第2話 風間瞳のひとみ

 何もない小さな町の木の匂いの中で、僕は育った。家は昔から五つほどの山を所有していて、二十人ほどの職人を抱える木材業を営んでいた。かといって、特に裕福でもなく貧しくもなかった。

 母が八年ほど前に事故で死んでからは、父親に面倒をかけないように、ひっそりと大人しく過してきた。学校でも同じように目立たない存在だった。山を駆け回ったり、友達とワイワイ騒ぐこともなかった。もともと、そういう性分だったのだろう、一人でいることは苦ではなかった。というよりも、集団行動とか大勢で一緒に何かをするということが苦手だった。その場だけの話題に大声ではしゃぎ立てる奴らが鬱陶しかった。時には嫌悪さえしていた。クラスでは、無口で何を考えてるのか分からない変人と言われた。それは、その通りなのだけど。

 一人で居てもやることが何もないので、とりあえず勉強をした。だから成績だけは良かった。中学になってからは、本とネットが僕の世界だった。そして、早くここを出たいとばかり考えるようになっていた。

 ここじゃない、どこか。今じゃない、いつか。そこが僕の居場所。そんな、モヤモヤと、ヒリヒリと、ジクジクとした思いだけが大きくなっていた。

 中三の夏休みに、父の弟にあたる叔父さん家族が墓参りがてら家にやって来た。毎年のことだった。その時に、叔母さんが世間話の合間に「省くん、成績いいんだったら都南とか狙ってみたら?」と何気なく言った。その言葉は、僕にとっては天啓のようだった。その日から、受験のための勉強しかしなかった。秋の模試で合格判定が出て、先生に進学先を相談した。難関高校への進学は学校にとっても大きな業績になるので、先生たちは積極的に応援してくれた。

 父には、生まれて初めてと言えるくらいの熱意を込めて、東京の高校に行きたいと説得した。まあ、叔父さんたちが迷惑じゃないなら、とわりとあっけなく了承してくれた。それどころか、叔父さんの家の隣りの空き地を買い取って、そこに離れの小部屋を建て、毎月八万円の家賃と生活費を支払うという条件まで出してくれた。叔父さん一家は、そんなにしなくても歓迎すると言ってくれたけれど。時々、春臣くんの勉強を見てあげるというのが僕の役割だ。

 通学できる環境さえ整っていれば、高校は入学可能だった。そして無事に都立南大沢高校に合格し、僕の新しい生活が始まった。


 いざ高校生活が始まってみると、またやるべきことが無くなってしまった。

 夢や希望や将来の展望とかがあったわけじゃない。ただ生まれた町を逃げたかっただけ。少なくとも三年間は、この環境で暮らして行くことになる。いったい何をすればいいのか。またクラスにも馴染めないまま、孤独にひっそりと過すのか。

 結局、何も変わらないことに気付いて、愕然とする。ここじゃないどこか。今じゃないいつか。それだけを目標にしてきたのに、そうなってみると、僕はただの迷子だ。友のようだった孤独も、今は不安を膨らませるだけだった。

 そんな思いを抱えながら、この二、三日、慣れない校舎をうろついていた。

 この学校は、生徒の自主性を重んじる自由な校風と謳っていた。その方針の一環か、全員何かの部活動をしなければならないらしい。興味を引かれる部活動なんて、何もない。それでもとにかくどこかの部に名目だけでも所属するために、部室棟の廊下を彷徨う。出来れば、あまり活発じゃない目立たない部がいい。つい、そう考えてしまう。

 最初はパソコン部を覗いてみた。まあ、パソコンなら結構触っていたし、そんなに情熱に溢れた部活でもないだろう。そう思ったのだけれど、実際は部員が五十人以上もいる人気のある部活だった。オタクっぽい人も、そうは見えない人も、視聴覚室のあちこちで、和気あいあいと、でも真剣な眼差しで何やら言い合っていた。

 他にも、図書部、書道部、文芸部、競技かるた部。どこも予想以上に活気に溢れていた。部活の内容を聞くだけで情熱が伝わってきた。ふと、僕もその仲間になれたら素晴らしい青春の日々を送ることができるのかも知れない、という気になる。でも次の瞬間には見えない壁が立ち塞がり、僕の行く手をさえぎってしまう。

 そんな中、部室棟の奥まったところに細く扉が開いている部屋があった。そっと覗いて見ると、一人だけ机で本を開いている人がいた。ぼんやりと物憂げな様子だった。扉のプレートには写真部と書かれていた。

