永遠スカート

高祇瑞

第1話 巻田真希との出会い

 入学式には満開だった桜も、今日の雨で呆気なく散ってしまった。

 誰もいない放課後の教室。無機質に並んだ机。薄暗い中に、雨上がりの夕陽がぼうっと溶けている。

 ファインダー越しに眺めると、いっそうよそよそしい気配がする。

 カラカラと前の扉が開いて、誰かが教室に入ってきた。僕は思わず息を潜める。

 カメラを向けていた窓の方へその子が歩いてきて、ちょうどファインダーに収まった。

 セミロングの髪に隠れて顔はよく分からない。ピントを合わせながら少しズームしてみる。

 その子が窓を開けると、ふわっと髪がなびいた。その横顔の輪郭を、弱々しい夕陽のオレンジがそっと縁取る。

 カシャッ。

 思いがけない大きなシャッター音が教室に響いた。

「キャヒッ!」と奇妙な声で、その子が振り向く。僕も反対側の壁際でガタッと椅子からずり落ちそうになる。

「うわっ! ご、ごめん!」

 思わずレンズを手で覆うけれど、そうしたからといって撮ってしまったことをナシにできるわけでもない。

「あ、あの、写すつもりはなかったんだけど、つい……」

 その子は、目を丸くしたまま固まっている。

「ほんと、ごめん。今すぐ消去するから」

「えっと……たちばな君、だっけ?」

 その子がふ〜っと息を吐いて言う。膨らんだ制服の胸が上下する。僕はコクコクと頷く。

「あ〜、びっくりした〜っ。誰もいないと思ってたからさ〜。なになに、今、私の写真撮ったの?」

「あ、うん、つい、なんか勝手に指が動いちゃって。ほんとごめん。盗撮とかそういうつもりじゃなくって、その……」

「それってデジカメ? すぐに見れる?」

「う、うん。今消しちゃうから」

「え〜っ、待って待って。見せてよ〜」

 そう言いながら机の間を縫って僕の方へやって来る。あんまり嫌そうではない。声も仕草も、どちらかというと弾んだ感じ。

 僕のひとつ後ろの席に座った彼女に、今撮った写真を見せる。

 小さな液晶画面には、ほとんどシルエットになった横顔が写っていた。瞳と輪郭だけが、ほんのりと淡いオレンジ色に輝いている。言われなければ誰なのかもよく分からない。けれど、なぜだかドキドキしてしまう。

「これ、私?」

 少し掠れた声で彼女が言う。

「うん」

「へ〜。ふ〜ん。は〜っ」

 言葉にならないため息のような声を出す。

「いいな、これ。ね、いい写真だよね〜。うん、うん、いいわ〜」

 そう言われて、僕も改めて画面を覗き込む。つい顔が近付くけれど、彼女は写真に見入ったまま。

 そこに写る横顔のシルエットは、笑っているわけでもなく、悲しそうなわけでもなく、ほとんど表情が読み取れない。なのに、すごく活き活きと見える。なぜか鼓動を高める。そうだ、この時のドキリとした拍子にシャッターを押してしまったのだった。

「ねえ、この写真、私にもちょうだい?」

「あ、ああ、いいけど。家でプリントしてこようか?」

「それよりも、携帯に送ってくれる?」

 スマホを取り出してメルアドを交換する。こんなに気軽にメルアドを教えてくれていいのかな。

「じゃあ、帰ったらパソコンに取り込んでから送るよ。でも、この写真消さなくていいの?」

「え〜、そんなのもったいないよ。こんなアートっぽい写真、今まで撮ってもらったことないし。なんか自分じゃないみたい。すっごく嬉しい」

「それなら良かったけど。でも、ほんとごめん。無断で勝手に撮っちゃって」

「まあね。今度からはちゃんと言ってから撮ってよね。あ、でも意識してなかったから、こういう写真が撮れたのかな?」

「そうかも知れない。だけど、ほんとにごめん」

「う〜ん。こういう写真撮ってくれるんだったら、特別に無許可撮影OKにしちゃおうかな〜」

「えっ!?」

「っていうか、私もいろんな写真撮ってもらいたいな、なんてね。ほら、友達と写メ撮ったりとかはよくするけど、こういう写真ってなかなかないしさ。橘君、写真上手そうだから」

