第11話 逃げることしか

 アパートの二階にある201号室に入った俺は、東京都東雲高校で友達だった刺山さやま千刃里ちばりの日記帳を見つけてしまう。どうしてこれがここにあるのか?

 疑問を浮かべつつ、さまざまな考察が俺の頭の中を飛び交った。

 彼女は高校一年生の時、変な時期に転入してきた。周りの生徒は『どうしてこんな時期に?』と尋ねるが、彼女は毎回エヘヘ~と笑みを浮かべるだけだった。

 結果的に、彼女は自分がどこから転校してきたの言うことはなかった。 

 クラスメイトは全員が気になっていたが、時間の経過と共に彼女の過去について尋ねる生徒はいなくなった。人には隠したいことに一つや二つある物だ。

 なので、彼女が去年までこの高校にいた可能性は十分に考えられる。


「つーことは、千刃里も漁師を目指していたのか?」


 漁師を目指すかアイツか……。想像できないな。正反対の性格だし。

 千刃里はのろいし、ほわわーんだし、漁師がガチで体力勝負だろ?

 それこそ今朝あったあの大男がまさに漁師ってイメージだよな。

 まぁ、いいか。少しだけ千刃里の日記帳を覗けば答えが分かる。

 胸を躍らせながらぺージ目を捲った。……なのだが……。


「赤い?」


 1ページ目は赤黒い色の何かで塗りつぶされていた。その次のページも、次の次のページも赤い。乾燥して固くなっているので、色鉛筆やインクではなさそうだな。だとするとペンキだろうか? 日記帳と言うよりお絵かき帳だな。

 白いページが出てくるまでページをめくる。

 ようやく白いページを見つけたとき、俺は綴られていた言葉に目を見開く。


「!?」


 眉間に皺を寄せた。そこに書かれていた言葉はあまりにも意外な物だった。


「死にたい」


 それが書かれていた言葉だ。ページの中心にそれだけ書かれていた。

 あの千刃里が? 

 俺の想像を超えていた。あの悩みとは無関係そうな顔をしているアイツからこんな言葉を残すだろうか。俺は生唾を飲み、次のページ目を恐る恐る捲った。


「誰か助けて」「助けて」「苦しい」「もうやだ」「逃げたい」「死にたい」「東京へ……逃げたい」「漁師なんてなりたくない……」「なんでこんな目に」「いやだよ。こんなの違うよ」「話が違う」「憧れていた世界は……もうない」「消えて」


 ページは絶望的な言葉で埋め尽くされていた。最後ページまで永遠と……。

 自分の目を疑った。日記帳の中身を見ても尚、俺は信じられないでいる。

 ノートを見つめていると最後のページの左端には血しぶきのような跡?

 

「まさか」


 前半のページを開く。その赤黒い色は、血しぶきと同じ色をしていた。


「こ、これは……千刃里の……血なのか?」


 手が震えた。そこに書かれていた文字は俺の知る千刃里のではなかった。

 この日記帳を見ているだけで彼女の辛さが伝わってきた。

 これはリストカット、または自傷行為で出た血の跡だ。


「もしかして」


 ある可能性が浮上する。その可能性を検証するために俺はノートを掲げた。

 光を当てることにより、血で隠された文章が読めるかもしれない。

 すると、薄っすらと下に書かれていた文章が姿を現す。


「『今日は楽しい漁師学校! 私もお父さんみたいな立派な海の人間になる! 家族の期待を背負い私は頑張る! あぁー楽しみだなぁ! きっと辛いことも沢山あるだろうけど、私は負けない! 家族を安心させるんだ!』」


 俺の知っている千刃里の様で、少しだけ別人のような千刃里の文章。

 塗りつぶされたページの下に書かれた全ての文章へと目を通す。

 ポジティブで前向きで、楽し気な文章の数々。

 しかし、ある日を境に千刃里は壊れていった。俺の友達である千刃里は、壊れた状態のアイツだったのか。彼女が過去を答えなかった理由は、記憶から欠如していたからなんだ。閉ざされた記憶。思い出したくない記憶。消された記憶。


「そうか……」


 あのクソ親父が始業式に現れたとき、俺が千刃里に対して覚えた違和感の正体はこれだったんだ。どうして釣竿が見えないのか、どうして釣り針が見えないのか。

 それはすべてトラウマによるモノだったんだ。

 以前、こんな話を聞いたことがある。幼い頃に目の前で兎を殺された少年は、その日以来、兎を確認することはできなくなった。目の前に兎を置かれても「何もないよ?」と平然と答えていたという。千刃里にはそれと同じことが来たんだ。

 あまりにも過酷、そして辛すぎる学園生活の影響で釣りに関するすべてのモノが見えなくなった。でも、どうしてそうなった? そもそも漁師学校ってどんな場所?


