(5) 躊躇


 廃墟となっているマンション。

 その三階の片隅にある部屋に、唄は二回ノックをして返事を聞かずに中に入る。

 室内に入ってきた唄に、すでにいたヒカリと風羽が反応したが、何も言わずに視線をもう一人の人物に向ける。唄も彼女を見た。

 一点の視線を受けて、やっと唄に気づいたかのように回転椅子をぐるりと回すと、飾りっ気のない黒いワンピースの上から白衣を着た少女が振り返って唄ににこやかな笑みを向ける。


「ああ、やっと唄も到着やね」


 口から出るのは、どこか適当な方言。

 腰ほどまである水色の髪の毛はウェーブがかかっており、こちらに向いたサファイアの瞳がきらりと輝いた。


 もう使われていない廃墟のマンションの、三階片隅の一室。数台あるパソコンの内、一台のみの電源がついており、それ以外の電力といえば天井で揺れる豆電球ぐらいだろうか。その部屋にあるものといえば、彼女の座っている回転椅子とどこにでもあるパイプの机。それから数台のパソコンのみ。玄関に入ってすぐにある部屋の他には、台所と洗面所もあるが

 生活感の感じられない、廃墟となっているマンションの一室で、この少女は暮していた。

 自称天才ハッカー。情報通でもある彼女は、唄と同じ学年で隣のクラスの――ただの不登校少女だ。

 名前は七星水連。

 特に疑うこともなく、唄がそう呼んでいた名前は、だけど違ったらしい。偽名だと、唄は今日気づいた。

 『怪盗メロディー』の一員であり、ヒカリが仲間に引き入れた少女。

 彼女のことを、いったい自分はなんて呼べばいいのだろうか。


「水練」

「ん? なんや、変な顔して」

「……なんでもないわ。で、話って何なのかしら」

「聞いたんやないの?」


 おどけたように首を傾げる水練がヒカリを見る。ヒカリは頬をぽりぽりと掻いた。

 ヒカリと向かい合うように立っている風羽がじれったそうに声を上げる。


「そうだね。聞いたよ。君がいままで隠していたこと。――七ッ星睡蓮。それが、君の本名だろ。そして、幻想学園理事長の娘といったところかな」

「そうや」


 恐らく水練は知っていたのだろう。唄たちに、バレることを。それと、自分がバトルトーナメントに出場することを。


「昨日な、お父さまから連絡があったんや。お前を、バトルトーナメントに推薦しておいた。それに勝ったら、なにか一つ願い事をかなえてやる、ってね。意味わからんやろ」

「願いこと、か。君は何をお願いするんだい?」

「なぁんにも。だって、まだ出場するって決めてないし。あたしには、選択肢がある」

「そうだね。あくまで出場は決定事項じゃない。幻想祭の二日前までに、生徒会に辞退の申請をすれば、出場を取り消すことができる。……ああ。そうか。もしかして君は、そのために僕たちを呼びつけたのかい?」

「さすが風羽やなぁ。よく気づいた。そうや。あたしの辞退の申請をしてくれない? あたしは、学校に行きたくないから」

「不登校の理由は僕なりに考えたんだけど、父親に対する反抗心かい? 今回もそうなんだろ」

「なんや。今日はえらく喋るなぁ、風羽。そんなにつっかからんでもええやろ」

「そんなことはどうでもいい。ただ、僕から言えることは、申請は自分でやってくれたまえ、ということぐらいだよ」

「なんやて」


 ピクッと水練の眉が動いた。口を真一文字に引き結び、不機嫌さを露わにする。

 対する風羽は、表情を変えることなく淡々と言葉を紡いでおり、唄はそんな風羽の姿に少し違和感を覚える。


(風羽?)