「え、そんなことないよ。今まで写真なんてほとんど撮ったことないから」

「え〜っ、そうなの!? そんなすごいカメラ持ってるのに?」

「あ、これは、さっきたまたま写真部の先輩に借りただけで」

「橘君、写真部に入ったの?」

「いや、入ったわけじゃなくて、ちょっと覗いてみただけなんだけど」

「ふ〜ん。でも橘君、隠れた才能あるんじゃない? こんな写真撮れるんだし」

「いや、これはほんと偶然というか……モデルがよかっただけだと思うけど」

「ほんと? もう、嬉しいこと言ってくれるんだから〜。じゃあ、またモデルになってあげるよ」

 彼女があっけらかんと楽しそうに笑うのを見て、ならもう正式に写真部に入ってみるかな、という気になってくる。

「巻田さんは、もう部活決めたの?」

「あ、私の名前、覚えててくれたんだ。そう言えば話すのも初めてだよね〜」

「そうだね。たちばなしょうです、改めてよろしく」

「こちらこそ、よろしくね。私は、巻田まきた真希まき。マッキーでもマキマキでもいいよ」

 少し照れたように微笑んで彼女が言った。

 入学してちょうど一週間。クラスにはまだ打ち解けた雰囲気はない。みんな様子見段階といったところ。その中で、いち早く友達を作ってクラスを明るくしているのが、巻田さんだった。

 特別に美人ではない。目がぱっちりと大きいわけでも、鼻が高いわけでも、魅惑的な唇なわけでもない。目はいつも微笑んでいるような三日月型、鼻頭は少し丸みを帯びていて、唇は口角が上がり気味。どちらかと言うと、可愛らしい感じ。でも、他の子よりも少し大人びた雰囲気があるのは、スラリと伸びやかなバランスのいい体型のせいだろうか。人好きのする顔立ち、というのがいちばんぴったりくる。そして、その印象通りの明るくて気取りのない性格。いや、その性格がそのまま顔に出ているということなのか。そんな彼女の周りには、自然に人が集まってきていた。

 彼女を中心に徐々にクラスのカラーが生まれてくる様子を、僕は教室の隅から見ていた。見ていたと言うより、自分とは関係のない余所事のように、ただ傍観していた。

 そんな彼女と、こうして言葉を交わすなんて思ってもいなかった。

 思えば、こんなふうに女の子と親密に話をしたことなんて、今までなかった気がする。だから戸惑いもあるしドキドキもする。なのに、彼女とはなぜだか気兼ねなく話が出来ている。遠くから見ていた通りの気さくで屈託のない人柄のせいだろうか。知らず知らずこちらも心を開いてしまい、彼女に惹き込まれていた。そして、ついこんな言葉を言ってしまう。

「もうちょっと写真撮ってもいいかな?」

「うん、いいよ、いいよ。もう、いちいち断らなくてもいいって言ったじゃない」

 あっけらかんとした表情でそういう彼女に、またレンズを向ける。机を挟んだだけの距離で、ファインダーの中に彼女の顔の一部がクローズアップされる。薄暗い光の中でぼやけたままだ。

「私、どうすればいい? なにかポーズ取ったりする?」

 そう言われても、僕だってどうしたらいいのか分からない。だいたいカメラなんかほとんど弄ったことがないので、どのリングをどっちに回せばピントとかズームが変わるのかさえも試行錯誤だ。

