第二十二呪 Fate Slave
頭の中に流れ込んでくる未来の映像。
見知らぬ人が、またどこかで死んでいく。叫び声を上げながら、目を見開きながら、四肢を投げ出し、びくりびくりと痙攣し、動かなくなっていく。
未来を視るという発作は、桜にとって苦痛以外の何物でもなくなっていた。
「……っ」
朝になり目が覚めて、発作が起こると気分は最悪だ。人の死を目の当たりにしてしまうというのはいつ見ても気分が悪くなるのに変わりないが、一日の最初に見てしまうとなおさら気分が滅入ってしまう。
「ん……あぁ、おはよう桜」
隣で目を覚ました
はりついた瞼の間から見える桜の表情は暗く淀んでいた。
「……どうしたんだ?」
「なんでもないわ」
桜はベッドから抜け出して、クローゼットを開き中に入っていたワイシャツに手早く袖を通していく。
「あなたも早く服着ないと、風邪ひくわよ」
「んー……あぁ、そうだな……んっ」
シーツを引き剥がし、骨に皮が直接貼り付いただけのような身体を起こす赫遺。血圧が低く朝に弱いせいで、彼はまだ眠たげにうなだれている。
桜はベッドサイドに置かれていた煙草の箱から、煙草を一本取り出して口に咥えた。
「……煙草って、そんなに美味しいかい?」
「もう味にこだわって吸ってるわけじゃないわ。ルーチンワークになってるのよ、体が依存しちゃってるから」
ライターで火を点け、一口目の白い煙を吐く桜。
赫遺は鼻を鳴らして、桜の口元をぼんやりと見つめている。
「……あなたも吸ってみる? 頭と肺を蝕んで、いい現実逃避になるわよ」
「あぁ、いや……だいぶ昔に吸ったことがあるんだけど、むせ返るほど不味かった思い出がなぁ……うーん……一口だけ、いいか?」
「ええ、どうぞ」
桜は煙草を口から離して、吸い口のほうを赫遺に向けて手渡す。
赫遺はそれに口を近づけて、頬をすぼめて煙を吸い込んだ。吸い口から口を離し、空気によって煙を肺に押し込んでいく。そしてため息をつくように、薄白い煙を吐いた。
「……旨いな。今の煙草ってこんなに旨いものなのか」
「大人になって、味覚が変わったんじゃない?」
煙草を咥えなおして、桜は部屋を歩く。テーブルの上に置いてあるコーヒーメーカーに手を伸ばし、慣れた手つきでコーヒーを作りはじめる。これも彼女のルーチンワークの一つだ。
吸い口を深く咥えて、下唇と歯で挟むようにして煙草の先端を上へ向ける。うつむいた際に煙草が下を向いていると目に染みるからだ。
「……んっ」
いつの間にか起き上がっていた赫遺は、桜の背後まで近づいてきており、両手で桜の華奢な身体を抱きしめた。
「……あぶないからやめてくれないかしら」
「なぁ桜、俺と桜は似てるよな」
「何の話よ、いきなり」
赫遺は目を細めて、桜の後ろ髪に口元をうずませてぼそぼそと呟き始める。
コーヒーを作る手を止めて、桜は特に身じろぎすることなく赫遺の話に耳を傾けた。
「桜は死の未来が視えるから……運命の残酷さを良く知ってる。世界に訪れる死が回避不可能だということも……だからこそ、運命を憎んでる」
「……そうね」
「俺も同じさ……人間に平等に訪れる死を、人間が平等に恐れるように、俺自身も死が怖い。……だから、死の恐怖から解放されたいがために、まわりくどい計画を立てて。無限の命を得るために、他人を利用するのも
「……私たちも、その利用される他人なんでしょう」
ディスオーダールームで過ごしてきた桜は、既に気付いていた。赫遺が集められた呪質持ちを単なる道具、手段としてしか見ていないことを。
奇しくも赫遺のその本心に気がついたのは、赫遺に心を開き身体を許したのと同時期だった。いや、心も身体もゆだねるほどに親密になったからこそ、赫遺の心の奥にあるモノに気付けたというところか。
赫遺は散々、ディスオーダールームの住人たちにこう説明していた。『呪われた体質を何とかして解き、みんなを助けてあげたい』と。しかしそれは、当初、桜や
桜や死晴は、呪われた体質などどうでもいいと思っている。いや、どうでもいいとは思っていない。他の住人に比べれば、優先順位が低いと言った方が正しい。桜はこれまで幾度となく視てきた人の死を憂い、人間から死を無くしたいと考えている。死晴も重要視しているのは、呪いを解いた後の自分の命についてだ。死晴に関しては、無限の命を得ることが前提でもある。
だが、他の住人はそうではない。そもそも赫遺から無限の命についての話を聞いていないし、恐らく興味も無いだろう。ただ呪われた体質をどうにかして解き、普通の生活を送りたいというのが共通の意識だろう。
だからこそ赫遺は、無限の命について言及しなかった。効果的に住人たちの精神を捉えるために。いや、それも理由の一つだろうが、もう一つの理由の方が大きい。
何故なら赫遺は端から、無限の命を全員に与えるつもりなど無かったのだから。
桜の問いかけになっていないような呟きを聞いて、赫遺は少し黙り込む。
