最下層にして最上位

 戦場で一番元気だったのは、積み重ねられた死体に群がる虫どもだった。


 蝿、蛆、何よりもでかいゴキブリ、それが敵味方の死体、時には死にかけの肉体を喰らい、増えに増え、ありとあらゆる場所で走り回っていた。


 流石にここの蟻ほどの数はなかったが、その分自由に寝ている顔の上にも出没する。


 ……こいつは、そんなゴキブリを想起させた。


 投げつけた三又、それが届く前に空中で叩き飛ばしたのは、長い黒い太い、髪の束だった。


 おそらく三つ編み、にも関わらず度を超えた長さ、垂らせば腰まで届くであろう一本が、振り返る首の動きで振り回されて叩いたのだった。


 殺し合いの場でなかれば笑い転げてただろう。


 だけども、叩き飛ばされた三又が粉々に粉砕された威力、笑い事ではなかった。


「……そっか」


 呟いた一声は意外、女のものだった。


 甲高く、子供にも聞こえるが、振り返った顔はババァの世代だった。


 白としか言いようのない肌、たっぷりの頰肉、小さな目、点のような眉、唇は赤いがそれは血のものだろう。


 そしてすくりと立ち上がった姿は、壁だった。


 俺よりも断然短い手足、だけども俺よりも四倍はありそうな腹と胸、この体系でどうやってここまで来れたか、あのドアを潜れたのか、驚きのスタイルだ。胸には谷間が、だけども食べ残しの生肉が滴り汚れて、セクシーとは程遠い。


 三つ編みは前髪だ。目の上すぐ、左右に一本づつ、正にゴキブリの長い触覚、その先端は刺々、鈍い反射は釘のもの、根元は椅子かテーブルの木片、結びつけてあった。


 右手には短い片刃が握られ、左手には歯型の残る右か左の膝から下があったがぼとりと捨てられた。


 そして空になった左手がこちらへと向けられた。


「そうだよね。食べるなら健康的でイケメンな方だよね」


 そう言ってゴキブリ女、ヨチヨチとこちらへ、迫ってくる。


 速度は遅く、だけども迫力は抜群、逃げるなら後ろ、ドアの向こう、ではダメだ。それで塞がれたら、死体でも退かせない。


 右へ回避、これを追ってゴキブリ女も左と曲がる。


 その遠心力、それと首の動きに振り回されて触覚が畝り伸びてくる。


 左より横殴りの軌道、顔面へ迫る刺々、存外に広く回避が無理、なのでロングソードをぶち当てる。


 軽い金属音、だけども重い手応え、切っ先の腹で打った刺々はクルクル回りながら、それでも引っ張られて通り過ぎていく刹那に次が来ていた。


 右からもう一本の触覚、軌道は低く足元狙い、剣は間に合わないので跳んでかわす。


 チリ、と足の裏に風を感じた。


「逃げないでください」


 変に冷静な声とともにゴキブリ女が右へ左へ、二つの円を左右交互に描くように首を捻り、それに合わせて触覚が左に右に、畝り迫る。


 一つ受けてもすぐに次が来る。


 手っ取り早く後ろへ届かぬ距離引く。


 塔前もそれを追いかけてくるゴキブリ女、二重の円を保ちながら一歩一歩、遅いが確実に向かってくる。


 ……逃げるのは楽、だけどもやたらと遠くまで伸びる触覚がやたらと広範囲を抑えられて、すれ違えることができない。


 逃げながらも背後の壁を感じる。


 時間には限りがある。現状維持はできない。


 投擲?


 メイスなら投げられるが、触手の壁は健在、それを抜けたとしても、あの巨体に当たったところで致命傷となるかはあやしい。


 理想は、受けて捉えて止めて、その隙に斬り落とす、だがロングソードもメイスも左手の籠手も心許ない。


 ……ここは、プシュチナだ。


 あれなら当たって刺されば隙を作れる。


 どうせ使い道のない壊れかけ、潔くバッサリと使い捨てよう。


 思い、背後を見るもそこにはいない。


 探せば反対側、ゴキブリ女の見てない向こう側を通って向こうへ、こっそりと抜けようとしている。


 どうする? 指摘して陽動するか?


 いや、そこまで露骨なら気取られ無視されるだろう。危険度は明らかに俺の方が上なのだ。


 思考する間も間合いは詰められ、背後に壁、追い詰められる。


 こうなれば飛び込む。


 一本を弾き、二本目を掻い潜り、三本目の前に斬り殺す。


 我ながら酷い作戦、だけども他にない。


 覚悟は済んだ。あとはタイミング、計る。


 ……と、触覚が失速した。


 動きが怠慢に、足元もふらつき、歩みも止まり、そして終には二つの円は消えて、二本の触覚は床へと落ちた。


 そして膝に手を突き、前かがみになるゴキブリ女、いつのまにか汗だくだった。


 おえぇ!


 口から吐き出されたのは、ゲロであり、同時に死体でもある赤いドロドロだった。


 ……自分でやってた攻撃で目が回るとか、悪ふざけでしかないが、それでも隙だらけではあった。


 逃して待ってやるほど優しくはない。


 ロングソードを引き摺るように、一気に駆け出す。


 前だったら触手の範囲だった空間に飛び込みなおも間合いを詰める。


 存外あった距離、灰色の部屋とでかい体が距離感を狂わせてた。


 それでも銀の剣が届くまであと六歩、五歩、四歩に入る前に、ゴキブリ女が動いた。


 膝についてた左手を離し、触覚へ、掴み、手繰り、手首に巻きつけると、肘を中心にぐるりと回して、放った。


 飛んでくる刺々、今度は真っ直ぐな軌道、俺の胸へ、いきなりの奇襲、だけど、驚きはあるが、速くはない。


 これなら弾ける。


 大きく左手を右肩まで引き上げるや振るい、叩きつけるように受け流パリィした。


 狙い通り、弾かれ、撓み、無力化された触覚先端、空中に完全に止まった。


 ……その瞬間、ゴキブリ女は笑った。


 回して投げた左手はそのまま、下がってた首を捻り弾き、触覚の黒髪へ波を生み出し伝わらせる。それは初めは小さく、だけども撓みと加わり大きくなって、俺の目の前で大きく弾けた。


 そして偶然か、狙い通りか、できた輪が、弾いたはずの左手を潜らせ、刹那に締められた。


 やられた。


 完全な拘束、触覚の輪は締まり、刺々が三つ編みと俺の腕に食い込み固定されて、これで逃げられなくなった。


 俺を捉えたゴキブリ女は満足げに笑うと、おえぇ、の続きに戻った。




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