シークエンス8「悪魔がきた喫茶店」

 あたしは「喫茶がじぇっと」の扉を開けた。いつもより重く感じる。

「ああ、ひびきさん、どうしたのです。そんなに落ち込んで」

 開店前でまだ余裕を見せるここの店長――小夜鳴カナタ――は、薄らと微笑みながら、読んでいた新書から顔を上げた。

「ああ、店長。愚痴っても良いですか?」

「構いませんよ。適度であれば」

 店長の承諾を受け、あたしは思い切り大きく息を吸い、

「あのバカ親父! 滅べ!」

 と叫んだ。

「どうしたんですか。らしくない。ひびきさんとひびきさんのお父さんとケンカでもしたのですか?」

 店長は困ったように微笑む。

「ケンカじゃないですよ。あれは一方的なリンチです! こっちの言い分を全く聞かないんですよ……」

 カウンターに力なく座ったあたしは、

「あたしがカメラが趣味なのはご存じですよね? 本当は写真の学校に通いたかったのですけど、親に反対されて進学できなくなったのは話してないと思いますが」

 恨めしそうを見上げる。

「そうだったのですか。浪人なさっていたのもそういう理由だったのですね」

 頷く店長に、

「その上、あたしの写真の趣味は金が掛かるし、嫁入りにはなんの役にも立たないスキルだから辞めろ、って上から目線で怒鳴るんです。あたしは好きだからやっているのに! それに、レンズもカメラもすべてお小遣いを貯めて買っているんですよ!」

 思わずこぼれる涙をあたしは目元で押さえる。

「必要とか必要がないとか、そういう括りで考えるのって凄くイヤなんですよ……」

 力なくうなだれるあたしに、

「まあ、それはなんとなく分かる気がします。ボクの能力とか、正直無駄のように思えて。これがなかったら、幸せだった人がいるのではないか、って最近考えています。なんのためにあるのかとか、誰かに教えて欲しいぐらいですよ」

 店長は苦笑いをした。ふうん、なんだかんだ店長もそんなことを考えていたのかあ。驚きだ。

 そのときだった。

 店の扉が開いた。鈍い鈴の音がする。

「キミが店長さんかね?」

 入ってきたのはフガフガと笑う、でっぷりとしたビール腹を抱えたハゲ頭の男だった。灰色のスーツはピチピチでみっともなく見える。

「あの、まだ開店時間じゃあないんですよ。開店時間までもうしばらくお待ちくださいませんか?」

 いつも血色悪い店長の顔が少し赤くなった。若干眉間にしわがある。あ、店長ってば、若干怒っているな。

 しかし、男は店長の変化に全く気にする様子もなく、

「キミが願いを叶えてくれる神様なんだよな? なあ、おれの願いを叶えてくれや」

 と、空気も読まず、ニコニコと笑う。

 そう、この男が言うように、ここ「喫茶がじぇっと」の店長、小夜鳴カナタは願いを三つまで叶えてくれる神様だ。どんな願いも叶えることが出来るのだが、ここだけの話、あたしがこの一年間ここでアルバイトをしていて、ろくな事が起きていないと個人的には思っている。でも自分が辞めないでいるのは、店長の性格と時給がいいことからかな。あと単純に居心地が良い。