 何の期待もなく、ふらりとその部屋に入った。

「あの、一年生なんですけど、少しいいですか?」

「あーそう。どうぞー」と、その女生徒は抑揚のない声で振り向いた。

 小さな部屋に乱雑に並んだ四つの机のひとつに座る。その女生徒のタイは緑色。つまり二年生だ。

「ええと、ちょっとこの部について教えてもらいたいんですけど」

「いいわよー」と、眠たげな瞳を向ける。

「写真部って」と言いかけた時、扉が開いてもう一人入ってきた。エンジのタイの一年の女生徒だった。

「あ、すみません。お邪魔ならここで待っていますので」と、眼鏡を掛けた大人しそうなその女生徒が入り口の隅で言う。

「あなたも体験入部? なら、こっちで一緒に話を聞いて」

「は、はい、失礼します」と、一年生の女子が僕の隣りに幾分距離を置いて座った。

「んーと、体験入部だったら、ここにクラスと名前を書いて」と二年の女生徒が紙を差し出す。

「その前に、簡単な活動内容なんかを教えてもらえますか?」

「ん、そう。写真部は、各自好きな写真を撮る。それだけ」

「え?」

「ん?」

「それだけ?」

「そう。あー、あとは自分の写真を学校祭で適当に展示するくらいかな」

「は、はあ……」

 隣りの女の子も、きょとんとして固まっている。

「ちょっと質問いいですか?」

「いいよー」

「部員は何人くらいいるんでしょうか?」

「今は、20人ちょっとかな。まあ、ほとんど籍だけ置いてるみたいなもんだけどね。時々部室に来るのは四、五人くらいだねー」

「やっぱり、ちゃんとしたカメラを持ってないと入れませんか?」

「そんなことないよー。携帯で撮ってもいいし。空いてたら部のカメラを使ってもいいしー」

「はあ……」

 この人の口調もあいって、やる気のない部活だ。まあ、そういう部活を探していたんだけど、これはちょっといい加減過ぎないか?

「あの〜」と、隣りの女の子が恐る恐る聞く。

「私、まったくの初心者で、初歩から写真の勉強したいんですけど……」

「んー、私の分かることだったら教えてあげるけどー」

「それで、まずどんなカメラを買えばいいのか、とか相談したいんです……」

「そっかー。どんな写真を撮りたいとかあるー?」

「それもよく分かんなくて」

「写真は好きなの?」

「あ、はい。見るのはわりと好きで……。で、私も何か撮ってみたいなって。ただそれだけなんですけど……」

「んー、いいんじゃない、それで。じゃあさー、ここにいろんな写真集あるから、撮ってみたい感じの写真を見つけてみればー?」

「は、はい」

「まあカメラなんてどれだってそんなに変わんないけどね。肝心なのはレンズだし。あとは値段とか重さとか使いやすさとか、かなー」

「そういうの、相談に乗ってもらえますか?」

「いいよー」

 無気力そうに見えて、なんとなく頼りになりそうな気もしてきた。こういうちょっと変わった人には、逆に好奇心が湧いてくる。

「あ、僕も初心者っていうか、カメラに触ったこともなくて、特に写真が好きっていうわけでもないんですけど」

「んー、君も幽霊部員希望なんだねー。別にそれでもいいけどー。他に何か聞きたいことあるー?」

「あの、あなたがここの部長なんですか?」

「そうだよー。誰もやる人いないからねー。とりあえずブチョー。二年の椿つばきっていうのー」

「あ、僕は一年Bクラスの橘です」

「私は、一年Dクラスの梅原さくらと言います。よろしくお願いします」

「あはは、花ぞろいだねー。体験入部は自由だからねー。正式に入部しても自由だけどー」

 僕と梅原さんが用紙に名前を書いている間に、部長さんが本棚から何冊か写真を出してくる。

「こんなの見てみるー?」

「はいっ!」と、梅原さんが目を輝かせて机に置かれた写真集を選び始めた。この子は、本当に写真が好きなんだろうな。

 僕もなんとなくその中の一冊を手に取って眺めてみる。そこには外国の街角の風景写真が並んでいた。古いレンガ作りの家並、石畳の狭い路地、ネオンの灯るカフェ、幾何学的な高層ビルが林立する河辺、看板に埋もれた雑然とした店先、大量の荷物を載せたバイクが行き交う道路、などなど。印象的ではあるけれど、どこかで見たような風景だ。次第に飽きてきて、次の本を見る。『広告写真年鑑』というタイトル。ポーズをとった女性や、不思議な空間で宙に浮いている飲料水の缶や、幻想的な風景や、奇抜なファッションで並んだ人たち。様々なギミックに溢れた写真が載っていた。いろんなアイディアが面白いとは思ったけれど、そんな写真を自分で撮るなんて到底考えられない。