「あっ」


 そこで、俺は清奈の言っていた話を思い出す。

 行き過ぎたスパルタ教育か。

 彼女の言っていた話はファンタジーの設定でも、嘘でもなかったんだ。


「この島で今、いったい何が起きているんだ」


 きっとそこには俺の想像をはるかに超えた何かがあるのだろう。

 この真っ赤なノート、清奈が戦う理由、この島で起きている問題。

 ただでさえ、災獣とか守人とか訳の分からねーことで頭がいっぱいだってーのに、なんなんだよこれ。知らない世界が広がりすぎていて整理が追い付かねーよ。


「まずは、シャワーだな」


 シャワーに入って落ち着こう。千刃里の件や学園の件は、シャワーから上がったらまとめて比良目メメさんに訊こう。彼女ならきっとすべてを知っているはずだ。

 そう思い、俺はそっと千刃里の日記帳と閉じで机の上に置いた。


 ◆   ◆   ◆

 

 大家さんの部屋だ。彼女もシャワーを浴びたらしく、今現在、下着姿で床に座っている。上はブラ、下はパンツ、首にはタオル。無防備……無防備すぎる……。


「ラーメンのびるよ? 食べないの?」


「あ、はい」


 今は晩ご飯の時間だ。大家さんが用意してくれた手料理、通称:カップラーメンをテーブルの上に置き、俺はその前に座っていた。しかし、分かると思うが、俺の視線はカップラーメンではなく、別の方向へと向けられていた。そう、大家さんだ。

 なんなんだアレは……。濡れた髪、火照った体、恥じらいはゼロ。

 彼女はなんなんだ? 素でDTキラーなのか? 俺は一応男なんだぞ。

 大家さんは無防備な姿のままテレビを見ながらラーメンを食べ始める。


「あはは、ウケルー! 観てこの漫才コンビ、この前ソシャゲとコラボってた」


「……」


「螺衣君?」


「え!? あ、はい! そ、そうですね! ラーメンですね! アハハ」


「なーに? さっきからお姉さんのことをジロジロ見てるけど、欲情した?」


「し、してません! ただ、なんでそんな無防備なのかなって思っただけです! い、いただきます!」


「無防備つーか、なんつーか、べつに見られて困るモノじゃないしねー。下着なんてゲームの課金アイテムと同じだよ。私はアバターみたいな?」


 なんだろう。彼女の発言には説得力があるのだが、なんだか寂しい気もする。

 もっと恥ずかしがってほしい。赤面しながら「そんなに見ないでよぉーもぉバカ男子ッ」とか言ってほしかった。これが理想と現実の違いないのか……。


「それに、私っていつも一人暮らしだから、これくらい普通なんだよね」


「で、でも、今日はお客がいるじゃないですか」


「へぇー」


 へぇーじゃねーだろ。こっちが目のやり場に困るんだよ。エロスなんだよ。

 しかも従姉って外見は高校生とあまり変わらないし、普通に可愛い。

 インドアだし、あまり外に出ないから日焼けもしない。肌がすごき綺麗だ。

 そんな肌が綺麗な人が下着姿で目の前にいたら、興奮しない男子はいない。


「螺衣君」


「な、なんですか!?」


「メン、伸びるよ」


「あっ」


 カップラーメンの蓋を開けると、中の麺は沢山の汁を吸って太くなっていた。

 それでも晩御飯に変わりはない。俺は箸をとり、麺を口へと運ぶ。

 