「水練。いや、睡蓮と呼んだ方がいいかい? 辞退の申請は、自分でしかできないんだよ。代理人は認められていない。自体の申請をするには、君自身が学園に行かなければならない。僕たちでは無理だ」

「……ああ。やっぱりそうなんやね」

「可哀想だけど、君はどちらにしても学校に行くしか道はないんだ。どうするかは、まだ時間があるから君が決めたまえ。僕たちは、それをサポートすることしかできないよ」

「そ、そうだな。つまり風羽が言いたいことは、学校に行くなら俺らが手助けするぞ、ってことだろ」

「……そうかもね」


 二人の会話についていくことができずに右往左往していたヒカリが、ここぞとばかりに声を挟んで、風羽に睨まれた。

 それを傍から見ていた唄は、軽くため息をつく

(今のままじゃ、『叫びの渦巻き』のこと、調べてもらえそうにないわね)


 日を改めるには期間が短すぎる。一週間は、思ったよりも早く過ぎるのだ。


(幻想祭まで三週間を切ったところだから。さて、どうするかしら)



    ◆◇◆



 その日の夜。

 風羽は再び父親の書斎の扉に立っていた。

 呼び出されたわけではない。今日は仕事の都合で父親の帰ってくる時間が遅いのだ。もしかしたら泊まり込みになり、戻ってこないかもしれない。

 喜多野家に使用人はいるが、夕飯の片づけが終わると帰ることになっている。

 つまりいま家の中にいるのは、風羽と母親だけ。


 風羽は一度大きく深呼吸すると、書斎の扉を開けて中に入って行く。

 『叫びの渦巻き』。そう呼ばれている絵画の前に立ち、ゆっくりと腕を伸ばして触れようとした。


【…………】


 何か聞こえた気がして、触れる寸前で腕を止める。

 そしてなんとなく渦巻きの中心をボーと眺めていると、頭の中に誰かの声が聞こえてきた。


【…………】

 その声に聞き覚えがあり、しかも最近も電話越しで聞いたことある声だと気づき、風羽は腕を止めて固まる。

 息が苦しくなる。胸を押さえて、蹲りたい。

 それなのに体が動かない。その声は、風羽をその場に縛るのに十分の威力があった。


「あ」


 暫くして、風羽は正常に戻る。

 酷く呼吸をしていたらしい。額に汗が滲んでいる。

 口を押さえると、風羽は絵画に背を向けて書斎を後にした。


(あれに触れない方がいい)


 唄は、決めてくれただろうか。

 どうやら一週間も待てそうにない。


 家電の近くまでやってきて、風羽は何の変哲のない受話器を見つめた。

 プルルルルという音と、ポケットで振動する音が同時になり、風羽は受話器に手を伸ばして掴むと、すぐに戻した。着信音が聞こえなくなる。

 いまは夜の二十三時だ。母は寝ているだろう。

 風羽は呼吸を落ち着けると、ズボンのポケットから振動しているスマホを取り出し、通話ボタンを押して耳に近づける。


「兄さん?」

『おお。風羽か! 元気かぁ。久しぶりだな』

「そうでもないよ。朝に電話したばかりだ」

『そうだったか? まあ、どうでもいいな。弟の声を聞くことができるのは、兄として至上の喜びだ。で、何だったか。『叫びの渦巻き』だっけ? 一応調べたのだけどね、うーむ。俺の能力をしても、いまいち何のかよくわからなかったなぁ』

「え? 有名な絵画じゃないの?」

『どうやら無名の絵画らしい。ま、似たのはあるけど別物だろう。情報屋が聞いて呆れるぜ。俺、辞めた方がいいのかなぁ』


 そう言う兄の言葉は、いつもと同じでおちゃらけており、風羽は冗談だと受け止めて返事をする。


「兄さんは、情報屋ぐらいしか取り柄がないんだから、辞めない方がいいよ」

『兄に向かって酷い言い草だな! 俺、いま、泣いてるぞ!』

「嘘だね。兄さんは、そんなことでは泣かない。十年以上一緒に暮らしていたんだ。知ってるよ」


 風羽の兄は、父親に勘当される前まで一緒に住んでいたが、そのころから性格は変わっていない。人を笑わせることが好きで、よく冗談を言っていた。


「久しぶりに会いたいね」


 あの頃のことが懐かしくなり、風羽は思わず呟いていた。

 それを兄が受け流すわけなく、


「じゃあ、会おう。いますぐ会おう! 明日、学校帰り暇かー? 学校まで迎えに行くぜ」


 嬉しそうな兄の声に、風羽は頷きそうになり慌てて首を振る。


「いや、さすがに学校まで来ないで。迷惑だから」

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