「う〜ん、そのまま適当に……」

「って言われてもねえ。こんな近くでカメラ向けられてるとなんか緊張しちゃうし」

「じゃあ、いつも通りに自分の席に座ってる感じで」

「わかった〜」と、彼女が窓際の前から三番目の席に向かう。

 僕が今いるのは、廊下側の後ろから二番目の席。ほぼ対角線のこの位置から見る彼女の後ろ姿が、いちばん見慣れたアングルだ。

 ファインダーで彼女を追いかける。彼女が椅子に横に座って、こちらに顔を向けて首を少し傾ける。背中側に窓から光が入っているので、表情は陰になってよく分からない。

「これでいい?」

「授業中みたいに、前向いて座ってみて」

「うん」

 空っぽの机をいくつも挟んだ向こう側に、弱々しいオレンジの光に滲んだ彼女の後ろ姿。カメラの位置を低くしながら、少しずつズームを上げていく。手前の机がボケて、逆に距離感が出てくる。

「ねえ」と言いながら彼女が顔をこちらに向けたのと、ほとんど同時にシャッターを押した。

「あ、ごめん。動いちゃった〜」

「いいよ。自然にしててくれた方が僕も撮りやすいから」

「だけど、やっぱりなんか意識しちゃって、どうすればいいのか分かんないよ」

 左腕で頬杖をしながら、眉を寄せてそう言う。僕はもう一度シャッターを押す。

「あ、そんな感じで、普通にしゃべりながらとか」

「そう? 話しながらでいいの?」

「うん、僕は勝手に撮るからさ」

「わかった〜。じゃあ、何の話しようかな。あ、そうだ、橘君って、どこ中?」

「大月市の七保中学ってとこ」

「大月市?」

「うん、山梨県の」

「え〜っ! まさか、そこから通ってるんじゃないよね?」

「いや、今は親戚の叔父さんの家に住まわせてもらってる」

「そっか〜。でも、びっくり。大月って、どんなとこ?」

「なんにもない小さな町だよ。まあ、富士山がよく見えるくらいかな」

「ふ〜ん、そうなんだ〜。じゃあ、こっちに知り合いとか友達とか、あんまりいない?」

「うん、まったく」

 彼女の質問に答えながら、ファインダーを覗いたまま少しずつ彼女の席に近付いて行く。

「このクラスで友達はできた?」

「いや、まだ誰も」

「なら、私が最初の友達だね!」

「あ、うん」

 そう面と向かって言われると、ちょっと口籠ってしまう。だいたい、僕は友達を作る気もまったくなかった。大勢ででワイワイと騒ぎ立てるのは、苦手というよりも苦痛だ。ひっそりと一人でいるのが好きな性質たちだった。中学でも浮いた存在なのを自覚していた。だからなおさら、クラスの中心で眩しく咲くような彼女とは無縁と思っていた。こんなふうに話していること自体、晴天の霹靂と言っていい。

 でも、ファインダーの中の彼女は、なぜかすごく身近に感じる。

「あ〜、だからかな。橘君って、他の男子とは何か違う感じがしてたの。独特の空気って言うか」

「そう?」

「うんうん。なんだかちょっと掴み所がないっていうか、ナゾっぽいっていうか」

「ああ。何を考えてるか分からないっていうのは、よく言われる」

「あはは、そんな感じ。でもそれが面白いっていうか、興味を引かれるっていうか」

「いや、別に僕なんか面白くも何ともないよ」

「そう? 私にとっては、クラスの中でも気になる存在なんだけどな。だからこうやって話せるのはすごくラッキーだよ」

「それは、僕の方こそ……」

 思いもかけない言葉に体がすくんだようになる。顔から離したカメラを、だたぼうっと見つめる。困惑、と言うよりも、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。そんなふうに言われても、僕には何もない。得意なことも、自慢できることも、誰かを喜ばせることも。自分の空っぽさが、ただ悲しくなる。

