インターバル3「満月ラプソディ」

 秋口なので、流石に夕方は寒気を強く感じる。

 飲み干した缶コーヒーを誰もいないゴミ箱に捨てた。金属の鈍い音が響く。

 カラスがうるさい。落ち込みたいのに、このカラスの鳴き声のせいで落ち込

もうにも落ち込めない。

「ここまで頑張ってきたっていうのに、なんでおれこんな仕打ち……」

「どんな仕打ちをお受けになったのですか?」

 澄んだ声がしたので、隣を見ると、椿黒の髪が腰まである女が立っていた。

びっくりして飛び跳ねてしまう。

「そんなに驚かなくてもいいですのに」

 うっすら笑う女の唇は赤くつややかで、長い睫毛はセクシーだった。金色の

瞳は不気味だ。この様子じゃ、こいつはハニートラップだろう。スーツやタイ

トスカートの上からでも分かるグラマラスさからはそうとしか思えない。ノッ

クアウトされそうになる。

「大丈夫でしょうか。お顔が青いですよ。救急車でも」

 黒髪の女性は首をかしげながら、最新型の携帯電話を取りだし、何回か画面

をタップする。

「あ、そんなんじゃないんだ。ただちょっと嫌なことがあってな」

 おれは勢いよくゴミ箱脇のベンチに雑に座ると、両手を挙げて、大声で笑っ

た。

「わたくしでよければ、お話を聞きますよ」

 美女は微笑むと、隣に座った。

 この際、この女がハニートラップでも何でも良い。話を聞いてくれる人がい

るというだけでなんだか安心してしまった。溜息をつき、

「おれはあの会社の専務をやっているんだ」

 と、ビルの上デカデカと自己主張している自社の広告看板を指す。

「なんと。かなり大きな食品メーカーじゃないですか! ここの冷凍食品はよ

く頂いております」

 驚く美女になんとなく誇らしくなるが、

「でも、粉飾決済……まあ、お前さんにわかりやすく言えば、会社のお金の不

正がおきてね。その全責任をおれが負わされそうになっているんだ」

 と言って、落ち込む。

「まあ、そんなことが! それは大変ですね」

 美女は再び驚く。しかし、すっと表情が妖艶な笑みに変わり、

「でも……。もしかしたら、わたくしが解決出来るかもしれません」

 と、艶やかに言った。

「どういう意味だ?」

「わたくしは魔女でして。人の運命を『願い事』として、少しだけ運命を軌道

修正できますのよ」

 美女は黒髪を掻き上げ、すらりと伸びる足を組む。

「そんなバカな! そんなヤツ、どこにいるんだ?」

 冗談としか思えない言葉に怒号を上げる。美女は気にすることなく、

「そんなにわたくしの事を信用してくれないのであれば、少し力を使ってみま

しょうか?」

 美女は立ち上がると、一回、指を鳴らした。

 すると……なんということだろうか。さっきまでうるさく鳴いていたカラス

が一斉に鳴き止んだ。それどころか、どこかへ羽ばたき飛んで消えた。

「どんなものでしょ」

 美女は自慢げに笑う。

 おれは疑り深い男だ。たった今起きた出来事と美女の吸い込まれるような金

色の瞳を見ると、どうもこの美女が本物の魔女のようにしか思えない。

「わかった。お前さんが本物の魔女って信じるよ。それで、どういうことをし

てくれるんだ? 代償――生贄でもあるんだろう? おれの魂とかそんなの」

 と、気になることを思わず尋ねる。

「いいえ。そういうものは一切ございません。ただ純粋に人々の運命を少し変

えたいだけなのですよ」

 美女は微笑みを一切崩さずにそう言い切った。

「なら、おれの運命を変えて……願いを叶えてくれるか?」

「ええ。もちろんでございます」

 美女はさっきよりもっと素敵な笑顔を作った。

「なら、おれの権力――権力さえあれば……」

 色々考えた末は、今の状態をすべて解決する方法を思いついた。

「そうだ、おれを社長にしてくれ。社長になれば、不正をしたと罪をなすりつ

けたあいつらを処分できるし、おれの思い通りの会社になるはずだから」

 と、美女に頼み込んだ。

「わかりました。なら叶えて差し上げましょう!」

 美女はそう言って、再び指を鳴らした。

 しかし、何事も起きないので、

「それで終わり?」

 美女を見る。

「いえ……終わりじゃあありません」

 美女がそう言った途端、空から何かが落ちてきた。

 美女はそれをキャッチすると、

「あら。ステキなものが来ましたね」

 と、微笑み、おれに見せる。

 それは小さめの三日月型ネクタイピンだった。三日月と言っても、かなり細

い三日月だ。

「これは月のネクタイピンです。まあ、見たまんまですよね」

 美女はおれのネクタイにその三日月型ネクタイピンを着ける。

「このネクタイピンは月のように変化します。そして、お願いがあります」

 こう言って、美女は落ち着いた目をする。

「この月が満ちる前に外してください。約束ですよ。絶対に」

 美女は意味深にそう念を押しをした。

「では、わたくしはここで」

 美女は立ち上がると、一礼し、公園から出ようとしていた。

「ちょっと待ってくれ。あんた、名前はなんていうんだ?」

 美女を呼び止める。美女は振り返り、

「ああ、自己紹介がまだでしたね。わたくしは花都かなでと申します。以後よ

ろしくお願いいたします」

 美女――花都かなでは一礼すると、そのまま公園を出た。


 

 翌日、会社に出勤し、いつも通り業務を行っていると、突然、警察が大勢や

ってきた。

 摘発だ!

