第15話 弱い者なりの決意

 清奈はあらゆる困難に立ち向かってきた人間だ。そして俺はその逆。俺は困難があればすぐに逃げて楽な道へと向かう人間だ。最初から分かっていた。俺らがあの森で出会った瞬間、俺は何となく彼女から自分とは違う雰囲気を感じ取っていた。

 同じ目線になっても、同じ場所に立っていても、俺らは永遠に交わることのない平行線。生きてきた人生がまるで正反対だ……。残念ながら、俺にはお前と同じ未来を見る資格なんてない。俺は困難に立ち向かえるほど強くはないんだよ。


「でも……」


 それでも、たった一度だけでも同じフィールドに立てるのなら、俺はどうにかして彼女の力になりたい。方法ならある。今、平行線だった俺らは同じ景色を見ている。交わることのない存在がこうして同じ空を見上げながら同じ世界を見ている。

 俺は逃げ続けてきた人間だ。なら……逃げなければいい話。俺は弱い人間だ。何度も逃げるだろうし、何度も現実から目をそらす。それでも一回でも多く困難に立ち向かうことができたのであれば、その時はきっとこの子の力になれるだろう。

 親父が俺のこの島に送る混んできた理由がようやく分かった。

 このまま清奈の力になれば、彼の計画通りに俺が動くことになる。分かってる。彼の思い通りにはなりたくない。だけど、男として清奈の件は放っては置けない。

 俺は『無理だー』と思ったら容赦なく島を出る。だから、無理だと思わない限り彼女を助ける。一日でも二日でも……。なぁ、俺? それでいいよな……。


「なぁ、清奈」


「なに?」


「俺は――」


 決意を胸に秘めた俺は、夜空を見上げなが彼女に思いを伝えることにした。


「俺は逃げたいときには逃げる。だが、清奈の話を聞いた今、残念ながら逃げたいとは思わない。だからなんていうか、お前の仲間に俺を――なっ!?」


「ひゃっ!」


 格好よく自分の思いを伝えようとした瞬間、運命のいたずらか、船に直撃した波により船が大きく揺れた。それにより、唯一甲板の上に立っていた清奈がバランスを崩す。彼女は「ナマズッ!?」と訳の分からない悲鳴を上げてこちらの方へと迫る。


「な、なんで俺の方に倒れてくんだよ!? 柵に掴まればよかっただろ!?」


「無茶を言うな! 突然の揺れで判断が鈍ったのだ!!」


 俺も咄嗟のことなのでどうすればいいか分からない。女の子がバランスを崩して俺の方へと倒れてくる。とりあえずあれか。怪我をしないように捕まえればいいのか。


 やがて清奈が倒れてきて――俺の両手をすり抜ける。まさかのキャッチ失敗!?

 そして俺の頭と彼女の頭が激突してしまう。強烈な激痛が互いの額に広がる。


「ぎゃふんっ!?」


「ナポレオンフィッシュ!!」


 俺は後方へと倒れ込んだ。ピカピカーと頭の周りを星が飛んでいるようだ。

 清奈は……横になった俺の上で伸びていた。よかった。怪我はないようだ。

 つまりこれって、結果的にキャッチ成功ってことなのか? たぶん。


「清奈。おい、大丈夫……か……あっ」


「いたたたた……何よ……? 何が『あっ』なの?」


 彼女の方を見てすぐに気づいた。俺の手が彼女の胸を包み込んでいる。

 モミッとつい反射的に少しだけ揉んでしまう。お胸だ。これは――


「柔らかい」


 まな板のように硬いのかと思われた胸が、触れてみると意外にも柔らかい。

 