「橘君はさー、そういうの見るより、とりあえずなんか撮ってみた方がいいかもー。なんとなく」

「……そうですか?」

「写真なんてさー、シャッター押せば誰だって撮れるんだしさー、いい写真とか悪い写真とか、上手いヘタとか、そんなこと考えないで撮る方がいいんだよー」

「そうなんですか……」

「ほら、このカメラ貸してあげるから、なんかそのへんのもの撮ってみたらー」

 ガラス扉の付いた棚から、黒くてごついカメラを出して僕に渡す。

「え、こんなの借りていいんですか?」

「壊したら弁償だからねー」と口元を少し歪めた。

「は、はい」

 そんな感じで、カメラを首に下げて教室に戻った。なんだか狐に化かされたみたいな気分だった。

 カメラを持ってみると、なぜだか目があちこちに行く。味もそっけもない廊下の古びた感じや、天井の蛍光灯の列や、雨垂れで曇ったガラス窓や、人気ひとけのない教室に並ぶ机なんか。気に留めたこともないような日常の風景の片隅が妙に気にかかったりする。でも、そこにカメラを向けてみることは、なかなか出来ない。カメラを構えるというのは、結構勇気のいることなんだと気付いた。誰も見ていない教室でさえ度胸が出ないのに、人のいるところで堂々と写真なんか撮れるのだろうか。やっぱり僕には写真なんて向いていないのだろう。

 まあ、せっかく貸してくれたのだし、そのへんの花でも撮ってから返そうと、窓を開けてみる。二階の教室から見えるのは、雨に濡れた中庭のベンチと植え込み、そして三本の桜の木くらいだった。その木もほとんど花を散らせて侘びしさを漂わせている。根元にべったりと散り落ちた花びらくらいしか写すものがない。どこかにぶつけないように、がっちりとカメラを握って、そこにレンズを向けてみる。ファインダーには何か分からないボケたものが映っている。レンズに付いているリングを適当に回してみる。ピントやズームの調節方法が分かった。他にもいろいろなスイッチがあるけど、弄るのは恐いのでそのままにしておく。最大限にズームアップしてピントを合わせると、肉眼で見たよりもきれいだ。周囲が消えて一部分だけが切り取られるからだろうか。ファインダーの中に、いちばん汚れていない場所を探す。ちょっとずらすだけで画面が大きく動くので、カメラをギュッと握りしめて慎重にシャッターを押す。でも、シャッターボタンの場所が分からず、指先がさまよってしまう。いったん目を離してシャッターの位置を確かめ、軽く指を置いたまま、もう一度ファインダーを覗き込む。さっき狙っていた場所が見つからなくなってしまった。改めて別の場所を狙うことにする。水たまりに浮かんだ花びらと、その向こうに散り積もった花びら。そして指に力を入れる。ほとんど手応えもないくらい軽くシャッターが落ちた。一枚撮るだけでも一苦労だ。シャッターを押した瞬間、微かに動いてしまった気がする。それに、ピントもちゃんと合わせ直していなかったことに気付く。カメラの重さで腕も疲れる。こんな本格的なカメラだから難しいのだろうか。

 窓を閉めて、萎えた気分で自分の席に戻り、椅子に座り込む。

 まあ、あんな緩い部活も他になさそうだし、めったに部室に行かなくても籍を置いておくだけでもいいみたいだし、とりあえず写真部に入っておこうかな。あの妙な部長も、実は結構すごい人なのかも知れない。

 そんなことを考えながらズームを弄っていた時に、巻田さんが教室に入ってきたのだった。


 朝、おはようと挨拶をした。一時間目が始まる前に、ラインで『写真よかったよ!ありがと!!」とメッセージが届いた。それだけだった。

 休み時間は、巻田さんの席の周りに何人か女の子が集まっておしゃべりをしていた。昼休みはお弁当を持って友達とどこかへ行っていた。放課後になるとすぐに部活に向かったようだった。昨日のことはなかったように、僕の半日が過ぎて行った。でも、目はつい彼女の姿を追ってしまう。

 のろのろと支度をして、写真部に向かう。カメラはタオルに包んでバッグに押し込めてある。これ見よがしに持って歩くことなど出来ない。それでも、まあ写真部の幽霊部員でいいや、と思っていた気持ちは大きく変化していた。