 そして――泣いた。 


「俺……魚が嫌いなんです……」


 カプメンを確認するとそこには『シーフード味』と書かれていた。


「所詮は味さ。まさか泣かれるとは思わなかったよ」


 驚きはしたが、やはり彼女の言う通りシーフードなので、普通に食べることができた。入っていたのは魚ではなく小さなエビだけだった。


「ところで大家さん」


「なんだい?」


「カップラーメンが晩御飯ですか?」


「そうさ、僕の得意料理。僕は一日一食、毎晩カプメンさ」


「……」


 インスタントメンを堂々と得意料理なんて言う人を初めて見た。

 それに一日一食ってすごい。どんだけ体力を消耗してないんだよ。 

 俺も一人暮らしが長い人間だが、こんな堕落した生活は送ってはいない。

 女性の一人暮らしはもっと良い匂いがすると思っていたが……幻想。

 まぁ、俺には学校があるから、外に出なくてはいけない。しかし、学校を卒業して社会人になったらどうなる? 従姉のようにだけはなりたくないな。

 呆れた表情を浮かべながらジッと大家さんの方へと視線を来る。


「なんだね。文句があるなら聞くよ?」


「文句つーか、なんつーか。栄養バランス大丈夫かなーって」


「栄養? まぁ、こうして僕が生きていることがその質問の答えかな。栄養バランスが偏ればサプリでも飲めばすべて解決さ」

 

 それで解決できるとは思わない。本当にこの人の体は大丈夫なのか?

 偏った食生活、働かずに毎日ゲーム三昧、家から出ないタイプ。

 ぶっちゃけ今日が初対面で、俺からすれば他人同然の相手だ。なのだが、やはり従姉ではあるので、彼女の健康状態が多少は心配になってしまう。

 何より問題なのが、彼女が今のままでいいと現状を受け入れていることだ。

 確かに今は若いのでいいかもしれないが、このままでは歳と共に体がボロボロになってしまう。リア充になれとは言わないが、せめて日光を浴びた方がいいと思う。

 目の前にいる従姉のことを考えていると、彼女が不満そうな表情を浮かべる。


「やっぱり何か言いたげなその視線、なんだか気に入らないね~。文句があるなら聞くよ。この質問、二回目」


「だから文句なんてありませんよ。アナタはアナタですし、この生活でいいと言うのなら、俺は口出しはしません。ただ、たまにはカップラーメン以外のモノも食べた方がいいと思うのですが」


「アッハハハ。カプメン以外の料理が出来たら苦労なんてしないよ」


「料理本とか呼んで料理の挑戦したことありますか?」


「ないよ」


 努力しろよ……。こんな俺ですら料理本は読むんだぞ。


「さっきから聞いていれば僕のカップ麺をバカにしちゃって! そういう君はどうなんだい? 料理とか得意なのかい?」


「はい」


「ほー。即答か。そんな女子力アピールされたら僕は消し炭になってしまうよ」


 彼女が冗談を言うと、瞳を閉じ「フッ」と口角をあげて微笑んだ。


「こうして誰かと話すのは久しぶりだね。なんだか楽しい気分だよ」


「大家さん?」


「螺衣君。心配しなくても僕はちゃんと料理するさ、冷蔵庫の中を見てくれればそれは一目瞭然。なんていうか、今日はゲームのやりすぎで料理作るの面倒だからカップラーメンでいいかなーって。たまにそういうときない?」