「……な、何をしている!? ワンタッチ!!」


「え、いや、すまない!?」


 勢いよく彼女の胸から手を離したが、時はすでに遅しな状態だった。

 不可抗力で彼女の胸に触れてしまった時点で俺の未来は決まっている。

 それでも言い訳をさせてくれ。触れたのも揉んだのも事実だが―― 


「これはわざとではない。倒れそうになったお前を受け止めようとした結果だ」


「う、うるさぁあああああああああい! 胸を揉んだことに変わりはないだろ!」


「たしかにー!」


 触れるだけなら弁解の余地はあった。しかし俺は揉んでしまったのだ。


「歯を食いしばれぇえええええええええええ!」


 逃げることはない。ここは素直にビンタされるのがもっともいい選択だ。


「歯を食いしばった! いつもでも来てくれぇええええ! ――おふっ!?」


 やがて彼女の強烈な張り手が頬に入れられる。あぁ、よきおっぱい……。


 @   @   @


 甲板の上に倒れ、綺麗な星空を見ている。頬がまだジンジンする。

 ボーッとしていると、そばからはすすり泣く清奈の声が聞こえた。

 柵の方へと視線を向けると、彼女は夜空を見えげていた。

 まさか、俺が胸を揉んだから泣いているのか? ……いや、違うか。


「なぁ、清奈。お前はなんで泣いてんだよ?」


 俺は彼女にそう尋ねた。清奈は涙を拭き、こちらへと体を向ける。


「泣いてなんかいないわよ。これはあれ、水鉄砲よ」


「テッポウウオの話か?」


「そう。私は目から水鉄砲を出して海の魚を攻撃していたのよ」


「でもあれって水面上に居る小動物を打ち落とし捕食する技だろ? 海にいる魚を攻撃した時点でそいつらはただ沈んでいくだけじゃね?」


「……それもそうね」


「……」


「……」


 沈黙が流れた。清奈が再び俺に背中を向け、海の方へと視線を向けた。


「辛いのよ」


「え?」


「私だって辛いの。本当は今すぐにでも心が壊れそう……。魚が好きでいられる自分が信じられないくらい。孤独で辛くて悲しくて吐き気がする。消えゆく仲間を見ながら、取り残されていく毎日。消えた生徒が教室に置いていくのは『抗え』と言う思いだけ。彼らは思いを私に押し付けて、自分たちだけは楽な道へと逃げた。私は仲間たちのために戦う一方で、すべてを押し付けてきた仲間たちを恨んでいる。毎日生きれば生きるほど彼らに対する恨みが大きくなっていく……。私はこんな自分が嫌いになるわ。大切な存在を恨み、嫌いになっていく自分が心から汚い物だと思う……」


 清奈から語れたのは本音に、最初は少しだけ動揺したがすぐに納得する。

 今までは頑張る、努力する、立ち向かう、戦う、と言った聞こえのいい言葉だけが語られたが、なんというか、ようやく清奈の本当の気持ちが聞けたような気がする。

 それに逃げた人間がいれば、彼らの分まで働かなきゃいけない人間がいるのは当然だ。俺は圧倒的に逃げてきた人間なので、残された人間のことなど考えたことはなかった。しかし、清奈と出会い、俺は人生で初めて残された人間のことを考えるきっかけを得た。残された人間は……俺らの何十倍も苦労をしてんだよな……。


「私の本心を聞いて幻滅したか?」


 彼女は振り返り、どことなくぎこちない笑みを浮かべた。


「私は最低な人間だよな」


 顔は微笑んでいるのに、彼女の瞳からは一滴の涙がこぼれた。

 うまく言葉にすることはできないけど、なんとなく彼女が伝えたかったメッセージは受け取ることができた。たぶんそれは、誰にだってあることだ。


「俺は清奈に芽生えたその感情を、最低だとは思わない」


「……え?」


「だって人を恨むことは普通なことだろ? 俺だって嫌いなヤツが何人もいる。それに俺が言える立場じゃねーと思うけど、島から逃げた連中はある意味清奈を裏切ったんだろ? だったら恨まれて当然だ……。あ、キレて俺を殴るなよ。俺は別に退学した連中を侮辱している訳じゃねー。あくまでも清奈の気持ちを肯定しているだけだ」


「殴らないわ。さっきはちょっと不安定になっていただけ。それより、普通の感情ってどういうこと?」


「言葉通りだよ。人間は喜怒哀楽のある動物だ。笑いたいときに笑って、怒りたいときに怒って、泣きたいときに泣く。清奈だって、逃げてもいいと俺は思う」


「……」


 彼女は怪訝な眼差しを俺の方へと向ける。拳に力を入れ、一歩こちらへと近づく。

 あれ、え、殴られる!? ななななんでだよ!? 俺は何も悪くはないだろ。

 女の子って本当に分からない。俺はただ肯定しただけなんだか!?

