吊るされた赤色
レイは最上階の六階へと向かい、ある一室へと俺を導いた。レイの友人達がいた部屋は一枚の扉に対し、ここは二枚の扉が備えられている。上部を見ると白いプレートに『大講義室』という文字が書かれていた。
開けて、と言うようにドアノブを指差すレイ。鍵が閉まっているのでは? と思いながら手を掛けるが、扉は難なく開き俺は大講義室へと入った。
室内へ入るや否や、レイは早足で一番前の長い机の前に立ち、その端に来るよう促してきた。俺はそれに従い、ポケットからひらがな表記を置く。
『ねぇ、本当に大丈夫!? めちゃくちゃ顔真っ青だったじゃない! ずっと動かなかったし、まだ気分悪いんじゃないの!? ねぇ、どうなの!? ねぇ!』
置いた瞬間、レイが俺に捲し立ててきた。
「ねぇねぇうるせぇな。もう大丈夫だよ」
『本当に!? 本当の本当に!?』
「本当だよ」
『本当の本当の本当の本当に!?』
「本当の本当――って、喧しいわ!」
しつこく聞いてくるので思わず叫ぶ。だが、それが却って安心したのかレイはホッ、と息を付いた。
『もう、心配させないでよ』
「悪かった」
本当に心配してくれていたのだろう、俺は素直に頭を下げた。
『んで、何がどうしたの?』
「何が?」
『何が? じゃない。ずっと固まったまま何を考えていたの?』
「いや、うん、まあ……」
『何よ、その歯切れの悪さは。言いにくいことなの?』
言いにくい事と言えば言いにくい。出来れば口にしたくない話だ。しかし、これだけ心配させて何も説明なしとはいかないだろう。
『栞さんの言ってた、悟史の過去の事と関係あるんじゃない?』
だが喋ろうとする前に、レイの指摘に俺は驚き顔を上げた。
「何、で……」
『やっぱりね。そんな事だろうと思ったわ。苦しみ方が尋常じゃなかったし、もしかしたら、って思ってた。美優紀の死者に対する発言がきっかけ、って所かしら?』
こいつはどれだけ鋭いんだ。ピンポイントで当ててくる。しかし、ここまで当てられてはしょうがない。話すしかなさそうだ。
「ああ、実はお前の言う通り――」
『あっ、ストップ。話さなくていい』
だが、レイが手のひらを向けて止めてきた。
「何でだよ。前にお前聞きたがってたろ」
明日か明後日、とか急き立てていたのだから、レイにとって今回は絶好の機会ではないのだろうか。
『あのね~。ついさっきまでその事で苦しんでたのに、それをまた思い出させて話させる程私は酷くないわよ。またほじくり返してどうするのよ』
腰に手を当て、呆れ混じりにそう答えてくる。それは俺を気遣う言葉だった。
「おかしい……レイが優しいぞ? まだ現実じゃないのか?」
『私はいつだって優しいですけど!?』
心外だ、みたいな顔で返してくるレイ。そいつはどうだろう、と俺は心の中で言う。
『全く……それはそうと、美優紀には腹が立つわね』
腕を組んで不機嫌になりながら、レイが話題を変えてきた。
「あの人はいつもあんな感じなのか?」
『ええ、そうよ。人をバカにするような態度は相変わらずだった。知り合った頃はあんなんじゃなかったのに……』
「えっ、最初からあんな風じゃなかったのか?」
レイの言葉に驚き、思わず聞き返した。
『うん。変わったのは三年ぐらいからかな? 二年まではもっと質素でみんなに優しかったし。髪も茶髪じゃなくて黒で、服装もあんな派手じゃなかった。肌の露出が少なく可愛い系の服を着てたわ』
おいおい、まるで真逆じゃないか。
「何でそんな変わったんだ?」
『それが分からないの。急にあんな感じになってみんな驚いたから聞いてみたんだけど、イメチェンとだけいって詳しくは言わなかった』
イメチェンどころの変化ではない。オセロの白から黒へひっくり返ったぐらい別人ではないか。それだけの切っ掛けが何かあるはずだが、レイが分からなければ今日初めて会った俺にも分からない。
『ああもう! 言いたい放題言って出ていくとか、本当腹が立つ! 悟史も悟史よ。何であんな人に挨拶なんかするの? そのまま帰ればいいじゃない』
「帰れるわけないだろ。俺だって腹が立ってるんだから」
『……えっ?』
キョトン、とレイの表情が固まる。
「レイの事をあれだけ罵られて、さすがにあのまま黙って帰るか。一言二言文句浴びせてから帰るに決まってるだろ」
『あ、うん……あ、ありがと……』
急にモジモジ手を擦り合わせるレイ。それから、チラチラと目を向けながら尋ねてきた。
『ち、ちなみに……な、何て言うつもり、なの、かな?』
「そりゃあ、レイは俺の……」
『お、俺の!?』
何かを期待する瞳でレイが俺を見つめてくる。
俺の……。
俺の……。
「俺の……何だ?」
『……知らない』