「触らないで!」

「動くな!」

 という複数の男性警察官の怒号が聞こえる。

 警察官が様々な書類が入ったファイルを段ボールの中に入れていく姿を見

て、戦々恐々としてはいたが、話が分かってくると、どうやらおれをはめよう

としたヤツの不正についてたれ込みがあったらしい。

 そいつらは全員捕まった。

 ということは……。

 あらぬおれの疑いが晴れたということだ!

 ドキドキしながら、手癖でネクタイピンを触る。何か違和感があったので、

トイレに行き、鏡で見てみると、月は満ち、やや大きめの月になっていた。

「ああ、『月が満ちる』ってそういうことだったのか。なるほどな」

 花都の言葉に納得した。


 かくして、おれは社長となった。

 そして、今まで培った経験を元にやりたかった新事業に乗り出した。

 その事業は順調に進み、業績も右肩上がり。楽しくて仕方がない。

 トイレに行くたび、満ちていくネクタイピンを見て、このネクタイピンはお

れの運気を表しているものだと確信した。あの花都という女は満ちきる前に外

せと言ったけれど、おれの運気は絶対こんなものでは終わらない。完全に満ち

るまで待とう。

 そうすれば将来は安泰だ!

 ネクタイピンはまだ満ちきっていないのだ。まだまだ進めるはずなのだ。

 完全に慢心しきっていた。


 そう思っていた数ヶ月後、けたたましく電話が寝室中に響き渡った。時計を

見ると、まだ午前五時前だ。こんな早朝になんて無礼なことを、とイライラし

ながら電話を取る。

「社長! 事件です! ネットを! ネットニュースを見てください!」

 電話は秘書からのものだった。秘書は悲痛な声で叫ぶ。

「なんだね。ネットニュースごときで、そんな風に慌てふためくなんて、お前

らしくもない」

 イライラしながら、携帯でニュースを見る。最初は何にもないじゃあ……と

思っていると、あるSNSサイトに、

「異物混入!」

「新製品って楽しみに買ったのに、虫が入っていた!」

 というショッキングな書き込みがいくつも並んでいた。

 何故こんなことが起きたのか、と驚いた。この新製品はおれが先導を切った

プロジェクトだ。そんなことは起きるはずがない。誰かがはめたのだ。そうに

決まっている。

 慌てて会社に出社しようと、パジャマから仕事着であるスーツに着替え始め

た。

 ネクタイを締め、ネクタイピンをつけようとしたとき、何か違和感を覚え

た。

 ネクタイピンの月が欠けている!

 ショックを受け、動悸が激しくなり、胸を押さえる。

「ね。ちゃんと約束を守らないからですよ」

 鏡を見ると、後ろにいつかの花都がいた。びっくりして不整脈で心臓が止ま

りそうになる。

「人をお化けのように扱わないでください。わたくしは魔女です」

 うっすら微笑みを浮かばせる花都は、

「約束は守るように伝えたはずです。月が満ちりきらないうちに外してくださ

い、と」

 とキツく続ける。

「この『月』はあなたの栄光でした。『月』が満ちるとあなたの栄光も輝いて

いきます。しかし……。栄光というものは頂点まで行ったら、落ちていく一方

です。さて、『月』は欠け始めました。止めるすべはもうございません」

 美しい顔で不気味に微笑む花都に、

「おれはどうすれば良い?」

 顔から血の気がなくなるのが分かる。

「どうしようもできません。また、この『月』が満ちるまで待つしかないでし

ょうね。いつになるかはわかりませんけど……。そうこうしているうちに、株

価とか下がるんじゃありませんか? 早く会社に行かないとマズいでしょう」

 花都は他人事のように口元を押さえる。目は完全に笑っていた。

「人の不幸を笑っているのか? てめえ!」

 花都の胸ぐらを掴もうとした。しかし、手応えがない。

「乱暴はやめてくださいね」

 美女は洗面台に座っていた。

「世間(よのなか)は空(む)しきものとあらむとそこの照る月は満ち闕(か)けし

ける」

 花都はそう言って、おれを蔑んだ目で見る。

「なんだ? それ」

「万葉集の一句で、謀反の疑いで殺されたやんごとない身分の人を悼んで歌わ

れた詠み人知らずの歌です。まさに今にぴったりじゃあないですか? ね

え!」

 花都は高らかに笑うと、

「では。わたくしはこれで」

 と言って、洗面台がある脱衣所から出た。

「おい。おい。待て」

 慌てて脱衣所から出たが、花都の姿はどこにも見えなかった。

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