(15) かけがえのないもの・上
自分のことだけで周りが見えていない。
優真は静かに拳を開くと歩き始めた。
袋小路はとっくに気づいているだろう。匂いで分かる。
だけどその隣にいる英は、自分のことに精一杯で優真の接近に気づく様子は無い。
情報屋の喜多野千里から言われて半ば半信半疑だったものの、いまの英の言葉と行動で、それが真実だと教えられてしまった。
優真が九歳の頃、英の妻――夏穂が亡くなった。
それから英が変わったということに、優真は気づいていた。
匂いの変わった英は、自分の本心を隠すためだけに温厚な笑みを浮かべていたのだろう。そんな笑みなんて、優真からするとただの道化で、本物だとは思えなかった。
変わったのは確実だ。だけど何が変わったのか分からなかった。
それを、いま優真は確信した。
夏穂が亡くなる前――買い物に行く前に、何気なく優真に伝えた言葉を思い出す。
「彼のこと、見てあげてね。彼は、自分が人を操れることを知ってから、それ以外で人と会話するのが苦手になってしまったの。彼は、それをいつも悲しんでいる。自分を見てくれる人なんて誰もいないんだって、私だけなんだって。そんなことないってなんべん言っても、無駄だった。彼には伝わらないの。彼はね、私に出会う前までは一人だったから、とても寂しがり屋なの。やっと心を視てくれる私を見つけて、私だけが唯一なんだって勘違いしちゃっている。優真、何かあったらね、そんなことないんだよって、彼に教えてあげてね。約束」
薬指を交わしたことは、いまでも覚えている。
それを英は知らないのだ。
あの男は、亡き妻の影ばかり追っていて、それが唯一だと、勘違いして絶望しているだけ。
前を向くことを放棄している。
この世界の片隅に、何人の異能力者がるのかは分からない。まだ見ぬ異能が眠っているのかもしれない。でも、亡くなった人を生き返らせることのできる異能を持っている人間は、一人もいやしない。そんなの、能力者のほとんどが知っている事実だ。
拳を握りしめる。
異能は使わない。
ただの拳でこちらを向かせる。
傍にいる優真を――いや、英を心から慕っている娘のことを、思い出させてやる。
喜多野風羽と目が合った。
彼はどこか苦しそうで、だけど静かに場を見守っている。
袋小路の視線がこちらを向く。
それより早く、優真は呼びかけた。
「英」
「……あれ? ゆうっ」
振り返った英の頬に拳をくらわせる。
異能を使っていない、優真が本来持っている拳の力だ。
赤く腫れた頬を押さえ、驚いたように英がこちらを向く。
その眼は確かに優真を見ていた。信じられないというように。
「ゆう、ま。……どうして」
その頬にもう一撃。
拳が痛みを訴えるが関係ない。
もう一撃。
英の口から血が出る。口の中を切ったのだろう。
優真は静かに怒りを湛えた強い瞳で、英を睨みつけた。
「どうしてお前は、誰も見ようとしないんだ」
他人に見てもらうことばかり考えているくせに、端から他人を見ようとしていない奴が、他人からきちんと自分を見てもらえるなんて考えるのはおこがましい。
「おか……夏穂さんが亡くなったのは、俺も辛かった」
優しかったから。赤の他人の優真を向かい入れてくれて、家族だと、お母さんって呼んでねと、そう優しく微笑んだあの人は、誰にでも優しい人だった。
目を合わせた人の心を読む異能を持っていたあの人は、そのせいでいままで散々傷ついてきたはずなのに。それをおくびに出すことなく、赤の他人にさえも優しさを振りまく人だった。
英は、そんな彼女のことを好きになったんじゃなかったのか。あの人は、英に幸せになってもらうために、一緒になったと言っていた。
「あの時一番辛かったのはお前のはずなのに……どうして、泣かないんだ。夏穂さんを病院で看取った時も、葬儀の時も、お前は一滴も涙を零さなかったッ。あの時から、お前の笑顔の仮面が気色悪かったんだよ!」
愛する人が亡くなったというのに、英はあれから笑顔だけを浮かべている。
一見温厚そうな仮面の裏に隠されていたのは、さっきのほの昏い憂いの瞳だけなのか。
英が左の頬を押さえている。
拳を変えると、左手で優真は空いている右の頬に向かって、一撃。
「ゆう、ま」
「泣けよッ! 辛く苦しくってどうしようもない時は、泣いていいんだよ! それは赤ん坊だけじゃなくって、大人にも許されていることなんだ! むしゃくしゃしたら怒ってもいいし、もし自分が間違ったことをしたら、周りの人が止めてくれるだろ! そういう人を作れば、そうすれば、お前だって……俺だって……。ああ、どうでもいいから泣け!」
「それは……面白い脅迫だね」
もう一度振り上げた拳を、英が優しく受け止める。
その眼には意思が戻っている気がした。
苦笑した英は、ゆっくりと優真の拳を降ろした。
「でも、そうだね」
英の拳が優真の頬を優しく打ちつける。
「これでお合いこだ」
「……なんだよ」
「そんな怒らないでよ、優真。僕は……全く気づいていなかったわけじゃないんだよ。ただ、認めたくなかったんだ。だから、全てから逃げていた。夏穂だけが全てだったんだって、愛する人を言い訳に使っていただけなんだって」
いまになって、やっと気づいたよ。
「でもね、優真。僕はもう後には戻れないんだよ。契約をしているからね」
「え?」
「僕の心臓は、彼女に掴まれているんだ」
「正確にはワタクシではなく、別の能力者にですが」
「……いくら僕が心変わりをしたとしても、こればかりはどうしようもないんだ。怪盗メロディーを四人捕まえて、それで夏穂を生き返らせてもらえるのだとすれば。……そっちのほうがいいでしょ?」
「もし夏穂さんが生き返ったとしても、お前がいなかった意味ないだろ!」
「そうかもしれないね」
英はそう言って微笑んだ。
「でもさ。愛情をあげることのできない僕がいるよりも、夏穂がいる方が、優真も――楓花も幸せだろ」
その笑みは、数年ぶりに見る、彼の本当の笑みのようで。
優真は唇を噛み締めた。
(そんなことないっ)
袋小路が静かな目で状況を見定めている。
小さな足音が耳に届いた。
屋上の開いた扉を越えて、その足音は英のもとにやってくる。
「おとうさん……? ゆうまおにいちゃん……?」
青い瞳が瞬いた。
「どうして、ないているの?」
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