シークエンス4「ALL」
「ひびきさん?」
店長の低い声で、あたしは我に返った。
「春眠暁を覚えずの時期はもう過ぎましたよ。勉強がそんなに忙しいのなら、仕事を入れなくても良いんですよ」
「あ。いやいや。昨日友達と遅くまで電話をしていただけで。シャキッとします」
あたしは茶色のポニーテールをキツく結び直すと、立ち上がった。
真っ白な肌に金の瞳を持つ自称「願い事の神様」でここ「喫茶がじぇっと」の店長小夜鳴カナタは、
「シャキッと、と言われても、お客さんが誰もいないんで、掃除などの後始末はボク一人で出来るかな、って思ってて。若いうちはちゃんと寝ないと身体に障ります。帰っても良いですよ」
と柔らかく笑った。
あたしは、店にいればいるほど、バイト代になるので、店にいたいのだけど、店長の悲しそうな顔を見ると、なんだかいたたまれなくなって、帰宅の準備を始めた。
そのときだった。
夕日が差し込む玄関から鈍い鈴の音がした。
「わあ、噂通りの穴場ね。素敵だわ!」
「あとはどれだけ美味しいか、ね。マズかったら、なにかぶち壊して帰りましょ」
黒いショートカットの女性の楽しそうな声はうれしいけど、長い栗毛の女性の不穏な言葉を聞いて、あたしの心は冷たい槍がちょっと刺さる。
「ああ、ひびきさん、帰るのはちょっと待ってもらって良いですか? 注文を聞いてください。ボクはキッチンの準備するので」
「あ、はい!」
あたしはカバンをカウンターに置くと、エプロンを取り出し、身につけた。バックヤードで手を洗うと、店長からメニュー表とおしぼり、お冷やを受け取り、店長が案内していたテーブル席の二人の女性客の元へ持って行った。
栗毛は舐めるようにメニューを見ると、
「私、ブレンドが良いわ。小腹が空いたから、セサミクッキーも頂戴」
とあたしにドヤ顔で注文する。
「そうね……。わたしは……。ルイボスティ、ホットで」
あたしはバインダーで挟んだ注文票にそれらを書き込むと、頭を下げ、店長の下へ戻っていった。
「ひびきさん、お疲れ様でした。今日はもう帰って良いですよ」
店長はそう言ったのだけど、
「あの、店長。あたし、今日、ここで勉強しても良いですか? ドリンク、注文するので……」
あたしは気まずそうにお願いをしてみる。
「何があったんですか?」
恍けた顔の店長に、あたしはますます気まずくなった。
「えっと……。来週、英語の小テストがあるんです」
「ひびきさん、大学生ですよね?」
ああ、やっぱりツッコまれた! 自分でも高校生かよ、と思っていたけど、こうツッコまれるとやっぱり恥ずかしい。
その途端にあたしの心のたがが外れた。
「そうなんですよ! 大学生なのに、英語の科目に小テストがあるんです! 期末のテストの他に! 心理学の論文を読むには最低限の英語力が必要だからっていう理由で!」
「それは、大変ですね」
返ってきた店長の声はやや棒読みだった。
「店長、本当に大変だと思っています?」
あたしは店長を睨み付けた。
笑い声が聞こえた。あたしは振り返ると、ショートカットの女性のものと分かった。
「キミ、精々、勉強しておいた方が良いよ。期末は英語のレポートだから」
「はあ」
なんのことだかさっぱりだ。
「キミ、志連大学の心理学科でしょ?」
あたしはびっくりしてしまって、
「え、なんで? わかったんですか?」
と素っ頓狂な声を出してしまう。
「理由は簡単よ」
ショートカットの女性はお冷やを一口飲むと、
「この付近の大学で英語に力を入れている心理学専攻の大学なんて他にないもの。それに」
はにかみ、
「わたしも志連大学の心理学科出身だしね」
と、こちらに顔を上げ、ウィンクした。
突然、机を叩く音がした。栗毛の女性が起こしたものだ。
「ちょっと、脱線させないでよ! あんな大学生のテスト事情より、私の将来の話を聞いてよ!」
ショートカットの女性は、栗毛の女性の勢いにおされてか、
「わかったわよ。わたしの考えを話すわ。少々キツいことを言うつもりよ」