 話がずれた。

 あたしが顔を上げると、店長は一瞬機嫌を損ねた表情を作っていた。しかし、すぐ大きく溜息をつき、

「それはどんな願いでしょうか?」

 とぶっきらぼうに尋ねた。

「おれの会社に新卒で入って入社二年目の営業がいるんだが……。使えなさすぎるからそいつを辞めさせて欲しい」

 男は愉快そうに笑う。

「へ? それなら、普通にクビにすればいいんじゃないんですか? 法律とか詳しくないけれど……」

 疑問を口から出すあたしに、

「その営業はおれの高校の先輩の息子なんだ。まあ、コネ入社ってヤツだ。だから、俺から辞めさせられないんだ。先輩の顔に泥を塗るわけにはいかないからな」

 男はフガフガ笑う。

「そもそも! あんなに使えない学問を学んで、就職先が見つからず、おれを頼るなんて愚かにも程がある! ああいう生産性のないヤツなんて、必要ないんだ!」

 男はそう断言すると、椅子に思い切り座った。木が裂ける鈍い音がする。

 あたしはちらり店長を見る。

 店長は男をじっと見据えていた。睨んでいるというか、蔑むような、冷たい目をしていた。

 口を開こうとした店長を遮り、立ち上がったあたしは、

「生産性って! 生産性って! 生産性ってそんなに大事なんですか? なんでそんなに役に立つことしか考えないんですか?」

 と、がなった。どうしても、今日の自分のことと重ね合わせてしまう。

「店長の力を頼る、それこそ無駄ですよ。生産性を重視するならそれぐらい自分の力でどうにかしたらどうです? それが出来ないのなら、社長の器じゃあないわ! 無駄とか生産性とか、それだけで人間を決めるなんて、最低よ!」

 あたしの目は完全に潤んでいた。

「失敬な! 躾のなってないガキが! こんな無礼な子を雇っているなんて、信じられん!」

 あたしの言葉にタコのように顔を真っ赤にさせた男は、立ち上がり、勢いよく扉を開け、外へ出て勢いよく閉まった。鈍い鈴の音が激しく鳴る。

 ちょっと言い過ぎたかしたら……。完全に血の気が引いたあたしに、

「よくぞ言ってくれました。ありがとうございます。おかげですっきりしましたよ」

 と穏やかな声色で店長は話す。

「は……はあ」

 変な声しか出ないあたしに、

「実はボクの前職は建築業の営業でして。売上が悪くて、上司に怒られっぱなしでした」

 そう言って店長はカウンター席に座った。

「もうダメだと思ったときに、どこかでインド産のコーヒーを飲みましてね。その瞬間、なんか救われたんですよ。そして、コレだ、コーヒーだ、と思ったんです。それがきっかけでお金を貯めて、勉強して、脱サラしてこの店を開きました」

 店長の表情は晴れ晴れとして、

「もちろん、件の営業マンには会ったことはありません。ですが、どうしても自分の過去と重ね合わせてしまっていて。ひびきさんがいなかったら、多分ボクはどうかをしていたと思います。ありがとうございました」

 と、頭を下げた。

「い……いえ。そんなつもりで言ったつもりじゃ」

 照れるあたしに、

「それだけのことをしたんです。自分に自信を持ってください」

 店長は柔らかに微笑んだ。その笑みに、突然あたしの心臓は高鳴り、顔が火照るのが分かった。

「カナタくん。女の子を困惑させるのもほどほどに」

 突然、爽やかな男性の声が聞こえた。声のする方を見ると、パナマ帽を胸に持っている七三分けの華奢な男が立っていた。金色の目は微笑んでいたが、どこか人間味を感じない何かが放っている。シワの具合から年齢は明らかに店長よりは上だ。白いスーツがなんともまぶしい。

 店長は柄でもなく、舌打ちをすると、

「悪魔め。また来たのか」

 と小さく呟く。

「へ? 悪魔? また?」

 驚くあたしに、

「おや。カナタくん。どうやら彼女、自分がどんな立場にいるか、何も理解していないのではありませんか? 自分自身が何者であるかすら理解させていないのって、神様として結構酷いのではありませんかね?」

 パナマ帽の男はニヤリ嫌な笑みを浮かべる。

「まだ開店前です! さっさと出てけ!」

 店長は、カウンターの塩の小瓶をパナマ帽の男に投げる。男はそれをまるでキャッチボールのように受け取り、静かに隣のテーブルに置くと、

「酷い店長さんですよね? ねえ、花都ひびきさん?」

 初対面の男に自分の名前を言われ、全身に緊張が走る。

「どうして、自分の名前を、と思っていますね?」

 パナマ帽の男はそう言い、鼻で笑う。そして、

「実はあなたの妹さん……かなでさんと仲良くさせて頂いております」

 と、言葉とは裏腹に冷たい目であたしに微笑み、頭を下げる。

 背筋が凍って、足に力が入らなくなり、あたしは床にへたり込む。

「かなでを知っているの……」

 あたしは震える声でパナマ帽の男に尋ねることしか出来ない。

「ええ。存じております。元気にしてますよ」

 鼻で笑ったパナマ帽の男はあたしに手を差し伸べる。しかし、あたしはその手で立ち上がらなかった。直感と言うべきものだろうか。白い手袋をはめたこの男の手を握ったら、なんだかあたしが「あたし」のままでいられなくなる、そんな気がしたのだ。

