19.どうして逃げるの?優人の拒絶

 優人にやっと追いついたのは、げた箱だった。まだ雨が降っているというのに、優人は傘も差さずに外に出ようとしていた。

「榊乃くん!」

 由香利の声に、優人が静止する。肩で息をする由香利は、急いで上履きから靴に履き替えて、優人のそばまで駆け寄った。

「榊乃くんは、大丈夫、だった? あの、さっきの……」

 さっきの衝撃をどう表現したらいいのか分からず、由香利は語尾を濁す。

 優人は口を閉ざしたままだった。そして、由香利の事を無視して、外に出た。

「ま、待って!」

 由香利は傘立てから自分の傘を探し出すと、優人を追いかける。びしょぬれになりながら歩く優人まで追いつくと、傘の中に優人を入れた。

「濡れちゃうよ……途中まで、一緒に帰ろうよ」

 優人の歩みが止まった。安堵したところで、由香利はびしょぬれになった優人の髪の毛に気がついた。ポケットからハンドタオルを出すと、そっと撫でて水滴を拭った。由香利にとっては、いつも家で重三郎や早田にやってもらっている事を、自然にしただけだった。しかし。


「触らないで」


 鋭い言葉が投げられた。同時に優人は首を振って、由香利の腕から逃げた。

 強い拒絶に、由香利は呆然となった。言葉がナイフの様に胸に突き刺さったようだった。


「もう、いいから」


 追い打ちをかけるような言葉を捨てるように吐いた後、優人は傘から出て、走り去った。由香利は追いかける事も出来ず、その場に立ち尽くすままだった。



***



 雨でぐちゃぐちゃになった処分場の中で、優人はランドセルを抱えてうずくまっていた。服も気分もぐちゃぐちゃだった。廃棄物でバリケードを作る余裕さえ無い。過呼吸気味の息を吐くが、なかなか落ち着く兆候は無かった。

(一瞬、自分が自分で無くなった)

 指が触れた瞬間、あの雷のような衝撃を優人も感じていた。そしてその後、一瞬だけ記憶が飛んで、気づいたら、目の前には、戸惑いと、恐怖の入り混じった、由香利の顔があった。

(あの子は、僕を怖がってた。まるで、最近良く見る、夢みたいに)

 優人は連休が明けた頃から、毎晩夢を見るようになっていた。


 それは、自分が自分でない別人――成長した自分のようにも思える青年――に変身し、色々な人たちを襲う夢だった。襲われる人たち皆が、変身した自分に恐怖し怯えていた。


 しかし、優人にとってその夢は、居心地の良い夢でもあった。強大な力を持つ自分、他人を征服する快感、そして、何処からか聞こえてくる甘い声は、そんな自分を褒めてくれるのだ。

(今、とっても夢の中に行きたいよ)

 強く口を食いしばって、優人は願う。夢の中の自分は最強だった。世界の王だった。誰も彼もが自分を恐れ、いじめる事は無かった。

 そこまで考えた優人の脳裏に、が浮かんだ。

 ふと考えてしまった。その世界に、は居るのだろうか。

 雨を拭ってくれた、柔らかいハンドタオルの感触が蘇り、優人は思わず手を伸ばした。

(本当は嬉しかったんだ。追いかけてきてくれたことも、傘を差してくれたことも……でも、僕は、そんなことを、される人間じゃないんだ)

 優人は傘を持っていなかった。あの家に彼の傘は無いのだ。

 濡れた身体を拭く、柔らかいタオルだって無かった。それは母のものであり、優人が使う事は許されなかった。

 優人のものは何も無い。それは、唯一母が教えてくれた事だった。今抱えているランドセルでさえ、兄が親戚からもらったものだったが、形が気に入らないという兄の一言で、埃をかぶっていた品物だった。

(僕の事は、誰も気にしないし、誰も好きにならない。だから、僕も、誰も気にしないし、誰も……好きにならない)

