シークエンス6「あやつりにんぎょう」

 あたしは「喫茶がじぇっと」の扉を開けた。鈍い鈴の音と香ばしいコーヒーの香りがただよう暖かい空気がふわっと感じた。寒い真冬の日曜日の朝には心地良い。

「ああ、ひびきさんですか。おはようございます。寒いですから、手をキチンと洗って風邪をひかないようにしてくださいね」

 人間味のないボーンチャイナのような白い肌に、真っ黒なくせ毛。そしてこれまた人間味のない金に輝く瞳の店長――願掛けの神様である小夜鳴カナタは、いつも通り何を考えているか分からない笑みをしながら、カウンター席で新聞を畳む。

「開店準備をしますので、ひびきさんもよろしくお願いします」

 店長は立ち上がると、新聞を本棚の上に並べた。

 寒いためか、客入りがまったく良くない日だった。客さんがいないとき、めったに感情をあらわにしない店長が時折不機嫌そうにあくびをしているぐらいヒマだった。

 あたしも退屈で、数少ない客の使ったカップを洗いながら大きなあくびをした。

 そのときだった。

 鈍い鈴の音がした。あたしと同じぐらいの男女が、ああ寒かったと、笑いながら仲睦まじく入ってきた。この前ほどでもないけど、やっぱりちょっとうらやましいな、と思いながらも笑顔で、

「いらっしゃいませ!」

 とほぼ店長と同時に言った。

「お好きな席にどうぞ。メニューはこちらになります」

 店長は柔らかな笑みで、席に座った男女にメニューを渡す。メニュー表を受け取った男女――見るからに仲の良いカップルは、二人で顔をつきあわせて、覗き込む。

 カップが洗い終わったので、注文を聞き終え、厨房に戻ってきた店長に、

「あの、店長。洗い終えました。なにかすることがありますか?」

 と尋ねた。

「ああ、そうですね……。今のお客さんのコーヒーを淹れ終えたら、新作メニューの試食をしていただけませんか? 自分では美味しいと思うのですけれど、やはり誰かの目……というか、誰かの舌が必要だと思うので」

 店長は柔らかな笑みであたしの目を覗き込む。一瞬、店長の金色の瞳に吸い込まれそうな感覚になる。

「ひびきさん?」

 店長の言葉に我に返ったあたしは、

「ええ、ぜひ!」

 と笑顔で答えた。

「ホント美味しいです、このチーズカレーホットサンド。でもちょっとカレーが手につかないように食べるのが難しいかもしれませんね。そういう対策、必要ですよ」

 新作のホットサンドを食べ終え、手に着いた中身のカレーを洗い流す。

「ああ、女性の一口は小さいですものね。そこまで考えていませんでした」

 なるほどといったように、店長は頷く。

「あの。ちょっと提案なのですが。店長さえよければ、今のお客さんに試食していただいたらどうでしょう? あたし以外の意見も聞いてみては?」

 あたしは恐る恐る店長に聞いてみる。

「そうですね。ボクも今考えていたところでした。お客さんが帰らないうちに、作ってお出ししてみますね」

 店長は再び厨房でホットサンドを作り始めた。

 あたしはホットサンドを持って、お客さんであるカップルのところへ持って行った。もちろん、注文していないよ、と言われたけど、試食で感想を言って欲しいとお願いしたら、嬉しそうに食べてくれた。

「美味しいです。でも、手についたり服が汚れそうな気がします」

 全体的にボーイッシュなショートカットでつり目がカッコイイ女性は困った顔でおしぼりで手を拭く。

「あたしも今試食したのだけど、そうですよね」

 苦笑いするあたしの顔を男性はマジマジと見る。ヴィジュアル系でとがった印象の服装をした上品な顔つきの男性とどこかで会ったのかしら? もしかしたら顔にカレーでもついているのかしら? と考えていると、