「あなたに助けて貰わなくても、立てるわ」

 あたしは震える足に力を込め、立ち上がり、パナマ帽の男を思い切り睨む。

「やっぱり一筋縄ではいかないものですね……」

 パナマ帽の男はこう言って高笑いをすると、

「さっきの男性、可哀想に。神様に見捨てられてしまうなんて。なんとまあ、残念なんでしょうか!」

 全く変わらない嫌みな笑いで店長を見る。店長はただ唇を噛むだけだ。

「せっかくですから、あの方の願いを私が代わりに叶えて差し上げましたよ。まあ、どうなるかはあの方自身ですがね」

 パナマ帽の男は、再び鼻で笑い、

「カナタくん。キミは私のことを『悪魔』と言いますけど、キミだって似たようなモノじゃあありませんかねえ? いえ、むしろ同じです」

 と、真顔で店長の顔を覗き込む。

 恐ろしい顔で店長はパナマ帽の男を突き飛ばす。帽子は宙を舞う。

 男はその拍子に落ちたパナマ帽をかぶると、

「私もキミぐらいの時は悪あがきしたものですがね。結局、変わらないんですよ」

 そう笑う。

「そもそも何しに来たんだ?」

 店長は恐ろしい顔でパナマ帽の男を睨む。

「私はただ、ひびきさんをスカウトしたかっただけですよ」

 パナマ帽の男は店の扉を開けると、

「また来ますよ。カナタくん」

 振り返り手を振りながら、店を出た。

 男が見えなくなると、店長の顔は、殺気立つ表情からいつもの何を考えているか分からない表情に戻った。

「ああ、お騒がせしました。開店前なのに、ボクはもう疲労困憊ですよ」

 いつも血色悪いけど、いつも以上に店長の顔色が悪い。

「店長、今日は無理しないほうが……。気分悪いのが目に見えて明らかですよ」

 あたしは店長の背中をさする。

「ひびきさんこそ大丈夫ですか? 顔色悪いですよ。時期的にもう新学期が始まっているはずです。帰宅なさっていいですよ。今日の分は全部給料出しておいてあげますから。ボクも今日は帰ります。臨時休業もアリでしょう」

 店長に色々聞きたいことがあったのだけど、帰宅準備を始めた店長を見て、あたしは帰るしかなかった。

 昼前で混雑していない……むしろすいている電車に乗って帰宅した。

 家の最寄り駅で降り、駅前の交差点に出た。そこで、どうやらなんかざわめいている。

 何事かと思っていると、救急車と事故を処理するパトカーがやってきて、救急隊員さんたちが慌ただしく、その輪の中に入った。

 その輪から担架で運びだされたのは、頭が血塗れの若いスーツの男性と、同じく血塗れであり得ない方向に足が曲がっている中年の男性は――あたしの見間違えでなければ――今朝の自称社長の男だった。あたしは衝撃的な光景を見て、目の前がクラクラして、吐きそうになり、口を押さえる。

「ひびきさん、そんなに他人に感情移入する必要なんてないんですよ。やはり、かなでさんとは姉妹ですね。そっくりです」

 鼻で笑う声が聞こえてきた。びっくりして後ろを振り向くと、今朝のパナマ帽の男が晴れやかな笑顔であたしを見ていた。

「あんたは! 今朝の!」

 あたしは叫ぶと、逃げようと、家から反対方向の道を走り始めた。

 怖い、怖い、怖い!

 ただ、ただ、恐怖心だけで、あたしは走っていた。

 閑静な住宅街の曲がり角をいくつも曲がる。四つめの曲がり角を曲がると、少し息を整えようと立ち止まり、膝に手をつく。

「そんな驚かなくてもいいのに」

 顔を上げると、パナマ帽の男性が目の前にいた。突然のことに、息が止まりそうになる。

 男はまた鼻で笑うと、

「ひびきさん。あなた、かなでさんに会いたいって思っているでしょう?」

 あたしは心臓に冷たい槍が刺さった感覚に陥った。

「その目の動き、完全に図星のようですね」

 パナマ帽の男は薄らと気持ちが悪い笑みを浮かばせると、

「かなでさんに会いたいなら、願いを叶えさせてあげますが、如何なさいますか?」

 そうあたしに提案してきた。

 あたしは大きく息を吸い、

「いいえ、かなでとは自力で会うつもりよ。あんたのおかげで生きているって分かったのだし。それにそういう願いがあったら、店長にお願いしているわ。だから、もちろんあんたの力も借りるつもりはない!」

