第一章

我が家

「へ……へ……ぶぇっくしょい!」

 盛大なくしゃみが部屋中に響き渡る。

 現在時刻は十一時三十分を回った辺り。場所は自宅のアパート。俺こと森繁悟史はマスクをした状態で部屋に立ち尽くしていた。

 築何十年に相応しいと言えるように痛んだ天井に少し色褪せた壁。俗に言うボロアパートで、住み始めた頃は不安を抱いたりもしたが、長く住んでいるからか、今ではそれらに哀愁を感じるまでになっている。

「っあ~、マスクしてるのに鼻がムズムズする」

 風邪を引いているわけではないのだが、先程からくしゃみが幾度となく繰り返されていた。キョロキョロと辺りを見渡し、見つけたティッシュを掴むと鼻をかみ、窓際に置いてあるゴミ箱へ投げ入れるが、軌道が逸れてゴミ箱二個分ほど外れた位置に落ちる。拾いに行こうと思ったがすぐに面倒臭くなり、ふと目線を上げてみた。

 窓から見える外は透き通るように晴れ渡った青空だった。青というよりも水色に近いような色合いに、ちらほら見えるゆっくりと流れる雲は魚のようで、その様子は水族館の水槽を見ているかのような錯覚に陥ってしまうほどである。天上の水族館、だったかな? 以前テレビで誰かが表現しているのを聞いて最初は「何言ってんだこいつ。空に水族館はないぞ?」等と思っていたが、今になってようやくその意味を理解できた。感性が身に付いたのだろうな。当時の自分からは想像できず、これが人間の成長というものなのだろう、と柄にもなく一人でうんうんと納得している。

 そして、開け放たれた窓からは心地よい風が入り込み、ゆらゆらと緑のカーテンを揺らしている。小さな揺れであるが、その方がどこか安心というか、心が落ち着く気持ちを抱くのは俺だけではないだろう。

「ん~、気持ち良い日だな今日は」

 マスクを外し、光を身体全体で受けながら俺は背伸びをした。

「こういう日はお出掛け日和だろうけど、昼寝日和とも言えるよな。身体がポカポカして最高に気持ちいいし」

 そう言いながら、俺は傍にあるソファーに倒れ込むように後ろからボスっ、と身を任せた。

「あ~、今なら良い夢見られそう。久し振りの休みだし、たまにはこういうダラけた時間を過ごすのも悪くないよな。う~ん……よし、寝るべ」

 横たえた俺は寝やすい姿勢に身体を動かし、それからゆっくりと目を瞑る。暖かさも加わりすぐに睡魔が訪れ、意識が徐々に眠りの世界へ落ち始め、そしてとうとう底へ辿り――。

 ゴスッ!

「イッテェェェ!」

 ――着く前に額に衝撃が走り、現実へと再び引き戻された。ゴトッ、という音が床からしたので見てみると、そこにはテレビのリモコンがあり、どうやらこれが額に当たったらしい。一体何処から? と思うも、自体はそれだけでは終わらなかった。

 バサバサバサバサっ!

 羽ばたき音を轟かせ、部屋に溜め込んでいる複数の漫画が次々と俺に迫ってきた。

「ぬおぉぉぉ、漫画に襲われてる! 落ち着けお前ら、汚してないし折り目も付けてないし破いたりもしてないだろ!」

 なぜ俺は漫画達にに襲われているのだろう。あれか? 読み終わった後よく床に重ねているが、きちんと揃えずずれた状態で重ねているからか? それで歪んで怒ってるとか?

 そんな襲われる原因を突き止めていると、今度はTシャツや靴下といった衣類が顔に飛び掛かってきた。

「ぶわぁぁぁっ、今度はお前らか! 何をそんなに怒ってるんだ! あれか、洗剤を変えたからか? それは我慢してくれ。今のに比べたら前のは高いんだよ!」

 それとも柔軟剤を使え、とかか? お前らいつからそんな贅沢な布になったんだよ。

 俺の気持ちも伝わらず、漫画と衣類達は尚も俺の周りを飛び交っていた。まるで文句を俺に言っているかのように。

 なるほど……どうやら躾が必要みたいだな。持ち主に対してこの仕様。反抗期の類いか何かだろう。ならば、ここは一丁厳しく叱って――。

「――って、んなわけあるかぁぁぁ!」

 天井に向かって俺は大声で叫んだ。

 漫画と衣類の飛行。

 一般の人から見れば間違いなく驚き、恐怖も抱く者も少なくないだろう。だが、俺にはそんな感情は芽生えない。なぜなら、こういった光景は日常茶飯事だからだ。そういうわけで、原因もはっきりしている。

「てめぇ、レイ! 伝えたいことがあるなら口で言え! 物で伝えるな!」

 そう言った途端、部屋を飛び交っていた漫画達が一斉に床に落ち始めた。そして振り向きながらさらに言葉を紡ぐ。

「何度も言ってるだろ。固いもんは飛ばすな、って。紙でも束なんだから固いし、リモコンなんか触れなくても分かるだろ。打ち所悪けりゃ大怪我もんだぞ?」

 そう注意する俺の目線の先には、一人の女性が腕を組み立ち尽くしていた。

 彼女の名前は風神レイ。セミロングの髪にぱっちりした目。小顔でスラッとした体型にワンピースを着ており、お世辞抜きでも個人的には可愛い部類に入ると思っている。

 俺の部屋にいるという事実からすれば恋人と思われるかもしれないが、俺とレイはそんな関係ではない。たしかに、共にこの部屋で暮らしているが、俺達の生活はそんな一般的なものではない。その理由の一つとしてレイをよく見れば分かるが、彼女の身体は透き通っており、奥の壁が見えている。

 レイは人間ではない。元人間という表現が正しいだろう。なぜなら、彼女は幽霊だからだ。とある理由からレイは俺に取り憑き、こうして共に過ごすことになっている。

 普段はよく笑ったりと笑顔を向けているが、今は真逆の鋭い顔付きで俺を睨み付けていた。

「おいこら。黙ってないで何か言ったらどうなんだ、レイ」

 そう問いかけるとレイはゆっくりと動き出し、壁に取り付けてある『ひらがな表記』に指を走らせた。彼女は声を出せないので、俺との会話の際にはこのひらがな表記で意思伝達をしている。

『何してんの?』

「いや、昼寝をしようと」

『何で昼寝?』

「んなもん決まってるだろ。寝たいからだよ」

『何で昼寝?』

「だから、寝たいからだって今言ったろ?」

『何で昼寝?』

「いや、だから――」

 どういうわけか、俺の答えに対してレイは同じ質問を繰り返しきた。間違いなく彼女は怒っているのだが、その理由は何なのだろうか。

『本当に……あんたは……』

 首を傾げる俺に対し、レイは何かを耐えるかのように身体を震わせている。だが、その忍耐も続かなかったらしく、すぐに爆発した。

『昼寝してる暇なんかないでしょうが! 周りをよく見なさい! ついさっきまで自分が何してたのかもう忘れたの? 忘れたんならもう一度その目にしかと焼き付けろ!』

 部屋を見るようレイが手を横に振る。それに倣って俺は自分の部屋を眺めてみた。

 目の前に広がっている光景は、先ほど襲われた漫画や衣類、それに加えてゴミが所狭しと広がり、足の踏み場がなく部屋の約九割は床が見えないくらいの、盛大な散らかりっぷりだった。

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