 なのになんで、の怖がった顔を見た瞬間が辛かったのか。


「……あのまま、僕の事を嫌いになればよかったんだ。なのに、なんであの子由香利は、僕を追いかけた! 僕の事を呼んだ! 僕に触った!」


 溢れ出る感情が抑えられず、閉ざされていた口が開く。それはやがて、雨音と入り混じって慟哭に変わった。

 そして、さらに大きな声で叫ぼうとして息を吸い込んだ瞬間、胸が酷く痛んだ。

「ああっ……!」

 全身をバラバラにされるような痛みに耐えられず、優人は気を失ってその場に突っ伏した。



***



 酷く沈んだ気分だった。由香利の頭の中では、優人の声が繰り返し響いている。


「触らないで」――刺すような言葉。

「もう、いいから」――押し戻されるような言葉。


 腕はだらんとだらしなく下がり、傘を差す事さえ忘れていた。

 いつの間にか家の玄関までたどり着いていた。そこで初めて雨の冷たさを覚えて、身体を震わせ、家に入った。すると、由香利に気づいた重三郎が居間から顔を出した。

「あっ、お帰り由香利……って、あれ!? なんでそんなにずぶ濡れなんだい!? 今、タオルを持ってくるから、待ってるんだよ!」

 髪の毛から水を滴らせる由香利を見ると、重三郎は風呂場まですっ飛んで行った。そしてふかふかのタオルをたくさん持って再び現れると、優しく由香利の髪を撫でた。

 嗅ぎ慣れたタオルの匂いと、優しい感触がした。

「なんで……なんで……」

 こんなに優しい温もりなのに、どうして優人に拒絶されたのか、分からなかった。 コップから水が溢れ出るように、由香利の目から涙が溢れだした。

「わかんない、わかんないよお……!」

 わあわあと喚く由香利の異変に気づいた重三郎は、何も言わず、由香利を抱きしめると、居間へと促す。

 ソファに座らせると、紅茶のティーバッグで即席のロイヤルミルクティを作り、未だ涙を流す由香利の前にマグカップを置いた。

「よかったら飲みなさい、身体が暖まる」

 由香利の隣に座り、肩を撫でながら重三郎は言った。由香利は重三郎の言葉を聞くと、マグカップを手に取った。

 しばらく口をつぐんだままだったが、由香利はぽつぽつと、事の顛末を話し始めた。重三郎は黙ってそれを聞いてくれた。

「……私がした事、迷惑だったの? 榊乃くんにとっては、とても嫌だったの?」

 助けたいと思った。それはユカリオンに変身して、異次元モンスターから人々を守る事にも似ていた。自分にしか出来ないのだと思っていた。

「由香利、優しさっていうのは……愛っていうのは、すべてが相手に伝わるっていうのは、実は難しいんだ。ううん、感情っていうのは、うまく人には伝わらないものなんだ、由香利なら、分かるはずだ」

 こくりと由香利はうなずいた。伝わらないから、いじめて、いじめられた。この世界はそんな風に出来ているのだと言う事を、思い出した。

「榊乃くんに、伝わってなかったのかな……。勝手に構って、うるさかったのかも。もう、何もしない方がいいの……?」

「うーん、そうとは言い切れないな。だって、人を寄せ付けない子が、由香利が隣に座る事を許していたんだろう? 本をわざわざ、渡してくれたんだろう? それが、彼にとっての、精一杯の感情の表し方なんだよ。お父さんには、何となくそれが分かる」

「どうして?」

「お父さんも、かつてそうだった。由利と……お前のお母さんと、出会わなければね」

 父と母の出会いは、中学校の頃、同じクラスだったのがきっかけだったという事しか聞いた事がなかった。

「僕も、友達もいなくて……まあ、いじめとまではいかなかったけど、クラスで孤立してた。でも、ちょっとしたきっかけがあって、由利が僕を変えてくれた。由香利、優しさは時に、暴力よりも深いナイフのように突き刺さる。痛くないはずなのに、その人にとってはとっても痛いんだ。優しさだと分かっていても、それでも痛い時がある。優しさだと分かっているから、拒絶して、逃げ出したくなる」

 重三郎は遠くを見るような顔をし、ひとりごちるように言った。

「分かっているのに、逃げ出すの?」

「うん。怖いからね。その子の事を好きになって、でももし裏切られたとしたら。そのときは、もっと悲しいから」

 いつもふざけている父の過去に、そんな事があった事自体が驚きだった。

「でも、お父さんは逃げなかった」

「んー。なんていうか、逃げられなかった、が正しい」

 重三郎は破顔し、照れくさそうに笑った。

「逃げる事も忘れたよ。それくらい、由利はお父さんの世界を変えてくれたんだ」

「世界を、変える……」

 抽象的な言葉だった。ただ、何となくだが、重三郎の言わんとする事が分かる気がした。

「由香利がやった事を、すべて正しいと、お父さんは肯定出来ない。それが、軋轢あつれきを生む事だってある。人によっては、偽善者と呼ぶだろう。でもね、由香利……」

 重三郎が由香利の頬を撫でて、涙を拭う。由香利には、その大きな手が、暖かくて安心を覚えた。そしてしっかり目を見て、重三郎は言葉を続ける。

「由香利が逃げたら、その、榊乃くんという子は本当にだめになってしまうと思う。だから、彼を信じなさい。とても難しい事だが、由香利は出来ると思うんだ。確かに、すべてが受け入れられるとは思えない。でも、と思う。お父さんはそう思うけど、どうだい?」

 重三郎はにっこりと由香利に笑いかける。屈託のないその笑顔は、いつも由香利の背中を押してくれていた。

 由香利は手に持ったマグカップに口を付けた。ほのかに甘いそれが、由香利の気持ちをほぐしてくれた。

「私も、信じてみたい。後悔しないために」

 言葉に出して言うと、勇気がふつふつと沸いてくる気がした。

 明日会ったら、前と同じように声をかけよう。

 応えてくれなくてもいい。自分の気持ちに嘘をつきたくなかった。

「それでこそ私の可愛い娘だ! さあ、そろそろ早田が買い物から戻ってくると思うんだ。今日の夕食はなんだろう――」

 重三郎と同じように、うきうきと夕食の事を考え始めた矢先だった。


 どくん、と由香利は胸に痛みを覚えた。

 

 思わず由香利は胸を抑え、それに気づいた重三郎からは、すっと笑顔が引いた。

【奴らの気配だ!】

「お父さん、異次元モンスターの気配がする……!」

「なんだと!? しかし行けるのか、由香利」

「うん、大丈夫。もう平気、私、行けるよ」

 由香利は涙を吹き飛ばすように拭った。いつまでもメソメソ泣いていられない。もうすぐそこまで、危機は迫っているのだ。

「そうか。頼む、由香利。行ってくれ。どのあたりだ」

「西のほう。そんなに遠くないはず。だから走っていく」

「わかった、近くまで一緒に行こう。ああ、早田に連絡しないと」

 声を掛け合いながら2人は出かける準備をし始めた。

 由香利はブローチをしっかりと胸のリボンにつけ、重三郎はイミテーション・アルファ製の武器が入ったアタッシュケースを手にして、玄関を飛び出した。

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