 清奈が二歩、三歩と近づいてくる。俺は恐怖のあまり両手で自分の顔を隠した。

 殴られる!! 清奈が俺の両肩を強く掴む。痛みに備えろ!!

 

「……」


 殴られる!?


「……」


 殴られる!! 殴られ……ない? あれ?? 痛みがないのだが。

 疑問に思い、顔を覆い隠していた手の指先の間から状況を確認する。

 清奈は俺の懐に入り込み、両肩を強く掴みながら、顔をうずめていた。

 彼女は泣き叫ぶ赤ん坊のようにすべてをさらけ出し、涙を流している。

 殴られるかと身構えていたからこそ、彼女のその行動は想定外だ。

 どうして突然泣いたのか。どうして俺の胸で泣いているのか。

 理解に欠ける。女の子と言うのはやっぱり理解できない……。

 困惑していると、クレナイさんが人差し指を自分の唇に重ねる。


「すまんのー螺衣はん。今だけは好きにさせてくれへんかの? 清奈はんって、ほら、全部自分で抱え込んでしまう性格やからー。本音をぶつけたり、自分の本当の姿を見せたりせーへんのよ」


「親友とかは?」


「もう島にはおらんよ」


「あ……そうですよね」


 そういえばそうだった。清奈の仲間たちは大半が退学してしまったのか。

 だから彼女は俺に本音を打ち明けてくれた? ……それって……俺を友達だと認めてくれたと言う事なのか? ……そう、なのかな。そう、なのか。

 なんだろうこの気持ちは? 千刃里のときに感じた思いとは違う。

 その思いの正体がなんなのか俺には分からないけど、とても暖かい気がする。

 

「うわぁああああああああああああん……なんでなんで皆、消えていくんだ!理不尽だ! なんで……なんで! なんでなんだ! なんでみんな、私を置いていく!!」


「……」


 コイツは一件普通に見えるが、やっぱり相当追い詰められているんだよな。

 死と隣合わせの教室。そんな教室に居て普通でいられる人間なんていない。

 どうしていいか分からなかったが、俺は自然と彼女の頭に手を置いた。


「なぁ、清奈。さっきは言いそびれたが、お前に言いたいことがある」


 彼女は涙を流したまま、静かになる。そしてそっと顔をあげた。


「俺さ、お前らの仲間になるよ」


 清奈が目を見開く。今更驚いたような表情を浮かべる。


「だが、勘違いはするな。俺はあくまでも島の外の人間だ。身に危険を感じたり、逃げたいと思ったら平気でお前を裏切るからな。それでもいいなら、仲間になる」


「……!」


 彼女は今日一の笑みを浮かべ、勢いよく俺の首に手を回して抱き着いてきた。


「それでいい! それでいいんだ! お前がいてくれるだけで私はいい!」


 なんだかいい風に利用されているような気もするが……まぁ、いっか。

 これは俺が選んだ選択で、ある意味、初めての立ち向かいだからな。

 俺に何ができるかは分からないけど、とりあえず今は清奈のそばにいよう。

 