「もう、そんな顔しないでよ〜。今のは、別に好きとかそういうのじゃないからね。まだお互い何にも知らないんだし。恋愛感情とかじゃなくって、友達として仲良くなれたらいいなってことだから。それにほら、いつでも写真のモデルになってあげるって言ったしね」

「あ、ご、ごめん。そういうわけじゃなくって、なんていうか、こうやって女の子としゃべることに慣れてないんだ」

「そっか〜。でも私だってそうだよ。けっこうドキドキしてるんだから。私もね、気さくに話せる男子の友達が欲しいっていうか……橘君みたいな」

「そ、そうなの?」

「うん。私ね、中学の時はすっごく地味な子だったんだ。で、高校になったらやりたいこといっぱいあって、どんどん自分を変えようって思ってて、今そういう努力中」

 彼女の自然に人を惹きつける魅力は、生まれ持ったものとしか思えない。それがそうじゃないなんて、とても信じられない。ああ、努力と意志なしで人はこんなふうにはなれないのか、とふいに気付く。今まで知らなかった何かが心の中に湧いてきた。彼女がますます眩しく見える。

「やりたいことって?」

 何気なくそう尋ねながら、またカメラを構える。

「まずね、演劇部に入ること。映画とかドラマとか好きだからお芝居にも興味が出てきて、出来るかどうかは分かんないけど、私もやりたいなって思ったの。裏方でもいいんだけどね」

 まさにぴったりだ。今でさえ、女優っぽさが漂っている。舞台の上で活き活きと芝居をする姿が目に浮かぶようだ。

「そのためにも人に見られることに慣れなきゃいけないし、そういう意識を持たなきゃいけないわけ。だから写真を撮られるのって、すっごくいい練習になると思わない? 今思ったんだけどね」

 彼女の周りを回りながら、前や後ろやいろいろな角度からレンズを向ける。彼女はなるべくカメラを意識をしないようにしているけど、時折ついこちらに視線を向ける。

「これからも、こうやって協力してくれる? 橘君もカメラの練習になっていいと思わない? それとも他に何か獲りたいものとかある?」

「あ、いや、別にないけど。巻田さんがモデルになってくれるんなら、僕もなんかやる気が出てきたな」

「じゃ、決まりだね! よろしく、省くん!」

「こちらこそ、よろしく」

「そろそろ暗くなってきたし、一緒に帰ろっか。省くんは、バス、電車?」

「いつもは自転車なんだけど、今日は雨だったからバス」

「そっか〜。じゃバス停まで一緒に行こ」

 彼女がカバンを肩に掛けて教室を出る。ぼくも自分の席からバッグを取り、後ろの扉から廊下に出た。誰もいない廊下に彼女が待っていた。その姿に、あらためてドキリとする。

「ちょっと、そのままで、もう一枚いいかな」

「うん。ここに立ってればいいの?」

「もうちょっと廊下の真ん中くらいに」

 ファインダーを覗く。ほとんど色を失った薄暗い廊下。ずっと奥へ続くリノリウムの床が、窓からの光をかすかに反射している。無機質な中に、彼女の影が佇んでいる。表情は分からない。彼女の頭を包む髪の毛、制服の形、胸元のリボン、肩に掛けたバッグ、スカートから半分ほど覗くふともも、ハイソックスを穿いた足元。バランスのいいその輪郭が、薄闇に溶け込んでいる。

「もう少し後ろに下がってみて」

 そう言いながら、ぼくも一歩下がる。

 彼女の形が、影の中で少し浮き出た。息を詰めてそっとシャッターを押す。

 カメラを構えたまま、ゆっくりと彼女に近付いて行く。だんだん彼女がファインダーからはみ出す。顎の先から足元までがいっぱいになったところで、もう一度シャッターを押す。

