気づいて言葉が出なかった。
優人と目が合った。その目は紫色に光っていた。クリスタル・ベータの共鳴が強く由香利の身体を貫く。そして優人は、黙ったまま教室から出て行った。
「榊乃くん!」
異変に気づいた他クラスの児童や先生が騒ぐのを横目に、由香利は優人を追いかけるために走った。
クリスタル・ベータの共鳴を頼りに、由香利は学校の廊下を駆け抜けた。授業が始まるチャイムが聞こえたが、そんな場合じゃなかった。
学校の裏庭と呼ばれる林の前までたどり着くと、あたり一面に植わっている砂防林の松の木が、高いところから低いところまで、縦横無尽にズタズタにされていた。こんな事が出来るのはたった1人しか居ない。
見上げればつむじ風が、優人の身体を宙に浮かせている。そのつむじ風の力は、明らかにロスト・ワンのものだった。
「榊乃くん! やめて! 力を使わないで!」
由香利は優人に向かって叫んだ。これ以上、優人を壊したくなかったし、被害も増やしたくない。まだ間に合う。重三郎と早田にお願いすれば、きっと何とかしてくれる。由香利はそう考えていた。
「お願い! 元の榊乃くんに戻って!」
「ごめん、もう、戻れない」
喉の奥から搾り出すような声だった。由香利を見下ろすその顔は、何故か微笑んでいた。
「なんで、どうして……」
「僕は僕でなくなるんだ、もう、僕は元に戻れない。怪物なんだ」
「怪物なんかじゃないよ、榊乃くんは榊乃くんだよ!」
由香利はかぶりをかぶった。喉をからして叫んだ。届かないと分かっていても腕を伸ばした。この手を取って欲しかった。しかし優人は手を取る様子は無かった。首を横に振り、由香利の言葉を否定した。
「――さよなら、僕は本当のロスト・ワンになるよ」
その言葉に、由香利の全身は凍りついたように固まった。その間に、優人はつむじ風に包まれて姿を消した。残ったのは、ズタズタになった松の木と、放心し崩れ落ちた由香利ただ一人だった。
優人が学校を飛び出してから、教室は荒れたままだった。授業は当然中止、怪我をしたクラスメイトは病院に運ばれ、残ったクラスメイトも、念のため病院に行くよう促され、直ぐに下校させるということになっていた。
あまりにも突然の事で怯える子供が多いので、学校は保護者の呼び出しを行い、付き添って下校するようメールを送信した。
事情を知る由香利や恩は当時の様子について詳しく聞かれた。しかし、まさか優人が能力を使いました、と説明できるはずもなく、真実を知らない恩と同じように、何も知らないと言う他になかった。
母に迎えにきてもらった恩を見送り、空虚な気持ちを抱え、重三郎や早田を待った。教室以外の場所に居なさいと言われたので、図書室へ行こうとした。担任の先生は優人を探しにでていたが、どうせ見つからないのに、とぼーっと考えていた。
図書室へ向かう途中、てんやわんやになっている職員室の前で会話が聞こえてきた。
「榊乃優人の母と連絡が取れない」「あそこは固定電話ではなく携帯電話」「昼間は居ると資料にはあるが」「あの人、お水系ですよ。職業」「今電話出たけど、だめだ。話にならないよ。ありゃ、酒飲んでるな」「どうする」「どうするって」
頼りにならない大人たちの話を聞きたくなくて、逃げるように図書室へ急いだ。
図書室には司書の先生がカウンターに座っているだけだった。
「大変だったね」
司書の先生は事件を知っているのか、由香利を慰めてくれた。静かで低い、優しい声が、何となく優人の声を思い出させて、涙が出始めた。
「いつもの男の子はどうした。大丈夫なのかい。ああ、無理に言わなくていい。心配なんだよ。君たち、よくここに通っていたろう」
先生の言葉に由香利は頷いた。
そう、一緒に居た。2週間の間だったけど、毎日じゃなかったけど、確かに一緒に過ごした時間があった。
「あの男の子、本が好きみたいでね。四年生の時からずっと図書室に居たよ。片っ端から読んでたね。最近じゃ、たぶん新刊ぐらいしか、読む本がないんじゃないかな。それぐらい、彼はここの事を知っていたよ。僕に負けないくらいにね」
いつも寡黙な先生が、妙に饒舌だった。由香利の気持ちを和らげようとしているのだろうか。
「特に、宮沢賢治が好きだったみたいだね。あれだけは何度も繰り返し読んでたよ。一回だけ、話をした事がある。感想を聞いてみたんだ。あの一回こっきりしか、返事をしてくれなかったけど」
「何の話、だったんですか」
由香利も幼い頃、宮沢賢治の物語をよく読みきかせで聴いた。早田の優しい声で語られると、とても真実味のあるものに思えて、不思議な気持ちになったり、怖くなって重三郎のベッドに駆け込んだりもした。
セロ弾きのゴーシュ、銀河鉄道の夜、注文の多い料理店、そして――。
「『よだかの星』だよ。自分も、よだかのように、燃えて星になりたい、って」
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