第二呪 異常性愛のリビドー
目が覚めた。薄く開いた目に映るのは見慣れた天井。そして見慣れたノイズ。ぼうっと浮かび上がった99:23:59:59の表示。悪趣味な模様が天井から壁に伝って張り巡らされている。ああ、この幾何学的な模様。間違いない、僕の家、僕たちの家、僕たちの部屋だ。
記憶が混ざっている。目を覚ます前に何があったのかいまいち思い出せない。
真っ赤なジャムの乗ったトーストと、黄身が完全に固まるまで焼かれた目玉焼き、真っ黒で泥水みたいな味のするコーヒー。いや違うな、これは昨日の朝食の記憶だ。
部屋のカーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。小鳥の
身体を起こそうとして、両手両足に痛みが走った。この痛みが、ぐるぐると混ざり合っていた僕の記憶を鮮明に片づけ始める。段々と思い出してきた。半月の昨夜の出来事。僕は
ナイフで四肢を滅多刺しにされた挙句、腹から首までかけて切り開かれて殺されたはずだ。あまりに血を失いすぎたので途中で意識を失ったが、こうして意識が戻っているということは、殺されていなかったのか?
「目が覚めたのね、
いつの間に。いや、いつからそこに居たんだろうか。ベッドで寝ている僕の隣、まるで添い寝をするかのように潜りこんでいた女性が声をかけてきた。先ほどから鼻につくような匂いを出していたのはこいつだったのか。
首を九十度ひねって隣を見る。綺麗な顔立ちの女性が僕の方をじっと見つめていた。吸い込まれるような青色の瞳。彼女の顔は思わず見とれてしまうというより、むしろ顔を背けたくなるような美しさだ。ずっと見つめられると、どういうわけかこっちの方が恥ずかしくなってくる。しかし顔を背けてしまうと、彼女に何を言われるか、何をされたかわかったもんじゃない。僕は気を紛らわすためにも、彼女の胸元に浮かび上がった99:23:59:59のノイズに視線を固定する。
「そんなに胸を見つめられると恥ずかしいわ
「ごめん、別にそういう意味じゃないんだ。いや、君に魅力が無いだとか、僕がEDだとかそういうことでもないんだけどさ。とりあえず、ベッドから出てくれない?」
「嫌よ。
「……君が助けてくれたのか、
僕は何となくそう思った。
またこういう事が起こる。僕の日常は彼女に壊されたというのに、彼女によって僕の命はたびたび救われている。銃弾飛び交う戦争の最前線に建てられた核シェルターに住まされているような気分だ。彼女からは、
「忘れたの
「……悪かったよ
「いいのよそれで。さっきの質問に答えるわね。貴方を助けたのは私よ、大変だったんだから。両手両足にナイフを突き刺されて、お腹も
「あぁ……気を失うくらいまで血が無くなってたからね」
「
またこういう事が起こる。彼女は間違っても医者なんかじゃない。頭のおかしい殺人鬼だ。病院に僕を運ぶとか、病院に忍び込んで輸血パックを盗んでくるとか言う考えは彼女の頭には無い。きっと通り魔的に人を殺し、その人から血を絞り出してビーカーか何かに溜め込んで、僕にその血を輸血したんだろう。
そうだと分かると、急に肌が痒くなってきた。この身体に何人もの血が流れている。目の前にいる殺人鬼の血も流れている、こんな気持ちの悪いことが他にあるだろうか。あぁ、出来ることなら僕の身体から血を全て抜き取ってやりたい。僕の身体に僕以外の人間の血が流れているなんて、思わず自分の意識が失われそうだ。
「傷の縫合とかね、お医者さんに手伝って貰ったのよ。もちろん貴方と同じ血液型の人。命を取り留めるくらいの簡単な手術をしてもらって、そのあとそのお医者さんの血も輸血させてもらったわ」
「……どうりで生きてるわけだ。あんな傷、君に治せるわけないもんな。その医者ってどこにいるんだい? お礼とか、言った方が良いと思うんだけど」
「いないわよ」
嘘だろ。