 もっと撮りたい。ちゃんと撮れるようになりたい。いろんな場所で、いろんな表情を撮ってみたい。もちろん、思い描くのは巻田さんだけど。

 部室棟三階の奥の写真部の扉をノックする。

「どうぞー」

 椿部長の投げやりな声が、少し微笑ましく聞こえた。

「失礼します」

「あれ、昨日の、なんたっけ?」

「橘です」

「あー、そうだった。橘君ね。どしたのー?」

「あ、いえ、正式に入部させてもらおうと思って」

「へー、そう」

「よければ、ここに部長さんの判をもらえますか?」

「いいけど、まだ体験期間一週間もあるし、他の部とか見なくていいのー?」

「はい。僕もちゃんと写真やってみたいと思いまして」

「ふーん。幽霊部員じゃなくて、やる気になったんだー」

「借りたカメラで撮ってみたら、なんか興味が出てきたんで」

「なんか撮ってみたー?」

 そう言いながら、引き出しからハンコを出して、部活届けに押してくれる。

「よかったら、私にも見せてもらえますか?」

 部長の向かいに座っていた梅原さんが、眼鏡を指先でクイッと上げながら言う。

「あー、梅ちゃんも入部したんだよー」

「はい。これからよろしくお願いします」と丁寧に頭を下げる。

「僕の方こそ、よろしく。1−Bの橘っていいます」

「Dクラスの梅原です」

「私はー、部長の椿里香ねー。2−A。まー気楽にやりましょー」

「はい、よろしくお願いします」

 僕と一緒に梅原さんもお辞儀をする。

「橘君。えーと、名前は、せい? しょう?」

 部活届けに書いた名前を見て部長が尋ねる。

「しょう、です」

「じゃー省くんでいいよねー。撮った写真、見てみたいなー。嫌ならかまわないけどー」

 そう言われると、躊躇してしまう。女子を撮った写真なんて、やましい気持ちを覗かれるのと変わりがない。そんな恥ずかしさの反面、見てもらいたい気持ちもある。巻田さんも気に入ってくれたみたいだし、何枚かはなかなかいい出来なのじゃないかと思う。他の人に評価して欲しい。曲がりなりにも写真部の部長だし、ぼーっとしているようでいて、不思議な信頼感がある。冷静に判断してくれそうな気がする。

「えっと、モデルになってくれた人に許可をもらえたら……」

「いいよー」

 スマホで『写真部の人に昨日の写真を見せてもいいかな?』と巻田さんにメッセージを送る。『今、演劇部。こっそりなら見せてもいいよ』というメッセージに続いて、ペロッと舌を出してウインクしているイラストスタンプが帰ってきた。

「こっそりなら、いいらしいです」

「じゃーこっそり見せてー」

 部長が、壁際の長テーブルに行ってスカーフのような布を取る。大きなモニターのパソコン、最新型のiMacがあった。プリンタも繋がれている。

 鞄からカメラを取り出してメモリーカードを渡す。部長はそれをセットすると、画面では自動的にソフトが立ち上がってデータが読み込まれて行く。僕が昨夜あんなに苦労したのはなんだったのか。

 写真のサムネールが次々に並んで行く。

「あ、それはRAWデータのままなので……」と言いかける。でも部長がポンとキーボードを押すだけで、27インチの画面いっぱいに最初の写真が表示された。

 僕のノートパソコンで見るよりも全然きれいだ。細かいところまでくっきりと見える。何の面白みもないと思っていた桜の写真だけど、こうして見ると雨に濡れた質感がいい感じに撮れている。でも、これはただの試し撮りで、問題は次の写真だ。

 部長がキーを押す。

 窓の外を見つめる巻田さんの横顔のシルエット。

 部長の隣りで画面を覗き込む梅原さんが「えっ!」と息を止めた。部長は「ほー」と言ってじっと画面を見つめている。そしてまたキーを押す。

 22枚の写真を見終えて、サムネール画面に戻った。

 部長は何枚かをもう一度表示して、いろいろな補正をかける。ほんの少しスライドバーを動かして、色合いやコントラストを微妙に変えていく。わずかだけど、確かにメリハリのついた写真になった。