 さらに近付いて、彼女と向かい合ったところで、足元にレンズを向ける。彼女の下半身を捉えてシャッターを切る。僕の足先も入っていた。

「向こうに、ゆっくり歩いて行って」

 彼女がくるっと反対を向いて歩き出す。踵が上がり、脚が伸び、スカートが揺れる。その後ろ姿を何枚か連続で写す。そして止めていた息をふうっと吐き出す。

「サンキュー、もういいよ」と彼女を追いかけた。

「どう、いい写真撮れた?」

「どうかな、あんまり自信ないけど」

「でも、なんか面白いところを撮るよね、省くんって。普通はこんな写真撮らないんじゃない?」

「巻田さんって、どんな姿も撮りたくなるんだよね。なんか絵になるっていうか」

「ほんと〜? またまたお世辞上手いんだから〜」

「いや、ほんとに。あ、だけど顔があんまり分かんない写真ばっかりかも」

「そっか、もう暗いもんね。でも、顔ばっかりよりも、全身っていうか全体の雰囲気でいい感じに撮ってもらう方が嬉しいかも」

「撮ったの、全部送った方がいい?」

「う〜ん、任せる。省くんがいいと思ったのだけでもいいよ」

「わかった」

 そんな会話をしながら玄関先で靴を履き替える。さっきよりも濃くなった夕陽の色が差し込み、キラキラと彼女を照らす。少し屈んでローファーの踵に指を差し込む姿にレンズを向けたくなる。

 カメラを持っているから、普段は気にもしないような風景に目が留まってしまうのか。それとも彼女が魅力的だから、さりげない仕草にときめいてしまうのだろうか。

 一瞬はすぐに去ってしまう。モタモタしながらカメラを構えた時には、彼女はもう玄関のガラス戸の向こうにいた。逃した瞬間は大きい。残念さがカメラをズシリと重さく感じさせる。

 いつの間にか、いっぱしのカメラマンになったような気になっている自分がいた。本格的なカメラなんて初めて触ったというのに。興味さえなかったのに。

 でも、写真を撮ることは面白い。今そう実感している。逃した一瞬の悔しさも含めて。

 玄関で僕を待っていた彼女と並んで校門へ歩く。雲の隙間から細い帯になって降り注ぐ夕陽に目を細める彼女の横顔を、チラッと盗むように見る。まともに顔を合わせることが出来ない。カメラ越しなら堂々と見つめられるのに。交わす言葉も見つけられず、つい下を向いてしまう。

 あちこちに小さな水たまりが夕空を映して光っている。彼女が歩幅を大きくしてそれを跨ぐ。さっき撮り逃した悔しさが甦り、急いでカメラを構える。

 彼女の一歩後から、足元を狙いながら歩く。自分が水たまりに足を突っ込むのも気にしていられない。そして彼女がもう一度水たまりを跨ぐ瞬間に、シャッターを押した。水面に映ったスカートの奥がチラッと見えたような……。

「そう言えば、さっきも足だけ撮ってたよね」

 クルリと振り返って、いたずらっぽく彼女が言う。

「あ、その、つい……。ごめん」

「ううん、別にいいけど。でも私の足って太くない?」

「全然そんなことないよ。なんか……いいと思う」

 グレーのひだスカートから覗く伸びやかな脚。膝下まできちんと穿いた紺のハイソックス。まだ新しい黒のローファー。特別細くはないけど、スラリとして形がよく、活き活きとした躍動感のある足。実に巻田さんらしい足だ。どうにもうまく伝えられないけど。

「ねえ、この制服、似合ってる?」

「うん、すごく似合ってる」

「ほんと!? 嬉しい! 私ね、この制服が着たくてここに入ったんだ。うちの近所にね、この高校に通ってるお姉さんがいたのね。その制服を見て、私も絶対にここに入るって小学生の時から決めてて、すっごく勉強したんだから」