どうやら僕は彼女の事をまだ理解しきっていないらしい。流石に命の恩人である医者は殺さないだろうと思った僕が馬鹿だった。彼女には悪人や聖人の区別が無いのだろう。誰であろうと殺してしまうんだ。自分の欲求を満たすだけでなく、なにか気に障ったり、気まぐれ一つで殺してしまうんだろう。
「そりゃあ血まみれの女性に
「……もういいよ」
「片足を斬り落としたら、ようやく手を動かし始めたわ。やっぱり流石はお医者さんね、手際がよくって、
「……もう、聞きたくない」
きっと話の続きはこうだろう。医者はもう死ぬだけだろうから、最後まで利用するために血を抜き取ってから、殺した。それだけでいい、殺したの一言だけで十分だ。生々しい殺し方の詳細まで教えてくれるな。喉元が圧迫されるような吐き気がこみ上げてくる。
その異常性からは、彼女が人なのかどうかすら怪しく思えてくる。リビドーから来る殺人衝動。その衝動を満たすために、彼女は人を殺していく。きっと生まれた時はそんな異常性は無かったのだろう。【呪われた体質】に目覚めてしまってから、彼女の中身は狂い始めたのだろう。そう思いたい。彼女の本質が異常ではないと、正常であったのだと、そう思いたいのだ。
「ねぇ
ぞくり、とした。彼女は僕の考えていることがわかるのだろうか。僕が疑問に思った彼女の正常性。それを彼女は彼女なりに何かしら思うところがあるのだろうか。
「……いきなり何の話だよ」
「ちょっとした世間話よ。正常って何だと思う? 当たり前の状態、異常じゃない状態のことかしら。でもそれって突き詰めていくとおかしくなってくるわよね。異常じゃない、つまり正常な状態って、どうして異常じゃないのかしら」
「哲学の話をしてるのか」
「いいえ、もっと根本的な話よ。つまりは基準値を誰が定めているのかって事。正常である状態、正しいということの基準。異常はその基準値から逸脱した状態のことだわ。だから異常という言葉の意味は理解できる、正常であることの真逆であるだけなのだから。けれど異常があるならばその逆の正常がどんなものかがキッチリと定められていなければならないでしょう、その正常の定義よ。もう少しわかりやすく範囲を狭めましょうか。精神的な正常って何かしら?」
やっぱり哲学的な話じゃないか。精神に於ける正常の定義だって? 僕は再び天井を見つめて少し考える。
正常という言葉の意味は、辞書なんかで調べると「正しい状態」という文句しか出てこない。精神的な正常性、それはつまり異常ではないことだ。正常と異常を比べる際、異常性から理解していくとわかりやすい。精神的に於ける異常性とは、非常識であり非人道的であり非道徳的であることだ。通常人間の思考には含まれていないバグ―――ノイズが入った状態が、「異常」であると言えるだろう。
人間には、ルールとされる生き方がある。人を慈しみなさい、人を愛しなさい。生物を殺めてはならない、生物を蔑んではならない。僕たち人間の根底にある、人間としてのルールだ。そのルールを破った者、それが異端であり、異常であると僕は考える。もっとわかりやすく説明すると―――
「精神的な異常は、君のように殺人を犯しても平気でいられる状態の事だと思うよ」
「
「
「……素晴らしいわ
頭がひどく痛む。哲学という学問はこの世のどんな学問よりも難解だと僕は思う。アイキューがどれだけ高い者でも解けない数学や、自分たちが知らない言語を読み解こうとする考古学よりも、哲学は高尚な学問であると思う。
それゆえに、僕は哲学があまり好きじゃない。考えることが唯一の解法であり、考えすぎるが故に頭脳がオーバーヒートする。頭痛がするのは嫌なんだ。吐き気と頭痛が一番嫌いな症状だ。
「さて
哲学好きな殺人鬼は微笑んだ。とても愛らしく。とても優しく。とても朗らかに。とても屈託なく。とても綺麗に。とてもじゃないが僕はこの
あぁ、くそう。彼女が正常であれば、どれだけ良かったことか。
リビドーからイエロウへ。
私は貴方を愛しているわ。
リビドーからイエロウへ。
私が貴方を守ってあげる。
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