シークエンス10「あんぜんちたい」

今年のゴールデンウィークはもう盛夏か! と思うぐらい日差しは強かった。

 アルバイト先の「喫茶がじぇっと」の扉を開けると、鈍い鈴の音と共に茹だるような暑さから解放された。涼しい空気で身体は冷える。汗のためか寒く感じるぐらいだ。

「おはようございます。せっかくの休日なのに来てくださって」

 店長である小夜鳴カナタは頭を軽く下げる。

「お給料がもらえるのはありがたいから、別に良いのですけど……。貸し切りでパーティするって凄いんですね」

 あたしは吹き出る汗をタオルで拭く。店長は頭を片手で抱えると、

「こういうのは初めてでして。ヨッシーからツテでの依頼なので、断るわけにもいかなかったんです。まあ、これも経験のうちだろ、とヨッシーの安請け合いなのですけどね……」

 そう苦笑いする。え、マジで? 店長はともかく、あたし、ちゃんと出来るかしらと不安になる。

「まあ、かなりおいしい仕事なので、ひびきさんにもボーナス的なモノをお渡しするつもりですから、頑張ってください」

 さっきの言葉とは裏腹に爽やかなになった店長にあたしは少し穏やかになる。

「さあ! あと一時間でパーティですから、がんばって準備しましょう。もうそろそろオードブルがくるはずなので、それまでにテーブルだけでもセットしておかねば」

 店長は両手を叩き、軽い音を鳴らすと、テーブルを動かしはじめていた。

 パーティのお客さんがパラパラとやってきた。多くて十人ぐらいの小規模パーティだと聞いているから、もう少しで全員集まるのだろう。あたしは来たお客さんにおしぼりをひとつずつ渡していった。

 来ているお客は口々に、今日の主役はまだ来ないのかしら、相変わらずあの子ったらマイペースね、と笑っている。

 開始時間直前、あたしは厨房で手を洗っていたとき、店内で歓声が上がった。主役がやっときたようなのね、と思って、ちらり店内を見てみると、テレビではサングラスに黒い革張り衣装のヴィジュアル系歌手――今日はカジュアルなアロハシャツを着た愛想が良い男性――MITEが若干暗めで地味な印象の女性とともに明るく笑っていた。

 あたしは驚きのあまり、変な声を出し咳き込む。好きな歌手ではないが、あの有名歌手MITEがこの店に来ているなんて! 咳き込みが終わった後、興味本位でもう一度、店内を見る。

「MITEくん、れなちゃん! 結婚おめでとう!」

「今年で三十だっけ? キミもすっかり大人になったなあ。十五年前のデビュー当時を考えるとだいぶ落ち着いたよねえ!」

 そういえば、今日のお客さんは割と年配が多い印象だ。MITEを育てたメンツだろうか。一番若いのはMITEかその隣にいる女性のれなのように思える。っていうか、今日の貸し切りってMITEの結婚祝いパーティ? あのMITEが結婚? あたしは驚いて凍ってしまう。

「おや。ひびきさん、どうしたのです? コーヒーを持っていってください。お願いします」

 サーバーを持っている店長の声で我に返ったあたしは、

「はい、ただいま!」

 といって、お盆にカップを載せていった。

「これでよしっと」

 元に戻したテーブルを拭き直し終えると、あたしは大きく背伸びをする。

 パーティは滞りなく無事終わった。

 ホッとしたのもつかの間、あたしは盛り上がりに盛り上がって荒れに荒れた店の片付けをしていた。やっと終わったと外を見ると夕日が落ちかけている。いくら日が延びているとはいえ、結構な時間がかかったんだなあ、と思い切り溜息をつく。

「ひびきさん、お疲れ様でした。ボクもだいぶ疲れましたよ。ここまで大変だとは思いませんでした。明日から一週間勉強頑張るのはしんどそうですけど……」

 申し訳なさそうな顔をする店長に、

「まあ、なんとかなると思うので、店長は気にしないでください。あたしはあたしでやれることはやるので」

 あたしは自信いっぱいに笑った。

 この前のパーティから三日経った。火曜日の授業は午前中でおしまいなので、あたしは「喫茶がじぇっと」にバイトを入れていた。

 店に向かう途中、雲行きが怪しくなり、雨が降り始めた。快晴と言った朝の天気予報は見事に外れたわね、とイライラしながらも、あたしは丁度通りにあった市立図書館に駆け込む。