「もしかして、花都?」

 と不思議な顔で尋ねてきた。

「ええ。花都ですけど。それが?」

 首を捻るあたしに、

「令中で三年G組のクラスメイトだった増間だよ。そのぶんじゃ、覚えてないか。五年前だもんな」

 令中……市立令名中学校は確かにあたしの出身校だ。三年G組に在籍していたのも事実。増間……。そんなヤツ……。

「あ。増間ってあのヤンキーの?」

 つい出てしまったあたしの言葉に女性は吹き出し、

「そんなこと言っちゃあオシマイだわ! 確かに高校時代まではそうだったけど!」

 豪快に笑う。

「ちょっとマナ。そこまで言わなくていいだろう?」

 そういう増間も頭を抱え、肩をふるわせている。

「ああ。そういうつもりで言ったわけじゃあ……」

 あたふたするあたしに、

「花都は相変わらず言うよなあ。あのときから変わっていない」

 増間はますますゲラゲラ笑う。

 顔が熱くなるのを感じはじめた。それと同時に記憶が戻ってくる。

 増間は勉強が出来ず、ガラが悪く反抗的なヤツだった。出来れば関わりたくないタイプというヤツだ。でもあたしはクラス委員だったものだから、なにかしら衝突していたと覚えている。

 それがまあ、こんな風に性格(キヤラクタ)が変わってしまうとは、彼女を持つとこう変わるものなのかと驚きを隠せない。

「どうかしましたか、ひびきさん」

 鉄板を洗い終えたらしい店長が奥から興味津々な目つきで現れた。

「あ、イヤ。彼、中学校の時のクラスメイトで」

「そうですか。世間は狭いですね」

 あたしの言葉に店長は軽やかに返事をする。

「あ、あなたが店長さん? ホットサンド、非常に美味しかったのですけど、紙でくるんだら手を汚さずに食べることが出来ると思いますよ」

 マナと呼ばれた増間の彼女の提案に、店長は、

「ああ。そうですね。それに衛生的にも食べられますし……。聞いて良かったです。ありがとうございました」

 店長は軽く頭を下げる。

「いえ、ごちそうさまでした。さ、いこうよ。けいご」

 マナさんは立ち上がる。

「ああ。そうだよな。身体も温まったし」

 増間も立ち上がる。

「お会計よろしく。割り勘で」

 増間は伝票バインダーを店長に差し出した。

 ★

 翌日、憂鬱な月曜の授業を終わらせた後、すぐに「がじぇっと」へ向かった。

 鈍い鈴の音を鳴らして、ドアを開けると、店長はお客さん――丁度あたしの母親と同世代に見える女性――とお話ししていた。

「こんにちは、ひびきさん。早速で悪いのですが、カップを洗ってください」

 店長はあたしにそう指示をすると、

「では、叶えますね」

 パチンと指を鳴らした。

「オカルトは信じないけど、ちょっと楽しみだわ」

 お客は腕時計を見ると、

「あら、大変。次の予定があるんだった。お会計してちょうだい」

 立ち上がり、財布を取り出した。

「毎度ありがとうございます」

 店長はこの前と打って変わってステキな笑顔で伝票をレジに打ち込んだ。


 カップを洗い終わったあたしは店長に疑問を投げかけた。

「あの、店長。今日も性懲りもなく願い事を叶えたんですか?」

「性懲りもなく、って人聞きが悪い。ボクの存在意義を否定しないでいただけますか?」

 店長は不機嫌そうな目であたしを見る。

「別に存在意義を否定しているわけじゃあないですよ。ただ、使いどころを間違えちゃマズいんじゃないか、って言っているだけです。傷つくのは店長ですよ」

 慌てて店長のフォローに入る。

「使いどころ、ですか。そんなに言うのならばボクが今叶えた願いを聞いてくださいますか?」

 挑戦的な店長の目に、一瞬緊張する。でも後には引けないので、

「教えてください」

 と静かに聞いた。

「自分の息子に悪い女がついたそうなのです。その二人を別れさせて、というものでした」

「ちょっと、店長? 学習していますか? 前、ネガティブな願いでネガティブな結果になっちゃったことがありましたよね?」

