七不思議 トイレの花子さん
「これが私。これがトイレの花子さん。これが【喰らいの洗手】……」
「まったく、なにがお前らをそこまで駆り立てるんだ」
トイレの汚れた床を転がるようにその水圧をかわしながら、俺はあえてそれを聞いた。
初瀬川の目的はなんなのか。
「第三新聞、読んだよ……」
「なるほど、そういうことか」
「七不思議の秘密を知っているんでしょ……?」
水が静止し、寂しそうに初瀬川はそこに立っている。
「さあな」
「私は、なんとしても勝ち残らないといけないの。だからそのためには、いくら七白君でも消えてもらわないとダメなんだってば!」
こちらの言葉も聞かず、感情を振り切るように初瀬川は叫び、再び激流が俺に襲い掛かってきた。
それはまさに雷雨の中を飛ぶ龍のようであり、俺を噛み砕こうと牙を剥き出しにしている。
飛びずさり、床を転がり、なんとかして回避を試みるが、その胴体が身体をかすめると、刃のごとき水圧によって皮膚をえぐられる。
だが俺には痛みもないし、その程度の傷ならすぐに治癒していく。
ゆえに、水の表面の攻撃は特に気にする必要はない。
注意すべきは、正面から飲み込まれてしまうことだけだ。
水圧に潰されるだけならまだなんとかなる可能性はあるだろう。
だが、溺死をどうにかできる気はしない。
とはいえ、避けているだけではまったく埒が明かない。
どうすれば初瀬川を止められるのか。
それをずっと考えてはいるのだが、いかんせん相手は【学園の怪】である。
決死の覚悟で持って相手を倒すしかない。
だが、仮にもクラスメイトを手にかけるというのは気が滅入る。
しかもその人物は、唯一自分と親しくしてくれた相手なのだ。
……まあ、あまりこちらの都合は考えてなかったとはいえ。
こうなることがわかっていたから、俺は一人でいたかったのだ。
「なあ初瀬川、お前の目的はなんなんだ? 勝ち抜いてどうしたいんだ?」
もう一度俺はそれを尋ねる。
戦いを避けられるなら避けたいという気持ちは変わらない。
「じゃあ、七白君の目的はなんなの?」
水の龍を脇に従えたまま、逆に初瀬川の方が俺にそう質問を返してきた。
質問に質問を返すな。
だがその一方で、初瀬川の投げたその質問は、俺の心に影を落とす。
俺の目的。
それは俺自身にもまだわからない。
だが一つだけ、俺にも、求めているものはある。
「……俺自身を、取り戻すことだ」
根拠はない。この戦いとなんら関係もない可能性もある。
だがそれでも、わずかな可能性にすがりたいのだ。
「……皮肉すぎるよ……」
それを聞いて、初瀬川はぼそりとそうつぶやく。
「私は、自分を消したいと思っているのに……」
それまでの初瀬川とはまったく異なる、重く、静かな言葉。
そして、初瀬川の目から流れる涙も飲み込み、水龍が再び俺に襲い掛かる。
「ッ……!」
脇に転がっていた掃除用のブラシを手繰り寄せ、その龍と正面から向かい合う。
だが、相手は水の塊だ。
殴りかかるも、そこに手ごたえはない。
ブラシはその空中を這う濁流に飲み込まれ、粉々にへし折られていくだけである。
なんとか俺自身が喰いつかれる前に手を放し、必死に後ずさりする。
やはりまともにはやりあえない。
どうにかしたいなら初瀬川の『本体』を抑えるしかない。
もう一歩下がり、俺は周囲にあったあらゆるものを初瀬川に向けて投げつけた。
残りのブラシ、バケツ、ゴミ箱。
それらは全て、ただ一点、水龍のむこうにいる少女に向けて収束していく。
ようするに室居の攻撃の真似事である。
まだ触れずに浮かせることまでは出来ないが、誘導くらいならなんとかなる。
しかし、付け焼き刃のハゲタカで龍に勝てるはずがない。
哀れな備品たちは、最初のブラシのようにすぐに水龍に飲み込まれ、砕け散っていく。
それは最初から想定内だ。
備品はあくまで囮。
その龍が備品の相手をしている隙に、その脇を、俺自身が勢いよく跳躍する。
初瀬川を捕まえるために。
だが無常にも、俺が初瀬川に手が届く前に、俺の身体は突き上げられた。
龍の姿を模していても、あの水の固まりは水であり、生物ではない。
生物の自構造上ではありえない角度で曲がった水龍の尾が、猛烈な勢いで俺を弾き飛ばしたのだ。
「なっ……」
呻き声が漏れる。
だがそれ以上声は続かない。
水龍は倒れた俺に追い打ちをかけるように、そのまま俺の身体を空中へとすくい上げ、さらに猛攻をかけてきたのである。
水に飲まれながら攻撃は続き、二度、三度と身体が宙を舞う。
その度に全身に衝撃が走り、身体の各部が壊れていっているのがわかる。
痛みはないといってもその衝撃はかなりのもので、ようやく攻撃が終わって床へと落下した後は、立ち上がることも不可能なほどだった。
(これは、足をやられたな……)
頬に濡れたタイルの冷たさを感じながら、俺はそんなことを考える。
冷静に自分の身体の被害状況を確認し、冷静に絶望した。
ダメージは足だけではないのだが、足が動かないというのは致命的だ。
治癒が進んでいるのは感覚でわかるが、まだ当分、あの水龍が迫りくるのを避けられるほどの回復は見込めない。
痛みがないからといって、動かないものを動かせるわけでもないのだ。
「ゴメンね、七白くん……」
どこか遠くで初瀬川の声がする。
色々と思うところはあるが、まあ、あいつに殺されるなら比較的悪くないか……。
(来たか)
そして俺は、その龍の大きな口に呑み込まれた。
濁った視界は白い泡で満ち、口や鼻から勢い良く水が浸食してくる。
なんとか意識を保ち、それを飼いならそうとするが、次第に息も出来なくなっていく。
俺は空中で溺れているのだ。
溺死は、苦しいだろうな。知っているとも。
俺が死んだらどこへ行くのだろうな。
だが、そんな覚悟にも似た諦めが脳裏をよぎったとき、不意に、水龍が消滅した。
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