 補正を終えるとそれを印刷する。A4の光沢写真用紙いっぱいに、写真がプリントされて出てくる。画面とはちょっと違って見える。

 印刷した4枚を、部長が机に並べた。

「どんなタイトル付けるー?」

「え!?」

「こういう、何枚かの写真を組み合わせた作品もあるのー。組み写真って言うんだけどー」

「放課後の少女、とか?」

 梅原さんが、そうつぶやく。

「んー、それなら、放課後の秘密、の方がよくないー?」

「あ〜、なるほど」

「秘密っていう字に、ロマンスってルビを振ろうかー」

「あ、それ、いいです! うん、ぴったり!」

「だったら、これじゃなくて、足が写った写真に替えた方がいいかなー」

 外を見ている横顔、机に頬杖をついているところ、暗い廊下に立つシルエット、近寄って僕の足も写った写真。その四枚になった。

「でも、これも捨てがたいですよ」

 梅原さんが、水たまりを跨ぐ足の写真を指す。

「それは単独で、雲の向こうへ、とかでー」

「さすが、部長さんですね!」

「ってな感じで、アートごっこも出来るんだよー」

 なんだ遊びだったのか、と少し力が抜ける。

「んで、この子は省くんの彼女さんなのかなー?」

 部長が横目で僕の顔を覗き込む。梅原さんも、そっと目だけこっちに向ける。

「いや、ただのクラスメートで、たまたま昨日、教室に残ってただけで」

「ふーん」

「へ〜」

 二人で疑うような声を出す。

「でもさー、君って写真初めてって言ってなかったっけー? ビギナーズラックっていうやつなのかなー」

「初めてですよ。ピントの合わせ方もよく分からなかったし。部長から見て、どうですか、この写真」

「まーねー、いいと思うよ。細かいこと言えばいろいろあるけど」

「私はすごいと思いました。なんか気持ちがこもってるっていうか、ドキドキが伝わってくるみたいで」

「そーだねー。そこだよねー、いいのは。あとね、君はちゃんと光が見えてるなーって思うなー」

「え?」

「んー、写真ってさ、結局、光と影なんだよねー。光って、一瞬一瞬違ってくるからさー、角度や距離によっても変わるしねー。ハッとする瞬間をね、見つけるっていうか、感じるっていうか、そこを切り取って見せるのが写真なんじゃないかなーって思うのねー。そういうハッとする瞬間って、人それぞれ違うしねー。写真をやってる人はそういうとこに敏感になってくるんだけどー、君はわりと敏感なんじゃないのかなー、そういう一瞬に」

 そう言われてもピンと来ない。光に敏感とか思ったこともない。ただ、ハッとする瞬間っていうのは分かる。巻田さんにレンズを向けると、ハッとしてばかりだった。つまりは、モデルがよかっただけということか。

「いいな〜。私も早く自分のカメラを買って撮りまくりたいです」

「そうだねー。昨日見てたのでいいんじゃない? あとは、実物に触ってみて手にしっくりくるのがいいと思うよー」

「はい、じゃあ日曜日に早速買いに行きます」

「なんなら、私がよく行くカメラ屋さんに一緒に行くー?」

「え、いいんですか? もうぜひお願いします!」

「省くんも行ってみるー?」

 物憂げな口調で、重たげな瞼の中で目玉だけをギロリと動かしてこちらを見るから、すごく目付きが悪そうに見える。ついタジタジとなってしまう。

「い、いや、僕はそんなお金ないですから」

「見たり触ったりするだけでも面白いよー」

 女の子と買い物になど行ったことがない。買い物どころか、女の子どころか、友達どころか……。でもカメラを見に行くというのは、ちょっと興味を引かれる。

 どうするか迷っていると、ポケットでスマホが震えた。『部活終わった。一緒に帰る?』と巻田さんからのメッセージ。

「あの、僕、そろそろ帰ってもいいですか?」

「あーい」

「それと、この写真貰って帰ってもいいでしょうか?」と、写真のプリントを指差す。

「いいよー。部員は、ここのパソコンとかプリンタとか自由に使っていいからねー」

「はい、ありがとうございます。このカメラも、もう少し借りてていいですか?」

「うん。あー、そんなふうにカバンに突っ込んでおくより、このバッグに入れるといいよー」

 部長が戸棚の下から小さめのカメラバッグを出してくれた。スポンジのような緩衝材が入っている。これなら安心して持ち運べる。

「それとねー、校内で写真を撮る時は、この腕章を付けるといいよー。部の活動だって認められるからねー」

 引き出しから『都立南大沢高校 写真部』と書かれた腕章を出して見せる。

「はい。でも今は要らないです」

「そー」

「じゃあ、今日はお先に失礼します」

「んー、おつかれー」

「またね」

 ニヤリとして梅原さんも手をヒラヒラさせた。

 早足で教室に向かう。クリアファイルに入れた写真プリントを、巻田さんに見せてあげたい。そして感想を聞きたい。気に入ってくれたら、もっと写真を撮らせてもらえるだろうか。彼女はいつでもモデルになると言ってたけど、そうそう気軽に頼めない。声をかけるタイミングもない。でも、一緒に帰ろうと誘ってくれたのは、また昨日のようなことを期待してるからなのだろうか。いや、僕の方こそ期待してしまうのだけど。

 階段を上がって廊下を曲がると、たむろしている人が何人かいた。昨日は、たまたま誰もいなかっただけか。少し落胆しながら、開けっ放しの教室に入ると、窓際でおしゃべりをしていた二人が振り返った。一人は巻田さん。もう一人は誰だろう、クラスで見た覚えがない。