 思わずジトッとした目で店長を見てしまう。

「そんなことはボクは知ったことありません。ネガティブな願いでどうなるかは、願った本人の責任ですし」

「案外、店長って無責任なんですね」

 思い切り溜息をついてしまう。

「人が不幸になるのは悲しいですが、責任までは持てませんよ」

 店長は自分からふっておいた話題から逃げるように、カウンター席に座り、新聞を広げた。

 ★

 翌週の水曜日。

 今日はこの前とは違う教授がインフルエンザになったので、午後が休講だった。教授の中でインフルエンザが流行っているのだろうか。いくらなんでも先生方は身体が弱すぎる。

 それに期末のテスト前に休講とか、絶対補講がキツキツになるに決まっているから、正直勘弁して欲しい。

 昼一番に「がじぇっと」に来たあたしに店長は、

「あれ、ひびきさん。もしかして自主休講ですか?」

 と驚いた様子で尋ねる。

「自主休講は教授の方ですよ。インフルエンザがはやっているようで。試験前に補講が集中するからやめて欲しいって思っていますよ」

 あたしは肩を落としながら、カウンター席に座る。

「大学ってそんなものですよ。ボクも散々振り回されました」

 店長は懐かしそうな表情を作る。

「店長、大学通っていたんですか?」

「ええ。経済学部でした。新卒で就職しましたが、脱サラしてこの店を立ち上げたんです」

「へ……へえ……」

「店長さん、国立のなかなか頭の良い大学出ているんだよ。苦労人だしね」

 常連のサラリーマンはカレーのスプーンを振り回す。

「苦労人ではないですよ」

 店長は柔らかく笑う。そりゃ、「人」ではないよな。神様なんだし。

 あたしは店長の過去が気になって仕方がなくなったが、鈍い鈴の音と共に店のドアが開いたので、話は流れてしまった。

「いらっしゃいませ。お好きな席、どうぞ」

 店長はそう言って、お冷やとおしぼりを用意し、メニューと共に、席に座ったお客――中学のクラスメイトの増間――の前に置く。

「あ、花都! 丁度良かった! おれの話を聞いてくれよ」

 あたしを見るなり、増間は涙を浮かべた。

「マナが海外に転勤になっちまったんだ! しばらく会えなくなってしまったんだよ!」

 増間はまるで世の中が終わったかのように叫ぶ。

「つまり、長距離恋愛ってわけでしょ。今生の別れじゃないんだから、そこまで落ち込まなくても……」

 とっさに思いついたあたしの励ましを聞いた増間はまるで一光の筋が出来たかのような顔を浮かべ、

「カタブツで彼氏が出来たこともなさそうなヤツにそう励まされるとは思わなかったよ。そうだよな。こうなりゃ、遠距離恋愛を楽しむぜ」

 増間は力強く拳を握った。そういう余計な言葉は必要ないわよ、相変わらず失礼ね、とあたしは心の中でツッコミする。

 そのときだった。

 鈍い鈴と共に、先週やってきた母と同世代の女性が、寒い寒いと言いながら入ってきた。

「ああ、店長さん! あの悪い虫は遠いところへ転勤したの。これで別れるのも時間の問題よ。安心したわ」

 女性は店長にはしゃいだ様子で笑う。

「母さん?」

 増間は女性を睨んでいた。

「もしかして、母さんが謀ったのか? マナの会社に袖でも通したのか? そんなバカな!」

 世にも恐ろしい顔で増間は女性――増間の母親を見る。

「あなたのためなのよ。あんな片親しかいない女なんて、絶対ろくでなしよ」

 増間の母親は真剣な顔で増間を見る。

 マナさんが片親であるのと、マナさんがろくでなしである可能性に因果関係なんてあるはずないのに、とあたしは心の中で呟く。いっそ、ツッコもうかと思ったけど、家族のことに首を突っ込んだら、ますますややこしくなりそうなので、やめておく。

「マナはな。おれに幸福を運んでくれる女性なんだ。おれがささやかな幸福を見つけ、不良から真面目に働くようになれたのも、あの人のおかげなんだ。マナを侮辱するなら、もうあんたを母親と二度と思わない」