「ありませんね」


「アハハ。それも即答かい。まぁ、ゲーマーあるある的な感じかな」


 何を言っているか分からないが、大家さんが楽しそうにしているので結果オーライだな。少しでも彼女の話し相手になれたのなら、俺はそれだけで満足だ。

 大家さんはうんうんと頷き、ハニカンだまなゆっくりと顔をあげた。


「僕の話はこれくらいにして、次は君の話だね。もう一度訊くけど、君はこの島を出たいんだよね?」


「はい」


「そうか。それなら、明日のことを話そう。まず、明日の朝八時くらいに西側の海岸沿いに行きな。そこで東京行きの船が出るから乗るといいよ」


「俺も乗りたい気持ちは山々なのですが……お、お金が……」


「あぁ、お金か。まぁ、心配しなくてもいいんじゃないかな」


「と、言いますと?」


「乗組員の人に『大家さんの従弟です』って言えば、たぶん無料で乗せてくれるよ」


「たぶん、なんですね」


「乗組員が変わっていなければ、今も僕の知り合いが働いていると思う」


「そう、ですか……。あの、大家さん」


「なんだい?」


「いろいろとお世話になりました」


 俺は深々と頭を下げた。そのまま数秒の時が流れる。そして顔をあげる。

 彼女はこちらを見て、優しい笑みを浮かべ続けていた。


「大家さん?」


「あの歩く嵐のような人間である大輔おじさんの息子が、こんな礼儀を理解した好青年だなんて突然変異にもほどがあるよねーと思って」


「否定できない……。あの親父は本当に歩く無礼者なので……」


「まぁ、君は君、彼は彼ってことかね。それじゃ、話はこんな感じかな。明日は早いんだし、君も寝なよ」


「……」


 彼女はカップラーメンの容器を重ね、中に割り箸を放り込んだ。

 大家さんが下げる準備をする中、俺は今だに座り込んでいた。

 まだ話は終わらせられない。彼女には訊きたいことがあるんだ。


「螺衣君?」


「……大家さん、一つ訊いてもいいですか?」


「なんだよ?」


「201号室の件について、お聞きしたいことがあります」


「あぁー部屋のことか。僕はノータッチだからね。何か珍しい物でもあった?」


「日記帳がありました」


 そう告げると、彼女は再びちゃぶ台の前に座り込んだ。

 真剣な表情を浮かべながら、視線を下の方へと向けていた。


「日記帳か……。僕はね、あの部屋の中で何が行われていたかは知らない。ただ部屋から出てきた人物の顔なら覚えている。辛く哀れで死んだ目をしていた。彼女が今、どこで何をしているのかは分からないけど、あの時はまだ生きていた」


「今も生きてますよ」


「……ん?」


「刺山千刃里は今も生きています」


「どういうことだい? 君は今日初めてこの島に来たんだろ?」


「はい、島に来たのは初めてですが刺山千刃里と言う女性は知っています。彼女は俺が通っていた東京都東雲高等学校の生徒なんですよ」


「へぇー。それは驚きだね。東京に行くとは聞いていたけど、まさか従弟と同じ高校だったとは。その、千刃里は元気にしているかい?」


「はい。一年生の変な時期に転校してきたにも関わらず、みんなの輪にすぐに入り、今ではマスコット的なキャラクター扱いされていますよ」


「彼女は今、幸せかい?」


「俺から見えれば相当幸せそうに見えますよ。いつも笑顔ですし」


「そうか。それは聞けて良かった。本当はずっと心配だったんだ。103号室の生徒も104号室の生徒も201号室の生徒も202号室の生徒も、みんな、このアパートを出て行ったあとどうなったのかなーって。他の生徒は分からないけど、そのうちの一人の情報だけでも聞くことができてよかった」


 その時の彼女の表情は、一瞬だけ大家さんになっていたような気がした。


「あと、大家さん。千刃里をあんなにするまで追い込んだスパルタ教育ってなんなんですか?」


「その話は誰から聞いたんだい? もしかして日記帳に書かれていたの?」


「いいえ、この島に住む清奈と言う女子生徒から聞きました」


「清奈か。久しぶりに聞く名前だね」


「そうなんですか?」


「あぁ、守人もりとだったんで、島のみんなから愛されていた存在だったんだよ。ただ、ある日を境に彼女の名前を聞かなくなったんだよね」


 彼女の発言で気になる部分があった。それが『昔は』である。

 昔も今も、清奈は守人なんじゃないのか?

 なんか神の力とか使って戦う人。俺は目の前でその力を見た。

 それともあれか? 島の守り人は複数人存在するのだろうか。

 気になる話ではあるが、清奈の件は今は後回しだ。

 それよりも最優先すべきなのが、スパルタ教育の件だ。


「スパルタ教育ってそんなに恐ろしいのですか?」


 俺の想像では詰め込み世代なのだが、それ以上の何かなのか?


「僕は外に出ない人間だからね、今の漁師学校がどうなっているかは分からない」


「まぁ、そうですよね……」


 冷静に考えてみればそうだった。俺はなんとなく訊く人を間違えたな。


「でも、アパートを出て行った生徒の顔を見ればなんとなく察しがつくよ。きっと恐ろしかったんだろう、きっと怖かったんだろう、きっと辛かったんだろうね。最近までこのアパートに泊まり、漁師を目指すため日々努力していた生徒たちは、決して軟弱ではない。全員、強い意志を持ったたくましい人間だったよ」