俺の答えにプイッ、と顔を背ける。なぜか頬を膨らませて不機嫌だ。その理由は分からないので今度は俺から話題を変える。
「それより、まだここにいて大丈夫なのか? 他の生徒とか講師が来たりしないか?」
『あ、うん。それは大丈夫。この大講義室は滅多に人来ないから。はあ~、久し振りに来たな~ここ』
そう言うと、レイは気持ちよさそうに背伸びをした。
「なんだ? ここ何か特別な部屋なのか?」
当然な疑問をそのままレイにぶつける。
『う~ん、まあ特別っちゃあ特別かな。大学にいた頃はよく一人でここに来てたから』
「こんな広い講義室に一人で? 何しに?」
『気分転換』
「気分転換?」
『うん。気分がむしゃくしゃしたり、なんか落ち着かない時はよくここに来てたんだ。一人になりたくて』
空いている席の一つに腰掛け、レイが優しい手付きで机を撫でる。なるほど、当時から人がいないことを知っていたからここに俺を導いたのか。たしかに、レイと会話するにはうってつけの場所だ。
「一人になりたきゃ自分のアパートに帰ればいいだろ。何でわざわざ」
『広いからよ。これだけ広く開放的な空間に一人だけでいると、なんか落ち着いたの。アパートじゃいくらか閉塞感があるし』
俺はどちらかというと狭い方が落ち着いたりする。特にトイレとか。
『あと、そこの教壇に立ったりもした』
レイが俺の前方に指を差す。そこには簡易にできた木製の教壇があった。
「教壇に立ってどうなるんだ?」
『別に何も。ただ、想像するだけ』
「想像?」
『そっ。いつか先生になったらこうして教壇に立って、生徒と向かい合いながら授業を進めていくんだな~、って』
教壇に回り込み、目を瞑るレイ。今、彼女の中ではどんな授業風景が流れているのだろうか。
「先生」
イメージだけじゃ物足りないだろうし、ここは一つ俺も加わってやろう。そう思い、生徒さながら手を上げて呼ぶ。
『何かな森繁君?』
先生、と呼ばれた事が嬉しかったのか、笑顔で俺の前まで来ると優しそうに問いかけてきた。
「宿題忘れました」
そう言うや否や、レイは俺の頭に拳を降り下ろす。当たることはないので衝撃はなく素通りしたが、殴られるという行為は気持ちのいいものではない。
「お前宿題忘れたぐらいで殴るなよ。今じゃそんな事したら一発でクビだぞ」
『うっさい! やるなら普通の生徒役でやってよ!』
「いや、宿題忘れるとか普通だろ。絶対クラスに一人二人はいる」
『いや、そうかもだけど……どうせなら授業の質問してくる生徒とかさ』
「甘い! 俺は生まれてこのかた一度も質問などしたことない!」
『威張ることじゃない!』
全く、と俺を見下ろすレイ。だが、そこに怒りの感情はなく、どこか楽しそうであった。真似事とはいえ、教師になれたことが嬉しいのだろう。
「レイは小学校の先生目指してたんだよな」
『うん。小学校の時に憧れてた先生みたいになりたかった』
当時いじめに遭ってたレイを守り、支えてくれた優しい先生。生徒を思いやる理想の先生だ。
『今はもう先生は無理だけど、強くて優しい女性になる志は忘れてない』
「実際は比重で言えば強さ八、優しさ二ぐらいだけどな」
『何言ってるのよ。優しさ九、強さ一でしょ』
「すぐに物飛ばしてくるヤツのどこが優しさ九なんだよ」
『あれも優しさよ。悟史を思っての行動なんだから』
……重量のある花瓶やフライパンを飛ばす事のどこに思い遣りが?
他にも多々あるが、言い出したらキリがないのでこれ以上は掘り下げない。
『強くて優しい女性。そんな人になるには下ばかり向いていられない。だから、気持ちを切り替える時はいつもここに来てた。それで、最後にこうして上を見上げてまた頑張ろって――』
すると、ひらがな表記に走らせていたレイの指が突然止まった。
何だ? どうした?
不審に思った俺は顔を見上げると、レイは目を見開き、固まった状態でどこか一点を見つめ続けていた。気になった俺は振り返り、その先と思われる箇所へと目を向ける。
「……は?」
目に飛び込んできた光景に一瞬思考が止まり、レイと同じように俺も固まってしまった。そこにはあり得ないモノがあったからだ。
天井付近から垂れ下がった一本のロープ。それは鮮やかな赤色のモノを吊るし、床に着くことを阻止していた。よく見ると、赤色の一点からは黒い突起なようなものが突き出ており、そこを中心に別の色が広がっている。
数秒の末、俺はようやくそれがなんなのかを理解できた……
……目の前にある光景は、首からロープで吊るされ、胸に刃物を突き刺された佐藤美優紀であることを。
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