 中学時代にはなかった増間の愛する人への感情の吐露に、あたしは軽く感動を覚え、拍手をする。常連のサラリーマンも拍手をする。

 増間の母親は、ヒステリックに、

「あなたを大切にしてきたのよ。どうして、ここまで大事にしてあげたこの私を見捨てようとするの?」

 と叫び、両手で目で覆った。すすり泣く声がする。

「店長さん、このバカと同じ空間にいたくない。注文しないで出るのは申し訳ないけど、また次の機会に来るから、それで勘弁してくれませんか」

 増間は店長の返事を聞くことなく、すぐに店を出た。

 しばらく、増間の母親は泣いていた。

 どうしたものかな、と頭を抱えていると、増間の母親は、涙を拭きながら顔を上げると、

「店長さん! あの女を殺したい! あの女が死ねば、きっとあの子も正気に戻るわ」

 正気じゃないのはあんたの方だろ、と喉から出かけたが、あたしは一応店長の反応を見る。

「生死に関わる願いはタブーなんですよね。ごめんなさい」

 困った表情の店長に、増間の母親は、

「なら……。思い切り不幸になれば……。そうね、返しきれない額の借金を背負えばいいのよ。そう、この願いなら、大丈夫でしょう。叶えてよ」

 さすがにワガママすぎる増間の母親に、

「そんなに人の不幸を願うのですか? 人を呪わば穴二つって言いますよ」

 と、一応進言する。

「いいの。あの女が不幸になるのが私の願い、幸せなのだから」

 増間の母親はハンカチで目元を抑える。

「本当にいいんですね? なら叶えましょう」

 店長は軽やかにクラップした。

「店長さんも物好きだねえ」

 サラリーマンはそう言うと、コーヒーを飲みきった。

 ★

 それから一週間経った。テスト前でドタバタしていてメンタルゴリゴリ削られる時期だ。

 授業の合間にスマートフォンの電源を入れる。ブラウザ画面に世界的会社が不正をしたというスクープが載っていた。おかげで株価が昔で言う紙切れ同然になったらしい。

 そのときはあたしにはこれが関係ない遠い世界の話だと思っていた。

 テスト勉強を終えた夕方に、「がじぇっと」に行くと、増間とマナが真剣な顔で顔をつきあわせていた。

「増間くん、来てたの。マナさんも帰ってきたの。恋人が帰ってきて良かったわねえ。安心したでしょ」

 あたしは増間を茶化す。しかし、増間は、

「それどころじゃねえんだよ。今日スクープがあっただろ。その会社の株価が落ちて、株主のマナが借金抱えちゃったんだ」

 あたしは何も言えなくなった。

「ごめんね。けいご。もう別れよう。わたしと一緒にいてもろくなことがないわ。わたしはあなたにとっての幸福にはどうやらなれないと思う」

 マナは伝票バインダーを持って、立ち上がった。

「ちょっと、待てよ」

 増間はマナの腕を掴む。

「今すぐ、結婚しようぜ」

 増間は素晴らしい笑顔でマナを見た。

「こんな状態でプロポーズしたくはなかったけどな。マナから別れるって言い出す事態になったら、もう言うしかない」

 立ち上がった増間はマナを強く抱きしめた。

「おれはお前を守りたいんだ。マナは十分強いけど、そんなマナが苦しんでいるのが見てられない。お願いだ。おれにマナを守らせてくれ」

 増間はマナの目をじっと見つめた。

「でも、借金まみれよ。いいの?」

 涙をこぼすマナに、増間は、

「借金まみれでも、いつかはきっと返せるさ。きみは幸福の象徴。悪いことばかり起きるはずがないよ。言っていたじゃないか。ケ・セラセラって」

 と笑顔で答えた。

 あたしは一瞬、自分の父親が脳裏をかすめた。父は母の家の借金を返した。そのせいで父は母や娘であるあたしと妹とを思い通りにしてきた。もし、あたしの父親がこんな風だったら、あたしたち家族は幸せだったのかな、とチクリと心にトゲが刺さる。