「……薄々気づいてたわよ。このディスオーダールームに集められた人間が、どういう役割を持つのか。……あなたは色々と難しい事を話すけど、結局は自分一人が助かりたいだけ。他人を巻き込むだけ巻き込んで、目的が果たされれば吐き捨てるような人よ、あなたは」
「そこまで見抜かれてるのか。さすが、俺が気に入るだけはあるな……桜」
赫遺は薄笑いを浮かべながら桜を抱きしめていた腕を離す。離れる際に、桜が咥えていた煙草を指ですっ、と抜き取りながら。
「……どうしてわざわざ"呪質持ち"を集めていたのかは知らないけれど、みんな何かに利用するためだったんでしょう? 私も、
「……ああ、その通りだよ桜。みんな俺の理想を叶えるための道具か手段に過ぎない。……だけど桜、君だけは違う」
「違う?」
桜が振り向くと、そこには煙草を吸いながら優し気に微笑む赫遺の姿。その表情は、桜以外に向けたことが無い特別な微笑み。
少し苦しくなる胸を抑えながら、桜は睨みつけるような視線を送り続ける。
「桜だけは違う。言っただろう? 俺たちは似ているって。桜はたぶん、俺が今まで出会った中で一番に美しい女性だ。容姿だけのものじゃなく、その精神すらも美しい。……なぁ桜、俺と一緒に
両手を広げてそう語る赫遺からは、吐き気を催すほどのどす黒い何かが見えた。彼の全身を覆うような、どす黒い影のようなもの。その影が形なく広がっていき、自分の身体を包んでいくような酷い感覚。
全身に鳥肌が立つ。恐怖とは違う、気持ちの悪い感覚。嫌悪という感情が振り切ったような感覚と言えば、一番ふさわしいだろうか。
「ひとつだけ、訊かせてくれないかしら」
「なんだい、桜」
「……みんなは、どうするつもりなの」
「ああそんなことか。俺の目的が果たされれば必要なくなるよ。所詮使い捨ての道具だ。用が無くなれば"捨てる"だけだよ」
「それはつまり……殺すってことかしら」
「勘違いしてるよ桜。俺は目的が果たされてみんなを殺すつもりなんてない。手段として全員殺すつもりだよ。そう言う意味の使い捨てさ」
ひどいことを、残酷すぎることを口にしているのに、赫遺は笑っていた。
この瞬間、桜は赫遺を見る目を完全に切り替えた。最初に出会った時は、希望の光に縋るような目で。しばらくして視界に入るだけで安心を覚えるような気持ちから、落ち着いた目で。そして、愛情を持った潤んだ目で。そうやって
桜は死を憎む。人間に訪れる死というものをひどく憎む。だからこそ、死を無くそうなどと
だが、いまの赫遺は。自ら死を繰ろうとする悪魔だ。
「出ていきなさい、鴉」
「……なんだよ桜、そんな目つきで睨まないでくれ。……俺たちは愛し合っているだろ? どうしてそんなことを言うんだ」
「……あなたみたいな人に身体を許した自分に、嫌気が差すわ」
「どうしてだ、どうしてだよ桜。二人で一緒に
「いいから出ていきなさいっ! あなたの顔なんてもう見たくも無いわ!!」
普段感情をそこまで激しく表さない桜の叫びに、赫遺は驚いた様子だった。
赫遺はしばらく無表情で桜のことを見つめ、すっかり短くなっていた煙草を口から離した。それを床に落とし、靴の裏で踏みにじる。
「……わかったよ。俺は好きな人が嫌がることをしたくないからな。……だけどさ桜、俺が出ていったところで何も変わらないよ。きっと君はいまこう考えているんだろう? 俺の思い通りに事が運ばないように、なんとかしようって。まるで呪われた体質を発症して間もない頃、必死で人の死を回避しようとしていたみたいに。……だけどそれが無駄だってことは桜が一番よくわかってるんだろう? 世界に訪れる死は回避できないんだよ」
「確かにそうよ……だけど、私がディスオーダールームのみんなの死を回避することは出来るわ。……たとえ、別の誰かが死ぬとしても」
「……まぁ、やれるだけやってみればいいんじゃないか? 桜が言うから俺はここを出ていくけど……たぶんここには二度と戻ってこない、どっちみち出ていこうと考えていたしな。……だけど、覚えておいた方がいいよ、桜」
赫遺は最後に一つだけ言い残し、ディスオーダールームを去っていった。まるで自分がここからいなくなることに何の問題もないというような足取りで。彼のその淀みの無い足取りからは、自信のようなものを感じられた。
部屋に残された赫遺の気配と、踏みにじられた煙草の吸殻。それを見つめながら、桜は赫遺の言い残したことを頭の中で反芻させる。
『人間は運命の奴隷さ。逆らうことも抗うことも出来やしない』
桜は必死に考え始めた。どうすれば赫遺の計画を破たんさせることが出来るか。
絶対に皆を無為に死なせるわけにはいかない。呪いを解いて、皆を救う。
そして、死の恐怖から人間を解放させるために、桜は自分の意志で行動を開始する。
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