 入ってすぐに大降りになった。

 通り雨だと良いのになあと思いながら、図書館のエントランスで身体をタオルで拭く。

「おや、ひびきさん。お勉強ですか?」

 背筋が凍る爽やかな声がした。振り返ると米津が満面の笑みでこちらを見ていた。帽子は胸で押さえている。真っ白なスーツがなんともまぶしい。

「ちょっと、なんのようですか」

 凍って止まりそうな心臓をなんとか奮い立たせ、あたしは米津を睨み付ける。

「そんな恐ろしい顔をしなくてもいいんですよ」

 穏やかに笑む米津に戦慄を覚えながらも、

「するわよ。だってあたしはあなたのことが嫌いなのだから!」

 と震える声で反論する。

「それは残念ですねえ。私はもっとひびきさんと仲良くお話ししたいだけなのですけど」

 米津は薄笑いをする。

「あたしはね、雨がやんだらさっさとここからおさらばするつもりですからね!」

 あたしがそうやや大きな声で言った途端、ピタリと雨が止んだ。

 米津は鼻で笑うと、

「ああ。お話しする時間がなくなってしまいましたねえ」

 相変わらず薄笑いをする。

「そのようね。では行かせて貰うわよ」

 あたしは出口へ向かう。

「ひびきさんはカナタくんに利用されているって気がついていないんですか? カナタくんも酷いですよねえ」

 米津は再び鼻で笑うと、

「では。先に行かせて頂きます」

 そう言って、外へと消えていった。

 一瞬何を言っているのか分からず、あたしは首をかしげるが、

「イヤなことは忘れましょ!」

 顔を横に振って頭をリセットさせ、濡れたタオルを首に巻いた。そして鼻をくすぐる湿り気で不思議な気分になるカビの匂いの街を歩き始めた。

「すみません、店長。少し遅れました」

「少しどころじゃないですよ、ひびきさん。十五分も遅刻なんて、らしくないですよ。なにかあったんですか?」

 お客がいないためか、はたまたあたしが来なかったためか、やや不機嫌そうな顔で店長はあたしの顔を見る。

「さっきの土砂降りで足止めされちゃって。あと米津さんに絡まれちゃってて。もうあの人、ストーカーかなんかですか?」

 苦笑いをするあたしに、

「また米津に会ったのですか? 一体どんな話を……?」

 店長がなにかを尋ねかけていたが、丁度ドアの鈍い鈴の音がした。ドアの方を見ると、長い茶髪の若い……というか幼い見た目といった方がいいOLが泣きながら入ってきた。

 泣いているのは気になるけど、エプロンを着けたあたしは事務的に開いているテーブル席に案内する。

「店長、あとはよろしくお願いします。あたしは手を洗ってくるので」

 あたしは店長に耳打ちすると、奥の厨房の洗面台で手を洗った。

 店内に戻ってみると、店長はOLと会話をしていた。

「そうですか。つまりあなたは、好きだったアーティストが結婚してしまったニュースを聞いてショックを受けた、と」

 店長は淡々と頷く。

「ええ。そうなんです。わたし、デビューから十五年間も追いかけていたのよ。それなのに、酷いわ、酷すぎるわ」

 OLは子供のように大きな声で泣き始めた。

「まさか結婚するなんて思いも寄らなかった! 酷いわ、酷いわ」

 やっと泣き止んだかと思うと、そう言って、目元をハンカチで押さえる。

「あの二人が別れればいいのよ。そうよ。でもそんなこと叶いっこないわよね」

 自虐的な笑いをしたOLに店長は、