「鋼のメンタルを持つ生徒たちが次々と学校を辞めていった……」


 ちょっと何を言っているか分かりませんね。俺の想像を超えている。

 俺も一応学生だ。そして日々、勉学に励む人間。学校の勉強が辛いと思ったことは何度もあるが、辞めようと思ったことはない。考えたこともなかった。

 スパルタ教育がどんなものなのか想像していると、大家さんが突然俯いてしまった。彼女は歯を噛み締め、その瞳からは涙がこぼれ落ちていた。


「え、大家さん!? な、なんで泣いているんですか!?」


「僕の……せいなんだ……。学校で疲れた生徒の心を癒すのが大家さんの役目なのに……。僕は……何もできなかった。千刃里ちゃんのリスカの件は知っていた。目の前で流れる血を見て怖くなったんだ……。怖くて……目を背けてしまった……」


「お、大家さん、落ち着いてください。目の前でリスカを目撃したら、誰だって怯えますよ。それに大家さんは何も悪くありません。悪いのはスパルタ教育です」


「でも……僕がもっと強ければ、彼らの心を癒してあげれた……」


「結果論です。千刃里は今も元気に生きているんでいいじゃないですか」


「でもでも……他の住人たちはどうなったか分からない……」


 確かにその通りだ。他の生徒がどこにいるかは俺も分からない。

 千刃里はたまたま俺と同じ高校に通っていらから安否が確認できたが、他の生徒の安否は不明。もしかしたら命を絶った人間がいるかもしれない……。

 ここで無責任に「大丈夫ですよ!」と言ってもなんの意味もない。

 俺は言葉を探したが、気の利いた台詞が出てくることはなかった。

 夢に向かって進む生徒を壊してしまうスパルタ教育ってなんなんだよ。

 それに大家さんは直接的な被害者ではないが、間接的に苦しんでいる。

 去った人と残された人。彼女は今も罪の意識を抱えて生きていた。

 適当な性格も、ゲームに没頭する行為も、すべては現実を忘れるための作戦なのかもしれない。俺は少しばかり、大家さんのことを誤解していた。

 彼女も……弱い人間なんだ。外の世界が怖くて引き込まっている。

 ここで俺が島を出れば、彼女はまた孤独になってしまう。

 この島に残るという選択も……。いやいや、俺は何を考えてんだ。

 他人のために自分の人生を犠牲にするなんてバカげている。

 俺は東京に帰るんだ。そう誓ったはずだろ。揺るぎない誓い。

 この島に俺が残れば、それはすべてクソ親父の思う壺だ。


「僕のせいだ……僕がゴミみたいな人間だから……大家さん……失格だよ……」

 

 彼女がこうなったのは俺のせいだ。俺の発言のせいで、彼女が目を背けていた現実を突きつけてしまった。どうしよう、どうすればいいんだ……?

 いろいろと考えた。しかし、俺はそんな器用な人間ではない。

 こういう時にどうすればいいか分からない。頭の中が真っ白だ。

 だから俺は――


「すいません大家さん……おやすみなさい」


 ――逃げた。

 立ち上がり、足早に101号室の玄関の方へと向かう。

 最低な行為だとは分かる。涙を流す女性を放置するなんて最低だ。

 でも、俺は逃げることしかしてこなかった。それが一番簡単だ。

 しょうがないじゃないか。俺は対処法を教えてもらっていない。

 玄関までたどり着くと、俺はもう一度だけ振り向いた。

 居間の方では俯きながら涙を流す大家さんの姿が見える。

 

「……」


 俺は頭を下げる。感謝の気持ちと申し訳ない気持ちを込めて。

 それから俺は、大家さんの部屋を出て外の階段を上った。

 空が暗い。足が重い。気持ちが沈む。なんだか苦しい。

 彼女は他人同然だ。なんで俺はこんなに気にしてんだよ。

 学校の件とか、スパルタ教育とか、俺には一切関係ない。 

 関係ないはずなのに……それらが俺の頭から離れない。

 考えて考えて考え続ける。階段で足を止める。

 手すりに掴まりながら俺は顔をあげる。


「キレイな空だな……」


 都会からでは見れない景色が広がっていた。

 眩い星の数々。雲一つない夜空だ。

 親父が俺をここに連れてきた理由は分かった。

 それでも明日、俺はこの島とお別れをする。

 やっぱり俺には逃げることしかできないんだ。

 だって俺は無力で才能のない、ただの人間だ

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