 ここは東京の多摩区ではなかり上位に数えられる進学校で、それなりの学力がないと合格できない。女子の制服の人気が高いという噂も聞いたことがある。

 今彼女が着ている冬服は、セーラー風の襟が付いた明るいグレーのブレザーにエンジ色の細いネクタイ。下はブレザーと同じ色の細かいプリーツのスカートで、裾にはセーラーカラーと同じように白いラインが二本入っている。大人しさと可愛らしさとフォーマルさが混ざったような独特の制服だ。ソックスは、黒か紺か白ならいいらしい。ハイソックスの人もいれば、足首で折り返したショートソックスの人や、ふとももまでのオーバーニーソックスを穿いている人もいる。どれもこの制服によく似合っていて、僕もついつい女の子の足に目が行ってしまう。

 入学したての一年生には、まだ制服に着られているような女子も多い。その中で、巻田さんはすっかりこの制服に馴染んでいるように見える。きちんと着こなして、とても似合っている。そこもクラスの他の女子とちょっと違って見えるポイントなのかも知れない。

「だからね、この制服姿もいっぱい撮ってもらいたいな」

「うん」

 彼女の楽しそうなしゃべり方につられて、僕も素直に返事をする。

「このスカート、もうちょっと短い方が可愛いかな〜」

「え、さあ、どうかな」

 ドギマギしながら答える。

「男子の目から見て、っていうか、撮る人から見て、そういうアドバイスも聞かせてね」

「まあ、ぼくの感想でよければ。そんな自信はないけど」

「そのかわり、私もこんな写真撮って欲しいとか、これはダメとか言っていい?」

「うん、もちろん」

「なんか、すっごく楽しみになってきた〜」

 バス停に向かうレンガ敷きの坂道で、彼女がピョンとスキップしながら言う。スカートの裾がふわりと揺れる。

「さっき、高校に入ったらやりたいことがいっぱいあるって言ってたけど、演劇部の他にもあるの?」

「うん、いろいろあるよ〜。まあ、みんなそうだと思うけどね。親友とか、恋愛とか、学園祭とか。まあ、とにかく出来ることはなんでも一生懸命楽しみたいってことかな」

「あ〜、なるほどね」

「省くんは? なにかある?」

「僕は、特にないかな」

「え〜、そうなの? だけど写真は? 撮っててあんまり楽しくない?」

「いや、すごく面白かった」

「でしょでしょ。こんなにいいモデルもいるしね〜」とキャハハと笑う。

「巻田さんは、こんなふうに撮られるのは嫌じゃない? ほら、レンズ越しにじっと見られるわけだし」

「ぜんぜん! ってか、すごく楽しい。照れくさいような、ちょっとムズムズする感じもあるけど、真剣に撮ってるのが分かるから、私もなんかドキドキして、ちょっと気持ちいい、みたいな。まあ、人によるのかも知れないけどね。あ、それと、マキって呼んで。じゃないと私も省くんって呼びづらくなっちゃう」

 なんでこうも彼女はストレートに心を開いてくれるのだろう。それが僕の意固地な頑なさをふと溶かしてしまう。

「マキ……さん? マキちゃん?」

「うんうん、そんな感じ」とクスクス笑った。

 スクールバスの乗り場には、たくさんの生徒が並んでいた。すぐにやって来たバスに乗り込み、並んで吊り輪に掴まる。僕の方が少しだけ背が高い。

「あ、学校に傘忘れて来ちゃった」

「僕もだ」

 彼女の姿を追うことだけに気を取られていて、そんなことは今の今までまったく頭になかった。そして、この一時間ちょっとの間の思いがけない出来事を、もう一度思う。ずっと鼓動が高まりっぱなしだった気がする。それは今でも続いているのだけど。そしてそれは、ふわふわとした居心地だった。