 ×   ×   ×


 清奈が落ち着き、俺とクレナイと彼女の三人は再び甲板の上に座る。


「クレナイ。螺衣を仲間にする勝負は私の勝ちだな」


「えぇー? その勝負まだ続いていたんかえ……まぁ、いいけど」


 そういえばそんな勝負あったな。俺を仲間に引き込む作戦のヤツ。


「仲間になるにあたっていくつか確認しておきたいことがある」


「なんだ?」


「まず、お前は今の行き過ぎたスパルタ教育が嫌いなんだろ? じゃあ、逆に訊くけど、清奈が目指す学校ってなんだよ? やっぱり楽しい学校なのか?」


「その通りだ。私が目指す学校は自由な所。良き学び、自然に感謝し、良き人生を送り、海に感謝しる。生徒が何をしたいか自分で選択することのできる教育だ。漁師は確かに過酷だ。だから辞めたければやめればいい。それを決めるのは教師ではなく生徒でなくてはいけない。だからこそ、私は今の学校の生徒を強引に退学へと追い込むやり方が許せないのだ」


「なるほどな。清奈が目目指す学校を取り戻すためには一人でも多くの仲間が必要ってことか」


「そうだ」


 仲間が必要なのに、クラスメイトほとんどが退学してしまった。そんなとき、俺が都合よく島に現れたから『仲間にしよう!』と思ったと言うことか。

 俺はさながらアマゾン川に落ちてしまった人間だな。逃げても逃げてもピラニアに追いかけられる。あ、もちろんピラニアってーのは清奈のことね。

 養殖されてるピラニアは十分にエサを与えられているので人間の肉なんて食わないが、エサの少ないアマゾンにいるピラニアは常に食い物に飢えている。

 そして俺はそのピラニアに見つかり、喰われるまで追いかけられるのか。

 結果的にピラニアに食われ、こうしてまんまと仲間に引き込まれている。


「ミス・ピラニアが戦う理由は分かった。だがよ、具体的な作戦とかあるのか?」


「あるわ。それよりミス・ピラニアって誰よ?」


「まぁ、それは気にするな。つい口が滑っただけだ。それよりも昔の学園を取り戻す作戦ってなんだよ? 教えてくれるよな?」


「その作戦とは――」


 清奈はドヤ顔を浮かべ、そばでこちらをジーッと見ていたクレナイがため息をつく。なんだよその意味深な反応? え、何、ため息をつくレベルの作戦なの??


「――暴力よ!」


 あぁーなるほど。クレナイがため息をついた理由が分かった。つまりはノープランなのね。清奈は自信に満ちた表情で言ったが、俺とクレナイは失笑した。


「清奈はん。そんじゃ説明不足。まるで、あんさんが悪人やわー……暴力では何も解決できへんよ」


「暴力ではダメなのか? なるほど、どうりで先日、魚麗組の生徒を殴っても何も起きなかったもんだ」


「……え、殴ったの?」


「殴った。後ろから冷凍マグロでゴーンッとな」


「……犯罪じゃん」


「心配するな凶器となったマグロはおいしくいただいた。証拠隠滅だ」

 

 どうしよう俺、本当にこっち側についてよかったのかな……。


「安心しろ、その生徒は今も生きている。私が殴ったという記憶はないようだがな」


 都合よく記憶喪失になってくれてよかったな。


「清奈のいう暴力はどうでもいいとして、他の方法はないの?」


「んー。ない」


 彼女の発言にクレナイが「あるじゃろ」とツッコミを入れる。


「あるのか?」


「あぁー、もうええわ、ワシが説明する。つまりな螺衣はん、清奈はんは海の藻屑組の力を集結して、学校に喧嘩を挑もうとしているんよ。海の藻屑が魚麗組に勝てはそれは革命的。学校の行き過ぎたスパルタ教育が間違っていたことの証明になる」