 と、大きく宣言した。

 パナマ帽の男はキョトンとした顔をしたかと思うと、高笑いをして、

「なぁるほどね! だから、カナタくんはキミを雇っているのか。面白いな」

 納得したような笑みを浮かべる。

「キミを説得するのは、ひとまずやめておきます。まずはカナタくんを説得しなくては」

 パナマ帽の男は独り言を呟き、頷くと、

「あれで営業さんはきっとお仕事をやめることになるでしょう。もしかしたら死ぬかもしれませんね。まあ、さっきの社長さんは道連れに事故に遭ってしまったのですが……。人を呪わば穴二つ、ってヤツですかね……」

 パナマ帽の男は帽子を外し、一礼すると、

「それでは。またどこかで」

 帽子をかぶり、そのまま歩き出し、曲がり角を曲がった。

「ちょっと、話が終わっていないわ」

 あたしは男を追いかける。しかし、曲がった先に男はいなかった。

 あたしはまだ自分の鼓動が早いことに気がつき、大きく深呼吸をし、気持ちを落ち着かせる。

「一体なんだったの……?」

 その瞬間、頭がハンマーで何度も叩かれるような痛みが走った。

「さっさと帰って、痛み止め飲もうかしらね……。きっと疲れたのだわ。どうせ明日は履修登録で大学行かなきゃいけないし……」

 頭痛は酷いけど、さっきよりは動悸は収まっている。あたしは大きく背伸びをすると、そのまま家路へ向かった。

 その翌日の夕方、大学帰りに「喫茶がじぇっと」で、店長に昨日のあの出来事のあと、悪魔と会ったことを話した。

 驚きのあまりか、店長は咳き込む。もちろん、何事もなかったことを店長には報告する。

 その上で、

「店長、あの人は誰なのですか? 店長のことをやけに親しげに呼んでいましたけど」

 と聞いてみた。店長は大きく溜息をつくと、

「そうですね……。彼は米津といいます。血縁上は母の弟、になりますね。いわゆる叔父です」

「え、店長の叔父さんですって?」

 驚きのあまり、こけそうになる。

「母は運命の女神で、叔父は願掛けの神でした。下にもう一人叔父がいたはずですけど、ボクは会ったことがないですね」

「は……はあ……。でも、悪魔ってどういう……?」

 あたしの質問に、店長は暗い顔して、

「いろんな事がありすぎて、神ではなくなったのです」

 と悲しそうな顔する。

「そうです、米津は神としての矜持を忘れ、人を、そして世界を呪うようになってしまいました。そして、同じ力を持つボクの将来を憂いているのかどうかは分かりませんけど、一緒に世界を呪おうと誘っているのです。そんなこと、ボクはそのつもりはありませんし、世界を呪うなんて絶対に許せないことですけどね」

 苦しそうな笑みを店長は浮かばせ、

「ボクの親類が迷惑をかけました。申し訳ありません」

 店長は申し訳なさそうに頭を下げる。

 あたしは、

「いえいえ! あたしは米津さんとお話しできて良かったかな、と思っているぐらいなので、気にしないでください!」

「へ?」

 あたしの言葉に店長は首をかしげる。ああ、これだけじゃあ意味不明だわね。

「米津さんは、行方不明のあたしの妹のことを知っていました。米津さんはマジで怖かったけど、妹が生きているという情報だけでも知ることが出来て良かったと思っているんです。ま……まあ、米津さんがウソをついてなければ、ですけど」

「なるほど。米津はいろんな意味で正直なので、きっとその言葉もウソではないでしょう」

 店長はあたしの言ったことに納得したようで、三回ほど頷く。

「まあ、今回はお互いが無事で良かったです。件の社長さんは可哀想でしたけど、自分たちのことが一番ですから」

 店長ってやっぱりドライだわね、ってあたしは苦笑いしか出来なかった。

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