(4) お願い
乙木野町の片隅にある住宅街。夕方時だからかたまに帰宅する人を見掛けるぐらいで、人どころか車もあまり見かけない。
唄は少し辺りを見渡して、人がいないことを確認すると赤い屋根の一軒家の門を開けて中に入って行く。
玄関の前で振り返ると、ちょうど風羽が風のように現れたところだった。
「待たせたかい?」
「別に」
そっけなく返すと、唄は外から見えない中庭に移動して風羽と向かい合った。
黒い瞳が唄を見る。栗色の瞳で見つめ返し、唄は早速用件を聞く。
「で、私に話って何かしら」
「ああ。そうだね。……両親が帰ってくるまで時間はあるよね」
「あるわよ。確か今日は二人とも遅かったと思うから。早退しない限りね」
「それはよかったよ」
眉を潜めながら、風羽は考え込むかのように視線を落とすと同時に口を閉じてしまった。
その姿を不審に思いながらも、唄は風羽の言葉を待っていた。だけど数分が過ぎても口を開く気配がないので、痺れを切らして声をかける。
「風羽? 話ってなんなの?」
「ああ。そうだね」
先ほどと同じ言葉。だけど彼の視線は確かに唄を見ている。
口が開いて閉じてまた開き、風羽は観念したかのように言うのだった。
「お願いがある。……盗んで欲しい絵画があるんだ」
◇◆◇
廃墟になっているマンションの一室。
豆電球に照らされている部屋の中。パソコンに向かいながら、熱心にキーボードを打ちこんでいる少女がいた。
腰ほどまであるウェーブのかかった髪は水色で、黒いシックなワンピースの上からは白衣を纏っている、くりっとした瞳の美少女と言っても過言ではない可愛らしい顔立ちの少女。
水色の瞳をきらめかせながらパソコンをじっと見つめていた彼女は、操作していた手を止めると椅子にもたれかかって「うーん」と伸びをする。
「疲れたぁ。眠いわー」
大きな欠伸をしたため溜まった涙を無造作に袖で拭う。途端に鼻につく匂いに顔を顰め、そういえばいま着ている白衣は一週間着たままだったなぁ、ということに気づいた。
億劫そうに立ち上がると、彼女は白衣を脱ぎ捨ててかごに入れ、近くにかかっている白衣をまた纏った。それでも匂いがする。
彼女は首を傾げて手洗い場所にある鏡を覗きこみ思い出した。
(そういやぁ、風呂はいっとらんかったねー)
今日はもうこれで作業を終わらせ、まだ夕方だが眠いから早く寝ようと思っていたけれど、彼女は久しぶりにお風呂に入ることにした。お湯を入れるのはめんどうだから、シャワーだけでも浴びようとお風呂の中に入りガスの元栓を開けて蛇口をひねると、なにも出てこなかった。
「あれ?」
首を傾げながら、少女はもう一度蛇口をひねる。
水は出てこない。
「おかしいなぁ」
どうしてなのだろうか、と考える。
基本引きこもりの彼女は、ここ数日友人を自称する少年に食べ物を運んでもらい、それを食べながらパソコンを触っては寝るという不健康な生活をしていたことを思い出す。
その間ずっと水を使ってなかった……わけがない。
昼前にトイレに行ったとき、確かに水は流れた。それを思い出す。
「なんでなんやろうなぁ。水道代はお父さんが払ってくれているはずだし……あ。いや。でもそれはなぁ」
ボサボサの頭を振り回していまの考えを飛ばそうと試みるが、他のことは思いつかない。
「まあ、いいや。水なら出せるからね」
水が出ないことはあとで当人にメールでもすることに決めて、彼女は右手を前に出すと小さな声で囁いた
「水の精霊ウンディーネ。あたしに力を貸して」
呪文を呟くと、少女の右手に鞭が現れる。それをパシッと打ち鳴らしながら彼女は声を上げた。
「ほーれ。水よでてこいやぁー」
言葉通り、少女の周りにどこからでてきたのか水が散る。その量は徐々に多くなり、少女の頭の上に雨雲かのように漂うと、彼女が再び鞭を振り下ろしたタイミングで彼女の頭の上に降り注ぐ。冷えに冷えた――〝幻想世界〟から現れた水が。
「つめたっ」
今更ながら自分が操れるのが水だけだったことを思い出す。お湯を出すことはできない。
それでも少し頭がすっきりしたし、匂いもとれただろうからいいやと思い、彼女はお風呂から出ると適当に水気を落としてからいつもの黒いワンピースと白衣を着た。髪の毛は自然乾燥に任せることにして携帯を取り出すとメールの画面を開いた。『水が出なくなったんだけど』絵文字を全く使っていないそっけない文章。それを送り届けると、彼女は何かを思いつきパソコンの操作を再開する。冷たい水を浴びたからか、完全に目が覚めてしまっていた。
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