「あ、省くん、お帰り〜」

 にこやかに微笑む巻田さんの隣りで、知らない女の子が目だけで挨拶をする。ゾクリとして立ち止まる。

 目の上で切り揃えられた長い黒髪、病的なほどの白い肌、細い体、そして真っ黒な切れ長の瞳。その瞳が、なぜかゾクリとさせる。顔立ちがどうとか言う前に、その瞳に目を奪われてしまう。目力めぢからというのは、こういうことなのか。

「こちらはね、演劇部の風間かざまひとみさん」

 名前も瞳というのか。まさに! という感じだ。

「はじめまして、Dクラスの風間です」

 ほんの少し体を傾けて、細く掠れた声でそう言う。

「どうも。橘です」

「瞳ちゃんはね、ちょっと病気で休学してたんだって。だから、ひとつ年上なんだよ」

「えっ、そうなんですか」

「でも同学年なので、それは気にしないで下さい」

「あ、はい」

「ねえ、瞳ちゃんって、なんだかお姫様みたいだと思わない? なんかひと目で好きになっちゃってムリヤリ誘っちゃった」

 巻田さんが嬉しそうに風間さんに腕を絡ませる。風間さんの表情は変わらない。

「それとね、昨日の写真を見せたら、瞳ちゃんもすごくいいって言ってくれて。あ、勝手に見せちゃダメだった?」

 手に持ったスマホには、昨夜送った写真が表示されていた。

「いや、それは全然構わないけど。あ、そうだ、写真部でプリントしてもらったのがあるんだけど、見てみる?」

「うんうん、見る見る!」

 近くの机に五枚の写真を並べて見せる。

「へ〜」

 二人とも、一枚一枚を隅々まで確かめるように見ている。部長が付けたタイトルは、言わないでおく。

「こうやって見ると、スマホで見るのとは全然違うね〜。なんか芸術作品って感じ」

 巻田さんの言葉に、風間さんもコクリと頷く。

「ねえ、この写真って、スカートの中を狙った?」

 水たまりを跨ぐ写真を指して、上目で僕を睨む。でも口元は笑っている。

「あ、いや、そうじゃなくって、たまたま水たまりに映っちゃっただけで……。それに、奥まで見えてるわけじゃないし、その……ゴメン……」

「ククッ。いいって、いいって。怒ってるわけじゃないからさ。でも、なんかドキッとするよね、自分の足なんだけど」

「全部、ドキドキする」

 風間さんがボソリと言う。

「ねえ、今度はいつ撮る? どっか他のところに行って撮ろうか? あ、瞳ちゃんも一緒にどう? 瞳ちゃんってさ、なんか独特の雰囲気あるよね。いいモデルだと思わない?」

「うん、そうだね。撮らせてもらえたら、それは嬉しいけど」

「こういう写真なら、よろこんで」

「やったね、省くん!」と、巻田さんが僕の肩をバシバシと叩く。誰かに触れられた経験がない僕の体が、勝手にビクンとしてしまう。

「だ、だけど、まだ全然自信がないから」

「なに言ってんの〜。そのための練習でしょ〜。私にとっても見られ慣れる練習なんだから」

 なるほど、と風間さんが初めて表情を少し変えて、巻田さんを見つめる。

「これ、もらってもいいかな〜?」

「ああ、うん。写真部でいつでもプリントできるから」

「私にも、いい?」と風間さんまで言う。

「じゃあ、明日もう一部プリントしてきますね」

 一部じゃなく、僕の分も入れて二部印刷するつもりだけど。

「ついでにさ、今もう一枚撮ってみない? 私と瞳ちゃんを」

「いいけど」

「どういうポーズがいいか言ってね」

 カメラを取り出して、少し離れて二人にレンズを向ける。

 教室の中には誰もいない。晴天の今日は、窓から明るい陽射しが差し込んでいて、夕方の光とは言え、フィンダーには教室の雑然とした様子がくっきりと映っている。昨日は、薄暗さが余計なものを隠していたからよかったのだろう。

 いろんな角度から二人の姿を捉えてみる。でも、なかなかいいアングルが見つからない。

 そう言えば、ハッとする一瞬の光を見つけること、と椿部長が言っていたな。部長が選んだ五枚は、確かに僕がハッとした瞬間だった。さっき巻田さんも風間さんも、見てドキドキすると言っていた。そういう瞬間って、どうやったら見つけられるのだろう。そう考えれば考えるほど、難しくなってくる。

 カメラを降ろして、ただウロウロする。巻田さんを撮りたい。風間さんにも不思議な魅力がある。でも撮れない。どう撮っていいのか分からない。必死で考える。それを巻田さんが首を傾げて微笑みながら見ている。風間さんもじっとこちらをうかがっている。その視線に焦ってきてしまう。

