(5) 『叫びの渦巻き』

 それは、二週間ほど前のこと。

 風羽は父親に自分の書斎に来るようにと呼ばれていた。部屋の前に立ち扉をノックしようとしたが、いつもきちんと閉まっているはずの部屋の扉が少し開いていることに気づき、なんとなくそこから部屋の中を覗き込んでしまった。そこで、風羽は普段他人には見せない父親の満面の笑みを見ることになる。


 父親の視線の先にあるのは、一枚の絵画のようなもの。

 人を不愉快にさせるような色を使い、ぐるぐると渦を巻いているそれを眺めながら、父親が笑っている。その光景は、風羽を不安にさせるには十分だった。


 隙間から顔を離し、風羽は深呼吸をすると扉をノックする。


「風羽か? 入っていいぞ」


 どこか興奮冷めやらぬといった父親の声。風羽は平静を装いながら書斎の中に入って行く。

 奥にある椅子に、髪の毛にいくらか白髪を混ぜた男性が座っていた。彼の視線は絵画に向いておらず、風羽をじっと見つめてくる。その鋭い視線に、風羽は委縮する思いをしながらも声を出す。


「なんの用ですか?」


 父親なのに緊張する。それは自分の父親が刑事で、しかも警視総監だからだろうか。


「最近、学校はどうだ?」


 重く響く声。


「いつも通りです」


 風羽は平静を装いながら答える。

 あの頃から幾分か和らいだものの、それでも父親の視線は鋭く、じっと見られていると緊張で体が強張る。


「そうか」


 そう言うと、父親は風羽から視線を逸らし、横の壁にかけてある絵画に瞳を向けた。その目が細くなり、風羽は別の意味の緊張感に苛まれた。


「そ、その、絵画。なんですか?」


 声を絞り出しながら質問をする。父親は絵画から視線を逸らすことなく、


「見ていると心が落ち着くんだ。これは、素晴らしいものだ」


 風羽は思わず目を見張った。


(この人は何を言っているんだ)


 こんな不気味な絵を素晴らしいというなんて、気持ちが落ち着くなんて、そんなの信じられるわけがない。


 風羽は絵画に目を向ける。

 人を不気味にさせるかのような色使いのされている渦巻き模様の中心に一センチほどの黒い点があった。意識していない内に、中心の黒に視線が集中して、このまま意識が飲み込まれていくのではないかと思い慌てて視線を逸らす。


 父親と目が合う。


「どうだ。素晴らしいだろ」


 その恍惚とした父親の笑みに。風羽は声が出なくなってしまった。

 そのあとに話したことを、風羽は覚えていない。それ程までに、目の前にいる人が恐ろしくて仕方がなかった。




 あれから二週間後。

 昨日の夜のことだ。

 父親の書斎の前をたまたま取り掛かった時のこと。

 書斎の中から笑い声が聞こえてきた。


「わははははっはっ。素晴らしい……素晴らしいぞ!!」


 その狂っているような声に、風羽は思わず書斎の扉を少し開けて中を覗く。

 絵画を見ながら、寝間着姿のまま両手を上げて叫んでいる父親がいた。髪の毛はボサボサで少し湿っているように見えるので、お風呂から上がったばかりだろう。

 自分の父親のいままで見たことない姿に、風羽は再び不安を覚える。


 音をたてずに扉を閉め、風羽は歩きだそうと前を見て固まる。

 困ったような笑みを湛えた、風羽の母親――千代子がそこに立っていた。


「母さん……」

「風羽……。お父さん、どうしちゃったのかしら」


 風羽の母親は優しい人だ。どうしてあんなにも厳格で厳しい父親と結婚をしたのか、不思議なぐらい優しくおっとりとした女性。

 風羽は何かを言わないと、と思い口を開くが言葉が出てこなかった。


「……二週間ぐらい前から、お父さんちょっとおかしいのよね」


 ちょっとで済むレベルだろうか。


「二週間ぐらい前にね、いきなり高い絵画を買ってきたと思ったら、書斎に飾ってずっと眺めているのよ。不気味な絵なのに、どうしてあんなに楽しそうなのかしら」

「……どこで、買ったのかはわかる?」


 やっと出てきた声は掠れていた。

 母親が首を傾げる。


「わからないわ。お父さんは、あまりそういうことを話してくれないから」

「そう」


 書斎の中から足音がした。

 風羽は少し慌てながら扉の前を通り過ぎて母親と共にリビングに向かって行く。後ろから扉の開く音と共に声が聞こえてきた。


「『叫びの渦巻き』は素晴らしいな」

「叫びの渦巻き……」


 それが絵画の名前だろうか。

 風羽はその言葉を舌の上でころがす。忘れないようにするためだ。


(あとで兄さんに調べてもらわないと)


 もしあれが意思のある絵画だったら厄介だ。

 意思のある宝石や絵画は人を狂わせる。異能力を持っていればまだどうにかできるものの、風羽の父親は能力者ではない。母親もそうだ。家族の中で、なぜか風羽と兄にのみ能力が芽生えてしまったのだ。

 そのせいで二年前、風羽は幼馴染を亡くした。

 自分の異能のせいで、彼女は事件に巻き込まれてしまい、もう一生目を覚ますことのない体になってしまったのだ。


 まだこの世界では、異能力はごく一部の人にしか現れず、能力者は圧倒的に少数だった。

 喜多野風太郎きたのふうたろう。風羽の父親は異能を嫌っている一般人の内の一人だ。異能なんて非科学的なことを信じたくなかったのだろう。

 兄は立派な人だった。頭脳明晰で人柄が良く、風羽の尊敬する人。だけど異能が芽生えてしまった。父親はそれに腹を立てて、高校生だった兄を勘当してしまったのだ。兄は怒ることなくそれを受け入れていた。いつものように、幼い頃の風羽のわがままをきいてくれた時のように。


 だから風羽自身に異能が芽生えたとき、それをひたすら隠そうとしたものの、とある事件により父親にバレてしまい、風羽は自分も勘当されるものと思っていた。

 でもいま、風羽はここにいる。父親に認められたわけではないが、ここにいる。


 それはきっと子供が二人しかいなかったから、何としても後継者を、自分の子供を警察官にしたくて残されたのだろうと、風羽はそう思っていた。


(唄に、頼むか……)


 あの黒い点を見て、風羽は我を忘れることはなかった。ということは、自分の能力はあれよりは強いのかもしれない。もしあれが意思のあるモノだったらの話だけれど。

 風羽はリビングから出ると自室に戻ることにした。書斎とは反対にある自室に向かって行く。

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