「待って、魚麗組って?」


「漁師の素質があると認められた生徒が通う組のことじゃ」


「そういうことか。つまり弱い存在が強い存在に勝つことで、学校の方針が間違っていることを証明しよう、ってことだろ?」


「その通りじゃ」


「で、その魚麗組にはどう喧嘩を売るんだよ? まさか殴る訳じゃないよな?」


 清奈が拳を突き上げる。


「殴り込む」


「やっぱり暴力じゃねーか……」


「仕方がないだろ。具体的な方法はまだ何も考えてはいない。なぁ、クレナイ?」


「せやなー。雑魚組が魚麗組に勝てる訳なんてあらへん」


 ダメじゃん。まぁ、作戦なんて後で考えればいいか。どうとでもなる。

 それよりも今は、実は非常に気になっていることが一つ存在する。

 清奈の「大輔さん」発言とアームを動かしていた人物についてだ。


「まぁ、作戦は別にいいとして、それよりも――」


 俺はゆっくりと立ちあがり、操縦室へとつながる階段へと体を向けた。


「どうした螺衣? どうして私の背中を向けているのだ?」


「……その答えは一つ。親父を――ぶん殴るためだよっ!!」


「なっ!?」


 勢いよく駆けだした。船の階段を猛スピードで駆けあがり、操縦室へと向かう。

 清奈が「あわわわ」と焦りを見せたが、そんなことは関係ない。

 どうして親父は隠れているかは分からないが、いつことは分かってんだよ。

 ヤツは驚くだろうな。まさか俺が急に走り出すとは思うまい。

 ダダダッと木製の階段を強く踏むたびに心地の良い音が耳に届く。

 やがて俺は操縦室へとたどり着き、手加減などせずにドアを叩き開ける。


「クソ親父!! ……親父?」


 シーンとしている。操縦室はとても静かで空気は冷たい。

 誰もいないような。誰もいなかったかのような空気だ。

 中に入り、周囲を見回す。全面には機械やボタンがあった。

 俺を海に落としたアームを操縦する機械もここにある。

 

「間違いなく親父はここにいたはずだ」


 逃げられた可能性が高い。親父は逃げ足だけは早いからな。

 だが、あり得ないか。なぜならボートは海のど真ん中だ。

 俺の推測ではあるが、彼がここまで船を運んできたのだろう?

 なら、彼には俺ら学生たちを岸へと連れ戻す義務がある。


「義務?」


 あぁ、いや、前言撤回。あの男に義務なんて言葉は似合わないか。

 やつは好きな時に現れて、好きな時に姿を消すような人間だ。

 前方にあった操縦輪に触れ、ため息まじりに外を眺めた。


「……あれ?」


 そこでようやく気付く。景色がなんだかとてもおかしいのだ。

 視界の下半分が真っ暗なのに、上の方には島の光が見える。

 その光景はまるで、何かしらの大きなカーテンがあるようだ。

 半分真っ暗な視界の理由が気になり、俺は操縦室を出た。

 結局、親父がここにいたのか、いなかったのかは迷宮入りだ。

 

「おい、清奈」


「ななななななんだ!? そ、そそそ操縦室には誰かいたか!?」


 まずその焦りをやめろ。親父がいたことを如実に表している。

 そのことについては後程言及するとして、今はカーテンだ。

 俺は自分が落とされた方とは逆の柵の方へと歩き出した。

 柵に手をかけ、ぐっーと身を乗り出して手を伸ばす――


「あっ」


 やっぱりだ。俺の目の前には大きな黒いカーテンがかけられていた。

 色が黒なので夜の景色と同化してすぐに気づくことはできなかった。

 縦の長さは六メートル、横の長さは二十メートルかな?

 両端が船に取り付けられたアームにより引っ掛けられていた。


「螺衣、気づいてしまったようだな」


「まぁな。これはなんなんだよ?」


「カーテンだ」


「そんなものは見れば分かる。なんでこんなものがあるんだって訊いてんだよ」


「……ふん……」


 彼女は頬を掻き、なんだか困ったような表情を浮かべていた。

 このカーテンに、そんな深い意味でもあるのだろうか。


「先ほども言ったが、私には漁師を目指す人間としてあってはならない欠点がある。そのカーテンは結果的ではないが、間接的にはつながりがある物だ」


 なんだかよく分るようで、よく分からない発言だ。

 