とつらそうな顔で答えた。
「あんなボンボンについて行くのはやめたほうがいいわ。私がいないと孤独になる、ってあなたは言うけど、孤独になるには孤独になるだけの理由があるの。それに、大事な契約書を簡単になくすような次期社長について行くなんて、見る目がない人のすることよ。わたしはあなたはそんな人だと思いたくないの」
英語のテキストを開いていたのだけど、あたしは思わず耳を立てて聞いてしまっていた。ここまで言うか? というレベルでズバズバ言う女性だなあ、と思っていると、
「酷い! あなたまでそんなことを言うのね! 最低!」
栗毛はそう金切り声を上げ、机に両手で隠すように顔を伏せた。すすり泣く声がする。
「この分からず屋! 勝手にしなさい!」
ショートカットの女性は、怖い表情で栗毛を見ると、そのまま勢いよく鈍い鈴の音を鳴らし、その場から出て行った。
「誰も彼の素晴らしさを分かっていないだけなのよ……。彼が契約書さえ見つけることが出来れば……」
栗毛の女性の声はだんだん鼻声となっていく。後片付けの身にもなってくれ……と思ったのだが、そういえば、あたしは仕事を上がったんだった、後は店長に任せればいいか、と現状を楽観視して、ノートに書かれているアルファベットに目線を向けた。
「そうですか。あなたはあなたのボーイフレンドが犯したミスを挽回させたいのですね?」
店長の声で、あたしは勢いよく顔を上げる。
店長の手にはお盆があり、栗毛の女性にカップを置いていたところだった。
栗毛の女性は顔を上げると、
「ええ。そうだけど……。そんなのことが可能だったら、今頃あの人はこんな風にバカにされていないわ」
目を真っ赤に腫らせながら、小さく話す。
「もし、それが可能だったら、あなたはどうしますか?」
店長の金の目がキラリと光った。
「可能……だったら? そりゃ、願ったり叶ったりよ!」
栗毛の目線は店長に向けている。
「ボクは人間の願いを三つだけ、そう三つだけ叶えることが出来ます。どうしますか? 叶えますか?」
店長は冷たい笑みを作った。あたしの背筋も凍る。
「本当に叶うのね? なにか代償でもあるのかしら?」
栗毛は勝ち気な目をする。
「いいえ。お代はそのコーヒーだけでいいですよ」
店長はますます冷たい笑みを作る。あたしは店長に淹れてもらったブレンドを飲んだけど、寒さは一向に消えなかった。
「そうね。どうせ叶いっこないのは分かっているけど、やってみるなら、なってみなさいよ。彼が犯したミスを彼自身で挽回させて頂戴」
女性は指を絡め、店長を仰ぎ見る。
「わかりました」
店長はそう言うと、軽やかに指を鳴らした。
★
「ひびきさん。小テストはどうでしたか?」
食器を洗っているとき、突然店長からの質問が来た。あたしは驚いてしまって、カップを割りそうになる。
「ひびきさん。食器は大事に扱ってください」
「店長が驚かすからですよ。びっくりさせないでください」
あたしは不満を漏らす。
「で、どうだったんですか?」
店長はあたしの不満に気にする様子もなく、再び尋ねる。
「五十点満点中三十九点でした」
「惜しいですね。あと少しで八割だったのに」
なにが惜しいかよく分からないな、と苦笑いをしていると、鈍い鈴の音がした。来客だ。
「ボクが出ます。ひびきさんは洗っててください」
店長はそう言うと、表へと出た。
店長とお客の会話だけがここから聞こえる。
「店長さん。この前はありがとう! おかげでなくした契約書を彼が見つけて、会社の騒動は一段落したわ。本当に叶うのね。素晴らしいわ!」
女性の楽しげな声が聞こえる。会話の内容から、前来た栗毛の女性のようだ。
「それは良かったですね」
どことなく店長も楽しそうだ。
「でもねえ……」
女性の声は暗くなっていく。
「あんな大事なモノをなくすやつなんて、役員から辞めさせろ、だなんてでてね。もっとあの人を感謝してあげてもいいのに、って思うのよ。ってことで…」
女性は言葉をいったん句切って、大きく深呼吸する音が聞こえたかと思うと、