 ああ、あの瞳か。ふと、そう思った。

 僕がさっき座っていた椅子に上がって二人を見下ろし、レンズを向ける。並んで座る二人の顔がファインダーいっぱいになるまでズームする。

「もう少しくっついてみて」

 巻田さんが椅子をカタカタと寄せて、肩を触れ合わせる。

「あ、ちょっと待ってて」

 僕はそう言って、いったんカメラを置いて教室の扉を閉めに行く。廊下のざわめきが小さくなった。

 戻って、もう一度カメラを構える。左からの光が少しだけ弱まっている。もっと暗くなればいいんだけど。そう思って、今度は窓のカーテンを閉めてみる。すると、光は弱くなったけれど陰影も薄くなってしまった。それなら……。

「ごめん。カーテンにくっつくくらいに立ってみてもらえるかな。さっきみたいに肩を寄せて」

 僕は、二人の前に机を引っぱってきて、その上に昇った。ほとんど真下に見下ろすような角度だ。

「もっと顔をくっつけて、こっちを睨む感じで見上げてみて」

 ファインダーには二人の顔がはみ出すくらいになっている。ズームを少し引いてみる。制服の肩と胸元あたりが見えてくる。カーテン越しの光が顔の右側を照らしている。風間さんの瞳にピントを合わせて、シャッターを切った。

「ちょっと、そのままで」

 立っていた机をずらして、また上からレンズを向ける。今度は白いカーテンがバックになり、二人の姿はほとんど逆光だ。髪の毛だけが白く飛んで輝いている。こういうのはどうすればいいんだろう。迷いながら少し横に移す。と、机がグラリと揺れた。巻田さんが「あっ!」と机を押さえる。その拍子に指がシャッターを押した。

 ヒヤリとしながら僕が机の上で膝を付く。

「びっくりした〜! 大丈夫?」

「うん。ゴメン」と机を降りる。

「ムリしないで」

 風間さんが微かに眉をひそめる。

「はい……」

 情けないこと、この上ない気分だ。

「でも、なんかプロっぽかったよ〜。すっごい真剣な顔してたし」

 巻田さんが、そう言ってフォローしてくれる。風間さんもコクリと頷いた。嫌われたのじゃないようで、ちょっとホッとする。

「ねえ、帰りにちょっとどこかに寄ってかない?」

「どこかって?」

「駅前のマックとか」

「それならサイゼリアがいい」と風間さん。駅ビルにあるイタリアンのファミレスだ。

「いいね! じゃ、行こ行こ、省くんも!」

「僕は自転車だから」

「じゃあ、サイゼリアの前で待ち合わせね」

 カメラをしまって、二人の後ろについて玄関に向かう。無口な風間さんに、巻田さんが楽しそうに話しかけている。

 玄関口には、ちょうど靴を履き替えていた椿部長と梅原さんがいた。

「あ、橘くん。と、風間さん?」

 梅原さんが、驚いたように言う。そうか、二人は同じクラスだったのか。

「おー、風間さんだー、おひさしぶり。覚えてないかも知れないけど」

 風間さんは椿部長とも知り合い?

「そして、こっちは省くんのモデルさんかー」

「えっと、同じクラスの巻田さんです。こちらは、写真部の椿部長と梅原さん」

「あ、はじめまして。巻田です」

 お互いに挨拶を交わしてから、

「部長は風間さんを知ってるんですか?」

「うん、一年の時に同じクラスだった。すぐに病気で休学したようだったけど、もういいのかい?」

「ええ、また一年からやり直しです」

「今は私と同じクラスなんです。私、風間さんと友達になりたかったんですよ」と梅原さんが言う。

「あっ、それじゃあ、これから一緒にサイゼリアに行きませんか?」

「あー、それもいいねー」

「行きたいです」

 そんな相談がまとまった。

 自転車で店に着くと、奥の席から巻田さんが「こっち、こっち」と手を振る。それぞれの前には、コーヒーや紅茶やジュースが置かれていた。僕もドリンクバーからコーヒーを取って来て席に座る。