 最寄りの駅前で、彼女は電車に乗り換える。僕が降りるのはもう少し先の停留所だ。

「じゃ、また明日ね」

「うん、夜にでも、写真送っておくから」

 小さく手を振って駅に入って行くのを、走り出したバスの窓から見ていた。そしてそっと息を吐き出した。


 家に戻ると六時を過ぎていた。叔母さんに「ただいま」と声を掛けて、自室として使わせてもらっている離れの六畳間へ入る。着替えてすぐに、カメラからメモリーカードを取り出してパソコンにセットする。入学祝いに買ってもらった新しいノートパソコンには、まだあまりソフトが入っていない。読み込まれたRAWというデジタルデータは、どうすればいいのだろう。いろいろなサイトを検索しながら、いくつかのソフトをダウンロードしてみる。

 そうこうしているうちに、夕飯に呼ばれて居間へ行く。テーブルでは、叔父さんがビールを飲みながら開幕したばかりの野球中継を見ていた。その横では小学六年生になった従兄弟の春臣が、大皿に山盛りの唐揚げに箸を延ばしかけている。

「こら、まだいただきますしてないでしょ。ほら、お味噌汁運んで」

 叔母さんがキッチンカウンターにお椀を並べる。僕もそれをテーブルに置くのを手伝う。

 四人がテーブルに付いて夕食が始まる。

「省くん、今日はちょっと遅かったわね」と叔母さんが僕に話しかける。

「うん。部活を決めるのに、いくつか回ってたから」

「そう言えば、都南って部活必修だったわねえ」

 叔母さんも都立南大沢高校の卒業生だ。山梨に住んでいた僕に「省くん、成績いいんだって? じゃあ都南とか狙ってみたら? なかなかいい学校よ、進学率も高いし」と勧めてくれたのも叔母さんだった。

「もう、どの部にするか決めたの?」とキャベツの千切りを頬張りながら尋ねる。

「写真部に入ってみようかと思ってるんだけど」

「へ〜、写真部か。省くん、そういう趣味があったんだ」

「いや、ぜんぜんなかったんだけど、なんか面白そうかなって」

「お、写真か。そう言えば、俺も昔ちょっとかじったことがあるなあ」

 叔父さんが思い出したように言う。

「そうなの? それ初耳だわ」と叔母さん。

「大学のワンダーフォーゲル部にいた頃、山で写真を撮ってる人と仲良くなってね、いい写真の撮り方とかいろいろ教えてもらったことがあるんだ。後でその人が結構有名な山岳写真家だったことが分かってびっくりしたんだけどさ。雲海から朝日が昇る景色を撮るために、何日も山で過してもう少しで死ぬところだったとか、そういう話が面白かったなあ」

「ふ〜ん、オートフォーカスのデジカメでさえ失敗するのに? 運動会の写真なんかブレたのばっかりだったのよ」

「それは、まあ、あれだ」と唐揚げを口に放り込んでモグモグする。

「パパが不器用なことは分かってるけどね。でも省くんはけっこう器用そうだし、上手かも」

「さあ、どうか分かんないけど」

「ワンゲル部って言えば、俺が二年の時にさ」と叔父さんの思い出話になっていく。時々、叔母さんが話を混ぜっ返す。ハルくんも唐揚げで頬を膨らませながら笑い声を上げていた。いつものごく普通の夕食風景だけど、この温かな団欒にどこか切なくなるような気持ちを覚えるのは、僕が居候だからなんだろうか。

 果物のデザートとコーヒーを飲みながら一緒に野球中継を見て、部屋に戻る。

 スリープしていたパソコンを立ち上げ、ダウンロードしたソフトでRAWデータを開いてみる。調べたところによると、RAWデータというのは未現像状態の写真のことで、ソフトを使って現像しなければならないらしい。露出、コントラスト、ホワイトバランス、カラーバランス、シャープネス、明度、彩度などを適正に補正してから通常のJPEGなどの一般的な画像形式に変換するということだ。ソフトにはいろんなメニュー項目が並んでいて、かなり専門的な知識が必要そうだ。