「お願い! みんな彼を感謝するようにして!」
という女性の叫び声が店中に響き渡った。
はあ? なに考えているのかしら! 「店長のお客」は「身勝手な人は多い」けど、いつも以上に身勝手すぎる人だわ! と憤りを感じる。
しかし、店長はそれを気にすることなく、
「はい。わかりました。叶えますね」
と一言だけ言った。指を鳴らす音がした。
★
日曜日の朝のこと。
「店長! 今日、仕事入れられません!」
「でも、来ているじゃないですか?」
あたしの切羽詰まった姿に店長の目は点になっていた。
「家だと、弟たちがうるさくって、レポートどころじゃないんですよ! 英語のレポート! 英語で書くの、マジでしたよ! もう死ぬレベルで!」
「ひびきさん。そんなので死なれたらたまりませんよ。つまり、ここでレポート書かせてくれ、ってことですよね?」
「さすが、店長。話が早い! んじゃ、ドリンク頼むので、コンセントと席、借ります!」
あたしは店長が頷く前に、一番奥のカウンター席に座った。そしてリュックサックからノートパソコンを取り出し、コンセントを差し込むと、電源のスイッチを押し、OSを起動させた。
店長をチラリと見た。あたしの二つ隣に座ったかと思うと、ローカル新聞を読んでいた。
ネットの英和辞典とネットの翻訳機能を借りながらのレポートはもうこりごりだ、二度とやらないと思いつつ、少しだけ進んでいた。
「喫茶がじぇっと」で最近導入したWiFiの恩恵を一番受けているのはあたしではないだろうか。「心理学の在り方とは?」というあまりにざっくりしてて、ふんわりとしたテーマについて、日本語でさえ書くのがキツいテーマなのに、英語でのレポートだともっと難易度があがる。確かに今はネット翻訳機能があるから便利っちゃ便利だけど、明らかにそのまんま機械翻訳は、先生にバレると思うので、大半は自力で書いている。
あたしは大きく背伸びをした。パソコンの時計を見ると一時間経っている。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、ネットサーフィンしようかな、と邪な気持ちが湧いてきた。検索エンジンのニュースの欄をクリックし、芸能記事を読みはじめた。
のんきに好きな俳優の次の映画の記事を読んでいたら、
「ひびきさん、すごく余裕ですね」
店長があたしの真横にいた。あたしはすごく驚いて、あらぬところをクリックしてしまう。
「そんなに驚かなくても良いのに」
店長は咳払いをする。
あたしは店長を恨めしそうに睨み、パソコンの画面を見る。
そこには、地元の経済面が載っていた。従業員が機械の不良か何かで事故ったという不祥事でその会社は経営がガタガタという記事だった。
「ボクも今、この記事を読んでました」
店長は足を組み直していた。
突然、女性の泣き声と共に、鈍い鈴の音が激しく鳴った。
「店長さあん……。最後の願い、あるわよね?」
いつかの栗毛の女性がつけまつげが落ちたボロボロの化粧で店長にすがりつく。
「はあ。一体何があったのでしょう?」
店長は栗毛から離れると、腕を組んだ。
「あの人の会社が倒産しそうなのよ! 部下が勝手に起こした事故が不祥事って、新聞に書かれて!」
女性は両手で顔を覆うと、大人げなく大泣きした。
「もしかして、この会社……でしょうか?」
あたしは恐る恐る自分のパソコン画面に映るネット記事を見せる。
女性は一瞬顔を上げ、頷くと、再び子供のように泣いた。
一時間ぐらい泣いていたように見えたけど、パソコンの時計はたった十分しか進んでいなかった。
全く、こんなことになるんだったら、息抜きなんてしなきゃよかった、と思っていると、
「だから、最後の願いを叶えて欲しいの。あの人の会社の経営状況を良くして欲しいのよ」
女性は目元を吹くと、店長をまっすぐ見た。
あたしはいてもたってもいられなくなって、
「ねえ、それで本当に良いのですか?」
と栗毛の女性に聞いてしまった。