「いやー、ハーレムだねー」と部長が目を細める。

 女の子四人の中で、かなり居心地が悪い。テーブルの端で身を縮めてコーヒーをすするしかない。

「で、瞳は演劇部に入ったんだねー」

「うん、せっかく学校に戻れたなら、ちょっと青春しようと思って」

「ほー」

「いいね、いいね! いっぱい青春しようね!」

 巻田さんがひときわ明るい声を出す。

「いいな、私も青春したいな」

 梅原さんが羨ましそうに言う。

「もう今の状況が、すでに青春ぽいと思うけどねー」

「あ、そうですね! なんか、こんな美少女とも知り合えちゃったし。でも、いちばん青春してるのは橘くんじゃないですかあ?」

 みんなでクスクスと僕を見る。返す言葉が見つからず、慌ててコーヒーカップを口に運ぶ。

「そうだ! さっきも私たちの写真を撮ってもらったんですよ。ね、さっきの見れる?」

「うん。だけど失敗しちゃったよ」

「いいから、いいから」

 渋々とカメラの液晶画面に先ほどの写真を表示する。全員でそれを覗き込む。机から落ちそうになった時に押してしまったやつだ。

 あっ! と口を開いて目を丸くしている風間さんと、机に手を伸ばしている巻田さん。下を向いた巻田さんの頭はブレている。

「こ、これは間違いだから、見ないでも……」

「すっごく面白いけど」

「ほー、瞳はこんな顔もするんだー。これは貴重かも知れないねー」

 風間さんが真っ赤になっている。

「これが、決定的瞬間っていうやつですね!」

 梅原さんが妙に感心したように言う。

 部長が次の写真を表示する。

 顔を寄せあって見上げる二人のアップ。右半分が光で白く飛んでしまっている。でもその分、真っ直ぐに見つめる瞳が強調されている感じがする。失敗だと思っっていたけど、それほどでもない。いや、かなり好きな写真だ。

「ほー」

「へ〜」

「おお!」

「ふうっ」

 四人がそれぞれの声を出す。そして、それ以上何も言わない。

「この写真もプリントしてもらえる?」

 巻田さんがそう言って会話が再開した。

「これ、額に入れて部屋に飾っておきたいな」

「うん」と風間さんも頷く。

「何枚、いるー?」

 部長がそう聞くと、全員が手を挙げた。ぼくも、こっそり手を挙げる。

「やっぱりモデルがいいから、こういう写真撮れるのかな〜」と、梅原さんが溜め息交じりに言う。

「さくらも、省くんに撮ってもらえば?」と、巻田さんが言う。

 いつの間にか、みんな名前で呼びあうようになっている。

「え〜、私なんか……」

「そうかな〜。可愛いよね、さくらって」

 部長も風間さんも頷く。僕も。梅原さんが、下を向いて赤くなる。

「それにさー、省くんは、本人が知らないような一面を写してくれるよー。なんとなくだけど、そんな気がする」

「あ、そうそう、それそれ! 私もそんな気がする。やっぱり省くんて才能ありますよね!」

「んー、それはどうか分かんないけどー。面白いのは面白いねー」

「今度、私もマキちゃんや瞳ちゃんを撮らせて欲しいな〜」

「うん、いいよ〜」

 風間さんも、目で頷く。

 あ、その感じがいいな、とふと思った。無口で、無表情で、線が細くて、危うげ。それがなんだかミステリアスで、彼女をもっと知りたくなる。僕もまた撮ってみたい。さっきは、ちょっと上手くいかなかった。風間さんなら、いったいどんな感じがいいだろう。どうやれば上手く撮れるだろう。

 そんなことを思いながら、ひとつ向こうに座る風間さんをぼんやりと見ていた。その視線に気付いてか、彼女が目を伏せる。横顔に掛かった黒髪の隙間から、瞼を覆う長い睫毛が微かに震える。窓からの夕陽が、その輪郭が縁取っている。カシャッと、心の中でシャッターを押した。

 カメラに残せないのは残念だけど、それでもなんだか満足だった。向かいで、椿部長が「フフッ」と笑ったような気がした。

 それからしばらく、演劇部のこと、クラスのこと、お互いのことなんかをしゃべり合っていた。

 天然っぽい明るさの巻田さんに、椿部長が時々例の口調で鋭い突っ込みを入れる。その掛け合いが面白かった。

 引っ込み思案に見えていた梅原さんは、結構ノリがよくて、いろんなことをよく知っていた。うくくっ、とこらえたように笑う姿が可愛らしかった。

 風間さんは、物静かにみんなの話しを聞いていた。でも、話しかけられると「ええ」「はい」と頷く。姿勢よく座っている姿さえ、なにか謎めいて見えた。

 しゃべりは尽きない。外に夕闇が下りてきた頃には、すっかり心を許した仲になっていた。僕はただ聞いていただけだけど。

「じゃあ、これからもよろしくね」

「楽しかった〜。またみんなでおしゃべりしようね」

「んーそうしよー」

 風間さんも頷く。

 そして、駅へ、バス停へと、それぞれの帰り道に別れて行った。自転車を漕ぐ僕の足は、なぜだか力がこもっていた。

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