囚われた記憶
……面と向かえて、いない?
佐藤が部屋を出ていった後、俺は自問自答を繰り返していた。彼女の言葉が心の中で渦巻く。
切り捨てる? 出来るわけないだろ。あれはそんな簡単なもんじゃない。
記憶の隅に追いやっていたはずの、過去の出来事が呼び起こされた。
夜。
雨。
灯りの乏しい階段……。
断片的にではあるが、まず一番強く残り、キーワードとなるその三つが呼び起こされた。それを引き金に、頭の中で徐々に映像として蘇る。
走る。
走る。
走る……。
過去の俺は必死に走っている。雨の流れに逆らいながら、息を切らしてもなお走り続けていた。まだ子供で体力もあるわけではなく、足は疲労で思うように動かず悲鳴を上げているが、それでも俺は懸命に地を蹴っていた。
走る。
走る。
走る……。
一度出てきた記憶は奔流のように溢れだし、頭の中を駆け巡る。停止ボタンが壊れたプレイヤーの如く、頭に浮かぶ映像は自分の意思とは無関係にどんどん進んでいく。
走る。
走る。
止まる……。
俺はようやくその足を止め、荒い息を立てながらある一点を見つめていた。その先には一本の吊り橋が……。
息を整えた俺はゆっくりその吊り橋へと歩き出す。その吊り橋の中央には……。
くそっ! くそっ! ちくしょう!
そこで俺は流れ続ける過去の映像を無理矢理閉ざした。
あれは忘れようと思っても忘れられるもんじゃない。今も俺の頭から離れようとしない。だから記憶の片隅に追いやったんだ。
「――さん」
生半可な気持ちじゃあれには向き合えない。簡単に立ち向かえる事じゃないんだ。いつかきちんと整理するつもりだけど、今の俺じゃまだ力不足。頃合いを見計らって……。
「――げさん」
いや、待てよ……頃合いを見計らって? それって逃げてる、って言えないか? 面と向かっていないんじゃないか?
「――しげさん」
面と向かえていないからこそ記憶の隅に追いやっていたんじゃないか? 佐藤の言う通り、俺は臆病者……弱虫なのか? 新原には偉そうに言ったが、何年も経っていながら俺はあれから一歩も進めていないんじゃ――。
「森繁さん!」
すると耳元から自分の名を呼ぶ大きな声で俺はハッ、となり我に返る。ゆっくり横を向くと、心配そうな顔をした女性がいた。
「森繁さん、大丈夫ですか!?」
「……え?」
「顔、真っ青ですよ!? 気分が悪いんですか!?」
問いかけてくる女性が誰なのか最初は分からなかったが、すぐに林野であることを思い出し、そこでようやく自分の状況が把握できた。
そうだ……俺は今レイの通っていた大学に来てて、その友人達と話していたんだ。どうやら俺はずっと過去の記憶に耽っていたらしい。
「あ……いえ、大丈夫です」
「本当ですか? 大丈夫な顔に見えませんよ。少し横になります?」
松田も心配そうにソファーに手を向けて促してくる。
「いえ、大丈夫です。ちょっと考え事をしてただけですので」
身体は汗で濡れて動悸も少しあるが、現実に帰ったことでそれらは治まりつつある。
「考え事、ですか? でも、急にどうして……」
「どうしてもあるか。自分の彼女をあんな風に言われて平常心でいられるわけないだろ」
怒り混じりに言葉を吐き捨てる小田渕。組んだ腕に指を忙しなく叩いている。
「そう、だよね。たしかに美優紀のあの台詞は……」
まるで自分の過ちであるかのように暗くなる林野。
「あいつは何を考えているだか……森繁さん、佐藤に代わって謝ります。不快な思いをさせてすいませんでした」
「いやいや、大丈夫です。もう気にしてませんから」
頭を下げてくる小田渕。その後ろでレイも心配そうにこちらを見ていたので、慌てて手を振って答える。黙ったままだとまた心配されそうなので、すぐに口を開いた。
「そ、そういえば人数が足りないみたいですけど、他の人達は?」
周りを見ると、佐藤、新原、柿澤の三名の姿がない。
「佐藤は出ていったきりですが、新原と柿澤は落ち着くためとかで構内を歩きに行きました」
「そ、そうですか」
「まあ、僕らも代わる代わる外出してたんですけどね。その間ずっと森繁さんは座ったままでしたよ」
「ずっと、ですか?」
「ええ。大体一時間ぐらい、かな」
「い、一時間も!?」
そんなに長い間耽っていたのか……。
「最初はどう声を掛ければ分からず、自分達もそれぞれ困惑していましたから、しばらくそっとしておこうとしたんです。でも、先程から顔色が悪くなってきたので声を掛けたんです」
そりゃ心配になるわ。悪いことをしたな……。
しっかり会話もできることで不安が取り除かれている面々。だが、一人だけ未だに心配そうな顔をする者がいる。レイだ。
あいつにも平気だって伝えた方がよさそうだな。
「すいません、俺もちょっと出歩いてもいいですか?」
「ええ、もちろんです。外に出ればいくらかは気が晴れるでしょう。もしあれなら、そのままお帰りになっても……」
「いえ、最後に全員に挨拶したいのでまた戻ってきます」
「そうですか? それなら、今いない新原達を呼び戻します?」
「いや、そこまでは。でも、俺が帰ってきた時にいなかったらそうしてもらえます?」
「分かりました」
二十分程で戻る事を告げ、俺は部屋を出た。
出た瞬間、レイが一気に近付き心配そうに口を激しく動かしてくるが、読唇術のない俺には何を言ってるのかさっぱり分からない。
待て待て、落ち着け。俺は大丈夫だ。さて、どこへ行こうか。
レイと会話するにはひらがな表記が必要だ。だが、ひらがな表記を手元に一人で喋っていたら周りから不審に思われる。誰もいない場所がいいが、適当な所はあるだろうか。
すると、自分の言葉が届いていない事にようやく気付いたレイが、付いて来いと言うように手招きをしながら先に歩き出した。うってつけの場所があるらしい。
俺はレイの後を追った。
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