「このカーテンの向こうには何があるんだよ?」


「船着き場だ」


「……いや、そういう意味じゃなくて、向こうの話をしてんだよ」


「だから船着き場だ。このカーテンは、螺衣に『海のど真ん中』だと思わせるためにある物だ。海のど真ん中にいると思えば、いつもより恐怖するかと思ったからな」


「あぁ、なるほど。このカーテンは島の景色を隠すためのモノなのか」


 ようやく理解した。……理解したのだが、やはり疑問は残る。


「なんでこんな面倒な物を使うんだよ? 普通の船を走らせて沖の方へと行けばよかったじゃねーか? 俺の親父なら普通に船が操縦できるぜ」


「そんなことは当たり前だ。この船は大輔さんの船だからな……」


 もう親父がいたことすら隠す気ないのか。まぁ、いいけど。


「ただ、そうできない理由があると言っただろ。回りくどい言い方をするのが面倒なので話す。私は――岸から離れることができないんだ」


「え?」


「……釣りをするときは必ず堤防か、川か、釣り堀だ……」


「う、嘘だろ? だって漁師って海で魚を取る職業じゃねーか」


「だから私は欠陥品なんだ」


「あ……そっか」


 そうだ。そういえば彼女は何度も自分のことをそう呼んでいた。

 彼女の秘密を暴露したのか彼女自身だ。しかし、それを言わせたのは間違いなく俺だ。話の流れでしつこくしてしまった自分が悪い。今回は俺に非がある。

 清奈もどことなく寂しそうだし、ここはフォローしなければ。


「あ、でも、あれだろ。治るんだろ? だって清奈は誰よりも魚が好きで漁師を目指している。あれだよ、ほら、あれ。あ、仲間がいれば大丈夫でしょ!」


「仲間か」


「そうだよ。俺が一緒にいてやるから、多分大丈夫だよ」


「……ふっ……」


 彼女は辛そうな表情を浮かべながらも、微笑みを見せた。


「私の事情も知らないくせによく言えたもんだ。なんの根拠もないその発言は実にバカげている――」


「な、なにをー!」


「――でも、とても暖かい言葉だ。螺衣、ありがとう」


 グッ。と胸が締め付けられた。ありがとう。ありがとうか。なんて素晴らしい言葉なんだ。少しだけ怒っていた心が物の数秒でどこかへと消えていった。

 誰かにお礼を言われるなんて、こんなのも心地のいい気持になるのか。

 俺の渾身の発言はバカげている、と言われたが、そんなことは些細なことだ。

 今はすべてを水に流し、新しい気持ちで頑張っていこうじゃないか。

 清々しい思いが胸に宿った反面、まだまだモヤモヤが残っていた。

 理由は単純に、親父を殴ることができなかったからだ。

 仮に清奈の『カーテンの向こうは船着き場』と言う発言が本当なのであれば、船を動かす必要はない。つまり、親父は簡単にここから逃げ出すことができる。

 これらの情報をもとに彼の居場所を割り出すと――ここにはもういない。

 そうだ。あの親父はおそらくアームを動かして自分の役割を果たしたと同時にさっさと逃げたと思われる。逃げ足だけは本当に早いんだよな、あの親父は。


「なんで親父は姿を隠してんだよ」


「指名手配犯だからな」


「……」


「あ。いや、今のは忘れてくれ」


「もう遅い」


 待てよ。そう言えばそんな話だった気がする。俺が東雲高校から拉致られて黒いバンにぶち込まれたときも、あの男は何十人もの警察に追われていた。

 犯罪に犯罪を重ね、警察から銃を奪うわ、煽るわ、爆発させるわ。

 最初に何をやらかしたのかは知らないが、あの男は間違いなく犯罪者だ……。

 姿を現さない理由も、現さないのではなく、現せないのだろう。

 居場所が特定されれば彼はすぐに警察を呼ばれて逮捕されてしまう。

 本当は俺も通報したいが、逃げられた今、彼の居場所は分からない。

 この島にいるのは分かっているのだが……探すのが面倒だな。

 あの男は警察に任せて、とりあえず今は自分のことだけを考えよう。

 清奈の件。乗り掛かった舟だ。行けるところまで行こうじゃないか。

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