(7) 兄
喜多野風羽。
それが、昨日優真とヒカリの会話を盗み聞きしていたクラスメイトの名前だった。しかも、バトルトーナメント出場者に名前を連ねていたやつだ。
すんっと鼻を鳴らし、優真は教室に入ってきた風羽を横目で見る。
身長は優真より高いだろう。髪は耳にかかるほどで、黒い瞳に黒い目という、黒ずくめの男子だ。顔は整っており、通るだけでクラスの女子が数人色めき立つので、人気があるのだろう。挨拶をされている本人は、女子に目を向けることなく無言で席につく。女子はそれを当然と受け入れていた。これはどうでもいい。
少し遅れて、女子生徒が教室に入ってくる。栗色の髪をサイドで三つ編みして眼鏡をかけている、地味でそこまで特徴のない生徒。中澤ヒカリと同じで英に接触をするように頼まれた生徒。名前は確か野崎唄だったか。彼女は、風羽の後ろの席に腰かけた。傍から見た限りじゃあまりわからないが、唄の口が小さく動き、本を読んでいる風羽の口も小さく動く。
(会話をしている?)
優真は立ち上がり、便所に行く振りをして後ろの扉から出る途中、ボサボサの髪の下から二人を眺めていると、もう一人二人を見ている女子生徒がいることに気がついた。腰ほどまである茶色い髪の軽く化粧をした女子生徒。地味と言うほどではないが、けばけばしくもなく派手とは言えないだろう。彼女は、赤っぽい瞳を唄と風羽に向けて、口を忌々し気に引き結んでいた。気の強そうな女だ。
優真は興味を失くして、教室から外に出た。
英から頼まれたのは、中澤ヒカリと野崎唄に接触することだ。喜多野風羽のことは気になるが、今回は関係ない。
◇◆◇
「聞いているの? 風羽」
唄の言葉で我に返る。
昼休みの時間。自分の席に座って、母御手製の弁当を食べている唄の箸を動かす音を聞きながら、風羽は本から目を上げる。
「ああ」
「本に集中していたの?」
「……うん」
本当は考え事をしていただけだけど、唄に言う必要はないだろう。
風羽は片手でパンを食べながら、唄の声に耳を傾ける。
「で、話って」
「……幻想祭って、もう再来週でしょ。もし、『叫びの渦巻き』を盗むことになったとしても、来週は、うちのクラスも準備の追い込みになるだろうし、風羽は風羽で、バトルトーナメントの準備で忙しいんじゃない? 人によっては、衣装も持参で作ったりするのよね。風羽はどうするの? こんな状態で、盗みなんてできるのかしら」
「……そうだね。少なくとも、僕は制服か体操着で出るつもりだから、バトルトーナメントの準備は特にないよ」
気が勢でいる自覚はある。その所為か、幻想祭のことをあまり意識していなかった。
それでも唄が、『叫びの渦巻き』を盗むのを躊躇っているのはわかった。一週間、考える余地を与えたものの、もしかしたら唄は『叫びの渦巻き』を盗むのを拒否するかもしれない。そうだとしたら風羽は一人でどうにかしなければならないが、風羽は『叫びの渦巻き』に近寄るのは嫌だった。
(兄さんなら)
他人を頼ってばかりいるのも、自覚がある。
だけどこればかりは。あの絵画ばかりは。
風羽一人ではどうにもならない問題だった。
(唄が断らないことを祈りたいんだよね)
背後から聞こえる嘆息を聞きながら、風羽は本のページを捲る。
(……何か一つでも、唄の興味を引くものがあればいいけど)
◇◆◇
放課後。
校門の前に、一人の男が立っていた。
二十代前半ほどの男だろう。整った顔立ちで、有名なアイドルグループにいくらでもいそうなほど、さわやかな雰囲気を醸し出している優男。耳に軽くかかる程短い髪の男性は、下校途中の生徒の中から誰かを探しているようだった。
風羽は、そんな男性を遠目で見つけて、慌てて近寄って行く。
「どうしてここにいるの、兄さん」
「いやぁ。いち早く弟の顔が見たくてね。元気だったか!」
頭をわしゃわしゃする手をどけて、風羽は兄の手を引っ張って校門から遠ざかる。
しばらく無言で歩いていると、兄が道の先に喫茶店を見つけたので、そこでは話し合いをすることになった。
馴れた様子で定員に注文する兄を眺めながら、風羽はお冷に口をつける。
「風羽」
兄が真剣な目でこちらを見ていた。
「悩み事か?」
思わず水を吹き出しそうになる。堪えて、風羽は何でもない様子を装う。