 思考が脱線していることに気がつき、あたしは増間とマナを見る。

「きっとわたしはあなたを幸福にしてみせるわ」

 マナも強く増間を抱きしめた。

 ああ、困難があればあるほど、恋愛は盛り上がるって信じてはいなかったけど、実際にあるんだな、となんだか幸せな気分を覚えた。本気でうらやましいとも思うぐらいだ。

 その刹那、雑に店の扉が開いた。鈴が激しく揺れ、鳴る。

「ああ、店長さん! あの会社のスクープのせいでお金を溶かしちゃったの! なんとかして!」

 増間の母親が涙でドロドロに溶けたファンデーションの顔で店長にすがりついた。

「こうなるんですね。なるほど」

 店長はまるでマウスの行動を観察するかのような目つきで、増間の母親の腕から抜ける。

「で、どうしたいんですか。最後の一回が残っていますよ」

 面倒くさそうな目で店長は増間の母親に尋ねる。

「借金をなくして!」

 増間の母親は両手の指を絡め、祈った。

「分かりました。叶えますよ」

 店長は軽やかに指をならした。

 その瞬間、二つの電話が鳴った。マナと増間の母親が同時に自分の電話に出る。

 最初に電話を切ったのは、マナの方だった。

「けいご! スクープはデマだったようよ。株価はじきに上がるみたい。借金は皆無にはならないかもしれないけど、なんとかなりそう!」

 マナは再び増間に抱きつき、頬にキスをした。

「やっぱり、マナは女神だ!」

 増間はマナの唇にキスをする。のろけを見るのは楽しいような、うらやましいような、裏腹な気持ちを覚える。

 電話を切った増間の母親は電話を切ると、

「ああ、店長さん! 借金はなくなりそうよ。ありがとう!」

 増間の母親は安堵の表情をする。

 増間は自分の母親の存在に気がつくと、明らかに怒りの表情を作り、

「おい。おれはあんたを一生肉親と思わないからな。マナを不幸に陥れたのは一生、いや死んでも許さない。おれはマナと結婚する。おれもマナについて海外行く。そしてマナと幸せになる。日本に帰ってきて、もしあんたと会っても、他人だからな。関わるなよ」

 キツい口調で言い放った。

「そんな、そんな酷い! こんなに大切に育てたのに! ずっとあなたのしたいことをさせてきたはずよ。私ほどあなたを思っているのはいないはずなのに!」

 増間の母親は子供のように泣き叫ぶ。

「うるせえ。したいことをさせるのと甘やかすのは違うんだ。子供を甘やかせるのが親の役割かよ。本当にその人を思いやるのであれば、言うべきことはちゃんと言って、物事を考えさせるのが筋ってものだぜ。少なくてもマナはそういう……おれに意志を持たせてくれた女性なんだ。だからおれは彼女に惚れたんだ。甘やかせば自分の思い通りになると思っているあんたとは金輪際関わりたくない!」

 増間は静かではあるが、強い口調ではっきりと言い切った。

 増間の母は顔を真っ赤にさせ、

「泣いて帰ってきても知らないからね!」

 と捨て台詞を吐いて、店を出た。

 ああ、嵐が終わった……とホッと胸をなで下ろす。それから、店長に、

「人生万事が塞翁が馬って本当にあるんですね」

 と小さく言った。

「ええ。彼女が福の女神でしたからなんとかなったのでしょう」

「そうですね……」

 静かに呟く店長の言葉に思わず納得しかけた。

「え、店長。福の女神? どういう……」

 思わず、あたしは店長の金の目を見る。

「ええ。マナさんは福の女神です。関わる人間を次々に幸福にする神がいるというウワサを聞いたことがあります。実際にお目にかかれるとは思いませんでした」

 店長はマナの顔を見る。

「こちらも人間の願いを三つまで叶える神が喫茶店をやっていると聞いたことがあります。わたしも実際にお会いできると思いませんでした」

 マナの茶目っ気な言葉に増間は、

「え、店長さん、神様なの? つまりあのバカの願いを叶えて、おれらを不幸に陥れたのか?」

 と店長の胸ぐらを掴む。

「申し訳ないと思っています」

 店長は悲しそうな目で増間を見る。

「謝って済むなら警察なんていらないんだよ」

 増間は店長を突き飛ばす。

「けいご、こればかりは仕方がないのよ。神は神としての役割があるのだから」

 マナは増間の手を握るとこう言った。

「わたしの役目は関わった人間に福を届けること。店長さんの役目はどんなに悪いものでも願いを叶えること」

 それからたおやかな笑みをすると、

「わたしがあなたに福を運ぶから! あなたはわたしを幸せにして」

 マナは増間に再びキスをした。

 増間の目をじっと見た後、彼から離れ、あたしの手を握ると、

「ああ。花都さん。あなたにもきっと福が訪れるわ。わたしが言うんですもの。保証するわ」

 と幸せそうに笑った。

 閉店時間になった。

 店長と二人で片付けをしていると、突然店長が、

「ボクって結構損な役回りですよねえ。良い願い、悪い願い、どちらも叶えなきゃいけないのですから」

 と小さく呟いた。

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