「それはもしかして『願い』ですか?」

 たおやかな顔で見る。

 OLは少し驚いたようで、

「ええ。そ、そうですね。あの二人が別れることが願いっていえば、願いよ。でもそんなの叶いっこあるはずない……」

 OLは首を横に振る。

「ボクには人の願いを叶える力があるんですけど、その力を使ってみる気はありませんか?」

 突然の店長の言葉に、OLは目が点になっている。そりゃあ、そうよねえ。普通はそういう反応する。

「おイヤならいいんです。すみません。変なことを言って。今、コーヒーを淹れます」

 店長はそう言って、奥のキッチンに入ろうとしたとき、

「お兄さん、待って! 聞いたことがあるわ。どこかに願いを叶えてくれる神様がやっている喫茶店があるって。もしかして、ここ?」

 OLの目はらんらんと輝き始めた。そう、このOLが言うとおり、ここの店長の小夜鳴カナタは願いを三つまで叶えてくれる神様だ。本当にそうなのだけど……。

「ええ。まあ…。そうですが」

 店長は無表情に頷く。

 黄色い声を上げたOLは、

「なら、ねえ、お願い! MITEを離婚させて!」

 と大きく手を上げ、それから両指を絡ませ、店長に頭を下げた。

 店長は少し悲しそうな目をして、

「それが貴方の願い……なのですね。分かりました」

 そう言って、指を鳴らした。

 次の金曜日。午後三時過ぎにあたしは「がじぇっと」に来た。

 鈍い鈴の音が鳴るドアを開けると、そこにはこの前のOLが嬉しそうな顔でコーヒーを飲んでいた。

 テーブルにはゲスイ週刊誌が開いて置いてあった。見出しは「MITE、電撃結婚・電撃離婚の謎!」とデカデカと書かれていた。

 OLはとびっきりの笑顔でその記事を見ていた。あたしはこの前の幸せそうな結婚パーティを見ていたものだからか、心が苦しい。

「ひびきさん、こんにちは。早速なのですが、洗い物をお願いできますか?」

 店長が奥からやってきた。カレーホットサンドをOLの前に置く。

「カレーホットサンドです。ご注文は以上でしょうか?」

 やや顔が引きつっている店長に、

「いや、もう一つお願いがあるの。わたしの願いを叶えて欲しいのだけど」

 OLは両指を絡ませ、頭を下げた。店長の表情が曇る。

「ええ……。別に構いませんが……。どんな願い事でしょうか?」

 店長はいつものポーカーフェイスではなく暗い表情ではあったものの、いつもと同じように尋ねた。

「わたしとMITEを恋人同士にしてくれないかしら?」

 なんて厚顔無恥な! あたしはあまりに身勝手なOLの願いに怒りで頭が沸騰しそうだ。

 店長はなんか諦めたような表情を作ると、

「それでは二度目の願いを叶えますね」

 と言って、指を鳴らした。軽い音が鳴った。

 あれから二週間経った。二回生にあがったためか、授業が専門的になってきているような気がする。ちょっと難しい。覚えることも多くなったからかもしれない。

 金曜日は翌日休みと言うことで、五時限すべてに授業を入れていた。そのため、帰るのも遅くなっていた。

 遅くなったと言っても、日を重ねるごとに長くなっていく五月は六時でもまだ明るい。

 最寄り駅に向かう途中、疲れたなあとぼやきながら歩いていると、すれ違ったカップルがいた。気になって振り返ると、そのカップルはいつかのOLとマスクをしている男性だった。一見すると分からないが、声は完全にMITEのものだ。