 とりあえず、最初のサムネイルをクリックしてみる。木の根元に積もるように散っていた濡れそぼった桜の花びらが、画面いっぱいに映し出された。巻田さんを撮る前に、教室の窓から見えた風景だ。かすれたような色合いの写真。あの時目で見たのとは全然違っている。きちんと現像しないと、ちゃんとした写真にならないのだろうか。試しに「自動補正」というところをクリックしてみる。若干じゃっかん花びらの色がくっきりした気はするけど、面白みのない写真に変わりはない。まあ、試し撮りだし、しょうがないか。

 次の写真は、空っぽの薄暗い教室。自動補正してみても、よけいに暗くなるだけだ。

 その次には、巻田さんが写っていた。でもほとんど真っ黒だった。自動補正すると、光が当たっているところがぐっと浮き上がってきた。少し前髪のかかった目元、鼻から口元、顎から喉元、頬の丸みが、淡いオレンジで縁取られている。ふわりとなびいた髪も、流れるように輝いている。その横顔に、思わずため息が漏れてしまう。ほとんど偶然の産物だけど、こんな写真を撮った自分を褒めたい気分だ。

 調子に乗って、露出とかコントラストとか彩度とかのいろんなスライドバーを動かしてみる。明るくなったり暗くなったり、色が薄くなったり濃くなったりする。面白がっているうちに、いったいどれがいちばんいいのか分からなくなってきて、結局自動補正だけにしておくことにする。

 そんなふうに次々に写真を補正していく。椅子に座って上目遣いでこちらを見ている写真。机に頬杖をついている写真。暗い廊下に立っている写真。その足元だけを写した写真。半分以上は、ちゃんとピントが合っていなかったり、ブレていたりだった。やっぱり最初の横顔の写真はたまたま上手く撮れただけなのかも知れない。

 いちばん楽しみにしていたのは、彼女が水たまりを跨ぐ瞬間の写真だった。上手く撮れていますように、と祈るようにクリックする。

 紺のハイソックスの足が、空の夕雲といっしょに水たまりに映っている。左足の踵が少し上がり、右足は前に踏み出して少しブレている。画面の上端にグレーのスカートが少しだけ跳ね上がっている。それを反射した水たまりには、まるでひるがえったスカートの奥を隠すように、光を反射してキラッと光っていた。見えそうで見えない、その危うさが、なんだか余計にドキリとさせる。自動補正をかけると、いっそうくっきりと眩くなった。

 気がつけば、もう十二時を回っていた。慌てて高画質のJPEG形式で保存する。写真一枚で5メガ以上もある。スマホで見るならあまり大きなサイズじゃない方がいいかも知れない。横1200縦800くらいにして別ファイルにしてみる。まず自分の携帯に送って、どんな感じか見てみる。どうやらよさそうだ。そして、その携帯から巻田さんのメールアドレスに転送する。22枚を次々に送っている最中に、ラインのメッセージが届いた。

『写真ありがと!』

『これからゆっくり見てみる』

『今日は楽しかった。また撮ってね』

 そして最後に『おやすみ、また明日』と届いた。僕も『失敗したのもあるけど、全部送っておきます。また撮らせて下さい。では、おやすみ』と返信しておく。

 カメラにメモリーカードを戻して、液晶画面でメニューを呼び出してみる。いろんな設定があって、どうすればどうなるのか、さっぱり分からない。ちゃんと写真を撮るには、いろいろ勉強しなければならないな。そう思いながらベッドに潜り込むと、自然と今日のことを思い出す。本当にまた彼女を撮ることが出来るのだろうか。もしそうなら、あの時の表情も、あんな仕草も。それから、こんな場所で、こんな感じで、といろんな想像を描いてしまう。子供の頃、すごく欲しかったおもちゃを買ってもらった時のようなワクワクした気持ちが止まらない。

 なかなか寝つけずに、翌朝はハルくんが起こしに来るまで目が覚めなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る