「何もないよ」
「本当か?」
「うん。強いて言えば、『叫びの渦巻き』が気がかりなだけで」
「……そうか」
腕を組み、兄が難しい顔をする。
風羽の兄――
いくら父親に勘当されたからといっても、風羽にとって千里はたった一人の兄弟で、家族なのだから、こうやってたまに父親に内緒で会うことがある。母はどうやら気づいているみたいだけれど。
「俺は、お前の兄貴だからな。わかるんだぜ。……お前、二年前と同じような顔しているぞ」
千里の言葉に、風羽は驚く。
(そんなこと)
ない。と言い切れない。実際、風羽は二年前の夏休みに起こった出来事を、ここ数日思い出していた。
真剣な兄の目で、隠し事は無理なのだと悟る。
風羽は机に視線を落とす。
(あの声を、聞いたからかな)
父親の状態がおかしくなってから数日後、家にかかってきた電話があった。
使用人から渡された受話器に耳を当てた風羽は、あの声を聴いたのだ。
もう聞くことはないと思っていた、彼女の声を……。
本当は平常心を保っているのも難しかった。特に学校にいるときは、彼女に似た雰囲気を持つ少女が、後ろの席にいるのだから。
唄は彼女に似ている。髪型とか瞳の色とかは全く違うが、目つきや雰囲気があまりにも彼女に似ている。
彼女は幼馴染だった。
風羽が昔住んでいた家の前にある道路を挟んだ向かいの家に住んでいて、近くに他に同じ年頃の子供がいなかったものだから、自然に仲良くなった。
好奇心旺盛で、楽しいことが大好きな彼女に腕を引かれて、風羽は一緒に辺りを駆け回っていたのをよく覚えている。
二年前までの思い出だ。
二年前――風羽に異能の力が芽生え、関係は変わってしまった。
息を飲みこみ、風羽は幼馴染の少女の残像を振り払う。
(彼女はもういない。僕のせいで)
――死んでしまった。
実際に死に際を見たわけではない。けれど、父と兄の口から、彼女は――
(僕のせいだ。僕があのとき、あいつに騙されなければ)
だけどそれはもう終わったことだ。彼女はいないのだから、もう関係ない。自分は、ただ守りたいもののためだけに生きる。乃絵と雰囲気の似た、唄を守るために。
そう思っていたのに。
あの声のせいで、決意が、思いが、壊れそうで怖かった。
戻りたい日常。
あの頃の日々はもう戻ってくることはないはずだ。
それを知っているため、風羽はここ数日、ずっと考えていた。
――あの声は、いったい誰なのだろう。
聴いたことのある、見ず知らずの声。
相原乃絵、という一言を残して切れてしまった電話。
風羽は口を押さえる。
彼女のことを考えると、いつもこうだった。いくら過去のことにしようと、あのときの出来事は、風羽の中に強く根付いている。
「風羽」
優しい兄の声に顔を上げる。
心配そうな顔で、千里が覗きこんでいた。
「……俺はな、風羽の兄だから、むかついたことでも、悩み事とかあれば何でも言っていいんだぞ」
「…………」
「父さんは元気か」
「いや」
「そうか。母さんは?」
「うん」
「ご飯、美味しいか?」
「もちろん」
「ヒカリ君とはどうだ。仲良くしているか?」
「うるさいぐらいだよ」
「唄ちゃんは?」
「……いつも通り」
「あと一人、誰だっけ。水練、といったか。あの子はどうだ」
「わからない」
「そうか」
やれやれといった様子で、千里が頬杖を解く。
「風羽」
いつもに増して真剣な眼差しの千里が、じっと風羽を見つめる。
「二年前のことで、風羽に隠していたことがあるんだけど。聞きたいか?」
唐突過ぎて、一瞬何を言われたのかわからなかった。
風羽は高鳴る心臓を押さえつけながら、小さく頷く。
「あのとき、風羽の精神は正常じゃなかった。だから、伝えることができなかった。本当に悪いと思っている。けど、父さんと決めたことだったから、俺の口から気安く言えなかったんだ。家を出たのに、なんてあいつに縛られなきゃいけないんだよ、とか思うけどさ。父さんの言うことももっともだと思ったから。あのときは、本当に風羽に悪いことをしてしまった」
どこか容量を掴めない、前置きの後。
千里は眉を歪めて、言うのだった。
「乃絵ちゃんは、まだ辛うじて生きているよ」
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