 やっぱり叶うモノなのね、と一人溜息をつく。ま、店長のお好きにどうぞ、あたしには関係ないですからと流していた。

 でも、米津の言っていたことは正直気になる。店長があたしを利用している? 一体どういうことなのかしら。今度問い詰めてみようかな。

 あたしはそう考えながら、駅のホームへと向かった。

 六日後のこと。突然、しばらく続いていた平穏を崩れることが起きた。

 今日は三時限まで授業だったので、三時五分前に「がじぇっと」のドアを開けた。

 お客はこの前のOLだけだった。そしてそのOLはこの前の笑顔は全くなく、むしろ涙で化粧はボロボロだった。

 OLが座っているテーブルには、「MITE、新たな彼女! 相手はパートの事務員! 二十四歳!」と大きな見出しが載っている週刊誌が広げられてあった。

「わたしはただMITEのそばにいたいだけなの。なのにどうしてこんな……!」

 OLは大きな声で泣き始めた。正直、こんな展開、なるべくなら見たくないのになあ。

 店長はアイスコーヒーをお盆に載せてOLの座っているテーブルの前まで来た。アイスコーヒーです、と店長が言いかけたとき、

「店長さん! 店長さんは願い事を三つまで叶えてくれるのよね? なら、最期のお願いを頼みたいのだけど!」

 OLは店長の胸ぐらを掴んだ。グラスはかん高く不機嫌な音を立てて割れた、中身のコーヒーは床から跳ね、店長のカーキ色のズボンを汚す。

「わかりました。では願いをどうぞ」

 そう言う店長の顔はポーカーフェイスを超え、無に見えた。

 OLは明るい笑顔になって、

「わたしに注目しないで、っていうのを叶えて欲しいの。わたしに注目しなければ、こんな記事を書かかれずに済むのよ」

 と何度も頷く。

「分かりました。叶えましょう」

 無の表情の店長は、軽やかに指を鳴らした。


 テンション高めに帰って行ったOLに一瞬イラッときたけど、すぐにどうでもいい、という気分になった。ああ、店長の力は本物だわね、と再確認してしまった。


 それから一週間経った土曜日。前期の授業も折り返し地点。気を引き締めていこう、と心には誓いながらもなかなかそう上手くはいかない。だらけてしまう。そしてバイトに勤しむ。ちょくちょくいろんなモノを買っていたせいで、なかなか貯まらなかったけど、もうそろそろで欲しいレンズと込み込みで新しいカメラが買える金額までいく。楽しみだ。

 ってなわけで、今日も「がじぇっと」でバイトに勤しんでいた。

 あたしが空いたテーブルを拭いていると、

「ちょっと! なんで注文を聞きに来ないの?」

 という女性の怒鳴り声が聞こえてきた。振り返ると、いつかのOLが怒りの目に涙を浮かばせていた。

「え、居たんですか?」

 びっくりするあたしに、

「居たも何も。三十分も待っているのに、誰も話しかけてこないの、どうにかしてよ」

 OLはイライラした声であたしを責める。

 気がつかなかったあたしが悪いんだけど、普通はドアの鈴が鳴るから、気がつくはずなのになあ、と首をかしげる。

「注目しないで、って願ったら、MITEさんも構ってくれなくなって、元サヤに戻ってしまうし、仕事してても誰からも無視されるし! 注目しないでって願ったけど、こんなはずじゃなかったのよ!」

 OLはそう大きな声で叫ぶと、大きな声で泣きながら外へ出て行った。鈍い鈴の音が乱暴に鳴った。

 ああ、大変だったわ、と肩を落とす。今のわめき声で他のお客に迷惑掛かっていないかしら、と店内を見回す。

 誰一人、今の出来事を気にする様子がなかった。

 店長の能力は効果抜群ね、と頭を抱えた。

「ボクが奥にいるときにそんなことが……」

 店じまいをしたあと、一応店長に今日のOLの話をする。

「やっぱり上手くいかないものですね。ボクの能力ってなんて融通が利かないのか、自分自身を問い詰めたいですよ」

 店長は薄らと自虐的な笑みをする。

 そのときだった。

「私たちの力は人を不幸にするんですよ。利己的な人間に振り回されるのにはつかれるでしょう、カナタくん」

 声の持ち主は米津だった。パナマ帽を胸に置いて笑顔でこちらを見ている。真っ白なスーツは暑いのにご苦労様だわね、と思うぐらいには余裕が出てきた。

「何しに来た?」

 店長は声を荒げる。

「ですから、利己的な人間がいる世界なんて救う必要なんてないんですよ。ひびきさんと一緒にこの世を恨めばいいんです」

「ちょっと待って。そこにどうしてあたしが出てくるの?」

 思わず指摘する。

「それはひびきさんの意志でカナタくんは神でいられているからです」

「は? それはどういうこと?」

 米津の言葉にあたしの脳内でははてなマークが浮かぶ。

「ひびきさんに頼りっきりなのもどうかと思いますよ、カナタくん。これじゃひびきさんを利用しているのと同じです。カナタくんの強すぎる力をひびきさんというたった一人の人間の意志だけでコントロールしているのですから」

 米津は不気味に微笑む。

「カナタくん。これで分かったでしょう。人間は私たちの力を悪用しているんです。その結果があのザマなのです。同じ結果になるのなら、人間をあざ笑ったほうがいいでしょう」

 鼻で笑った米津はこう言うと、

「良い返事待ってますよ」

 と言って、外へ出た。

 倒れるように店長はカウンター席に座った。

「はあ、やれやれ。またあのオッサン、くるのかなあ。うるさいなあ」

 店長は溜息をつく。

「あの、店長。必ず話してくれ、っていうわけじゃあないのですけど」

 あたしは勇気を持って店長に尋ねることにした。

「アイツが言っていたこと……ボクがひびきさんを利用している話ですよね」

 店長は、頭を両手でかきむしると、

「今日はもう遅いです。明日は休みにするので、別の場所でお話します」

 そう言って、帰宅準備を始めた。気になるけど、あたしも帰宅準備をした。

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