柔らかくて湿ってる

「……ぁが」


 荒ぶる呼吸、声を出すのは敵に居場所を教えるだけ、今すぐ止めるべきだ。


 頭でわかっていても痛みに負けた本能が絞り出す。


 同じく溢れ出る涙、それでも洗い流せない痛み、使えない右目を押さえながら、なんとか左目で灰色の亡骸を見下ろす。


 うつ伏せ、上になった背中に紐も糸も貼り付けた跡もない。あるのは丸出しのケツだった。


 なら槍は、笑えないことに、ケツに挟んでいたことになる。


 それであの動き、と考えて全部がわかった。


 この痛みに覚えがある。場所は戦場、時は何気ない日常、何日も風呂に入ってない垢だらけの顔に流れた汗が、目に入った、あの染み入る痛みだ。


 それと同じモノが、いやそれよりも汚いモノが、槍先にあり、振られて飛んで、目に入った。


 最後の足掻きをモロに食らったのだ。


 笑えない。


 わかったところで目は治らず、痛みが思考と行動を阻害する。


 無様で隙だらけとわかっていながら両膝と右手を床につけ跪き、左目で閉じた右目を押さえ続ける。このまま指で擦り取りたい衝動、だけどもただでさえざらつく指で、それもあれこれ触って汚れた状態で、目に触れれば悪化しかねない。


 それでも止まらない衝動を堪えながら、溢れる涙を瞼の裏で擦り付け、代わりにするも、痛みは洗い流されない。ただ顔を湿らすだけだった。


 ……こんなことをしている場合ではない。


 なのに、高々片目が痛む程度で、泣いている。俺が他人なら俺を殺してるところだ。


 だが戦えば、痛みに片目に、分が悪い。


 せめて隠れなくては、時間のない中、建物の二階以上まで探しにくるやつは少ないはず、加えてわかりやすく待ち構えてる印を残せば、いやそんなこともできないだrぅ。とにかく移動だ。


 決め、立ち上がろうとした時、足音がした。


 最悪のタイミング、逃亡、いや迎撃、スティレットを構えて向けると、そいつはプシュチナだった。


 致命的な失念、戻しに出たまま逃げ出したかと思っていたのに、戻ってきた。


 この状態、いくらメスガキとはいえ何かしら拾ってきた得物があれば、殺されかねない。


 ならば殺さねば。


 思い、スティレットを向けるも、プシュチナはその横をスルリと通り過ぎた。


 片目、痛みと涙で遠近感が狂った。修正、する前にその骨ばかりの両手の指が、俺の顔を挟んで上に上げる。


 そこから俺が逃げるより先に、はたき落とすように俺の左手をどかすや、染み痛む右目の瞼を二本の指でこじ開けた。


 光、悪化する痛み、右目は近寄るプシュチナの顔を、開いた口を、飛び出た舌を見る。


 レロリ。


 生暖かく、柔らかく、でもざらついた、他に類のない感触、プシュチナの舌が俺の右目を舐めとった。


 変態、としか判断できない行動、だというのに嘘のように痛みが和らいだ。


 ベッ、と唾を横へと吐き捨てるプシュチナ、そして再び目を舐める。


 引いていく痛み、三度目に舐められたら、もはや痛みは消えていた。


 それでもまだぼやける視界、それも瞬き数回で元に戻る。


「……どうですか?」


「あ、あぁ。もういい」


 応えると顔を抑えてた指が退き、プシュチナが離れる。


 ……まだ若干の違和感はあるが、それだけで不都合と呼べるほどでもない。


 プシュチナの行動、なるほど、と感心する。


 手と違い、口の中は比較的綺麗で、程よく湿っていて、舌は柔らかい。汚れたりゴミが入った眼球を拭うに手短で最適と言えるだろう。


 覚えた。次同じ状況になったらそこの死体から舌を切り取り、拭うようにしよう。


 脳裏に刻みながら立ち上がり、改めて現状を確認する。


 周囲は静かだ。ドアを閉めれば、いきなりの奇襲はないだろう。


 死体は二つ。


 まず灰色、顎よりスティレットを引き抜けば残りは全裸、何も身につけてないのは明白だ。


 それでも二枚刃ナイフと折れた槍がある。それぞれ触れると粉っぽい。唾液あたりで湿らせ、壁を削った粉を振りかけてあるようだった。


そのまま迷彩を、とも考えたが、握ると滑るので擦り落とす。二枚刃は柄まで鉄製、刃はどちらも折りたためないから携帯が不便だが、その分丈夫そうだ。


槍は柄が木製、折れた断面がささくれだってるので床に擦り付け、滑らかにしておく。


 次に斧男、シャツは頭から漏れ出た液で汚れて、使い物にならない。


 ズボンは、まだ綺麗だが脱がそうにも足が引っかかり手間取りそうだ。


 頭の斧を引き抜くと柄まで鉄製で刃は肉厚、持てばズシリと重く、俺の腕力では片手だと振ることはできても小回りは死ぬ。攻撃力は高いがそれ以外が落ちるとなると、何が起こるかわからないこの先では不安だ。


結果装備は、左の盾の板の間に折れた槍を差し込み、手には二枚刃ナイフを、右手には斧を持つが、これは敵にと利用されないため、折を見てどこかに捨てるつもりだ。最後にスティレットを腰の後ろに戻して完了だ。


 基本は斧ではなく槍かスティレットで戦うつもりなのだが、捨てて引き抜き構え直すという動きに若干の不安が残る。


 その時は、プシュチナを切り捨てるとしよう。


 準備が整った。


「行くぞ」


 命じるとプシュチナは速やかに従い、ドアを開けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る