「どういうこと? 私の願いよ。私の勝手でしょう!」
栗毛はあたしを睨む。
「自分の願いを他人の幸せのために使うのって、なんかもったいなくないですか? せっかくの自分の願いですよ。自分のために一個ぐらいは……」
言いかけたあたしの言葉に、栗毛の女性はかぶせるように、
「あの人の幸せは私の幸せなの!」
と金切り声でキレる。怖くなって、もうあたしは何も言えなくなった。
「まあ。落ち着いて。あなたの願いは……あの記事の会社の経営状況を良くすること、ですか」
店長はあたしの気持ちを知ってか知らずか、まるで物語を語るかのように、目をつむり頷く。
「ええ。そうよ。私の願いはあの人の会社を良くすることなの!」
「分かりました。では、叶えましょう!」
イヤな予感がしたので、本心では止めたかった。でも、もう店長は指を鳴らしていた後だった。
★
なんとか英語を含むレポートやテストはすべて終わった。結果はまだだけど、多分単位はすべて取れたと思う。
そういう希望的観測を持って、あたしはのびのびとバイトにいそしんでいた。
店長の指示でテーブルを拭いていると、鈍い鈴の音がした。来客だ。
あたしは顔を上げ、
「いらっしゃいませ!」
と笑顔を向ける。
「この前はごめんなさい。二杯分払うわ」
そこにはいつかの黒髪のショートカットの女性がいた。
ルイボスティを女性のいるテーブルに置き、ごゆっくりしてください、とお辞儀をし、次の仕事はないか、と店長の指示を仰ごうとしたときだった。
ショートカットの女性に腕を捕まれた。
「ねね。ここって願い事を叶えてくれる人がいるんだって? それって、キミ?」
女性はあたしの耳元にささやく。
「あたしじゃないです。店長ですよ。呼びますか? ブレンドを注文したら叶えてくれますよ」
あたしはややイライラしながら答える。
女性は首を振り、
「違うわ。ちょっと面白い話を聞いちゃったから。この前のわたしの連れの話を聞きたい?」
女性はルイボスティを一口すすると、
「聞きたくなくても、話すわ」
女性は悲しげな顔をした。
「ここでいろんな願いを叶えてもらったみたいね。風の噂で聞いたわ。あの人の失敗をなかったことにして、とか、みんなあの人を尊敬しなさい! とか、あの人の会社を良くして! とか……。すべてうまくいっていたから、本当に願いを叶える力ってあるのね。びっくりしたわ」
少しずつ微妙に違っているけど、訂正するのはめんどくさいので、あたしは静かに頷き続ける。
「でね。ここから傑作なの! 突然会社の経営状況が良くなったら、あの男、女遊びが激しくなってね……。彼女ね、フラれちゃったの。しかも、もっと悪いことに、その男、風紀的な法律がアウトなお店に入って、しかも丁度運が良いのか悪いのか、警察の摘発にあってね、今は檻の中よ」
ショートカットの女性の口元は笑っていたが、目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「わたし、今でこそOLだけど、心理学を志したのは、幸せってなんだろうな、ってあの子を通じてずっと考えてきたからなんだよね。まあ、大学レベルの心理学じゃ分かるものじゃなかったけど、ここに来たおかげで分かったことがあるの」
ショートカットの女性は深く目をつむって、大きく見開くと、
「他者の幸せを願っていても、イコール自分の幸せにはならないってことよ。他者は他者。自分は自分。それぞれがそれぞれに幸せを追求しないと、こんな風に破滅に陥ってしまうわ。これからもきっと」
女性はルイボスティをもう一口すする。
「ああ、しょっぱいわ」
女性の頬はぬれていた。
ショートカットの女性が空けたカップを洗っているとき、店長は冷たい声で、
「確かに幸せは他人が作るものではないですが……。そうなると、ボクの存在はどうなるんだろう、って少し考えてしまいました」
と、遠いところを見ていた。
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