シークエンス3「嫉妬」

 あたしは喫茶「がじぇっと」の奥にある台所の流し台でひたすらに砂糖で焦がした鍋と十五分ほど格闘していた。

 やっとのことで鍋に鈍い輝きを取り戻すことができると、首や腰を回す。同じ体勢でずっといると、腰や首にくる。

 あたしはカウンターから顔を出し、

「店長! 洗い終えました」

 と店長を呼ぶ。しかし、返事がない。

 店内を右へ左へと見回すと、椿黒の癖毛にボーンチャイナのような白い肌、そして人間味を一切感じられない金の瞳を持ったここ「がじぇっと」の店長で願掛けの神様――小夜鳴カナタはお客と談笑していた。

 あたしはカウンターから出て、二人に近づく。

「あっ。岩沢さん!」

 お客を見て、あたしは思わず声をあげた。

「あら、花都さんじゃないの。最近サークルに来ないけど、どうしたの?」

「ん? おふたり、お知り合いですか?」

 店長はあたしの顔と痩せたオバサン――岩沢温子の顔を交互に見る。

「ええ。あたしたち、カメラサークルのメンバーなんです」

 あたしは自分の電話をポケットから取り出し、何回か操作をする。

「これです。もう半年前ですけど」

 あたしは画面に映ったカメラの講習会の集合写真をを店長に見せる。

 地毛である明るい茶髪をいつものようにポニーテールにしているあたしとお客である黒いショートカットの痩せたオバサンがサークル参加者全員と並んでいる写真だ。

 店長はその写真をじっくりと見ると、

「まあ、ボクは深くは詮索しませんけど」

 店長は若干口角を上げた。

 岩沢さんはアイスコーヒーを音を立てて飲み干すと、

「ごちそうさま、店長さん。あなたの面白い魔法、楽しみに待っているわ。じゃあね」

 と言って、店から出て行った。ドアに着いた」鈍い鈴の音が鳴った。


「ん? 魔法……」

 あたしは岩沢さんの言葉が引っかかる。

「店長! もしかして、岩沢さんの願いを叶えましたね!」

 あたしは店長に突っかかる。

「いいじゃあないですか。ひびきさんには関係ないことですよ」

 店長はマネキン人形のような真顔でこちらを見る。

 店長の言葉がもっともらしく思えて、何も言い返せない。それでも、

「せめて、どんな願い事を叶えたかぐらいかは教えてくださいよ」

 店長は金の瞳であたしの顔を一瞥すると、

「生意気な女性がいるそうです」

「はあ。生意気な女性、ですか」

 店長の言葉にあたしは首をかしげる。

「そう。その生意気な女性は、自分より若いくせに自分より高い評価を受けているそうです。だから、ボクはその女性の評価が落ちればいいのに、という願いを叶えたんです」

「生意気な女性? そんな人、うちのサークルにいたかしら……」

 あたしは首を捻った。



 店長の言葉から三日後のことだった。

 あたしは今、ファミレスでドリンクバーのメロンソーダを啜っている。目の前には美しく長い黒髪をした切れ長の目の女性が生気のない顔でこちらを見てる。

 彼女はカメラサークルの四つ上の先輩で、日紡唄先輩だ。

 昨夜、唄先輩からちょっと会って欲しいという連絡が入ったから今ここにいるのだけど、さっぱりとした性格の先輩が悩むってどういうことなのだろうか。ということを、純粋な気持ちであたしは訊いてみた。

 先輩は、そんなことないわ、結構湿っぽいわよと一瞬だけはにかむと、すぐにまじめな顔をして、

「あのね、ちょっと今、いろいろと調子が悪いの」

 と俯く。

「調子って、どういう?」

 あたしは立ち上がり唄先輩の顔を覗き込む。先輩は、昨日のサークルのことなんだけどね、と言葉を一瞬句切って、

「明るさがおかしいの。自分では良い色が出た、と思っても、ローキーだったりハイキーだったり、極端に色がおかしいってみんな言うのよ。悪あがきで画面の色温度してもダメだった」

 椅子に座り直したあたしは、唄先輩から電話を受け取ると、画面に映った写真を何枚か見る。

 確かに明るさが無茶苦茶な写真ばかりだ。先輩のいつもの色ではない。

「自分ではちょうど良いと思うのよ。でも、ひびきちゃん、あなたはどう見える?」

 あたしは返事に困ってしまい、口すら開かない。

「そう。ひびきちゃん。それが返事なのね。ありがとう」

 唄先輩は目を押さえる。

「会計はしておくから、しばらく一人にさせて」

 先輩はそれだけ言うと、テーブルに顔を埋めた。

 帰り道、あたしは唄先輩に何が起きたのだろう、サークルに参加すれば良かったと考えながら歩いていた。

 駅前大通りの交差点で、ふと三日前の店長が叶えた願い事がよみがえってきた。

「もしかして! 生意気な女って!」

 あたしは慌てて、喫茶がじぇっとへ向かった。



「店長!」

 あたしは「がじぇっと」の扉を開いた。鈍い鈴の音がする。

「おや、ひびきさん。今日はバイトの日でしたっけ?」

 店長のとぼけた声にすぐツッコみたかったのだけど、すごい勢いで走ってきたため、息が乱れていて、言葉がすぐにでない。

「あら、花都さん?」

 店長の目の前には、岩沢さんが楽しげにグラスをストローで鳴らすと、岩沢さんは大きな声で高笑いをし、

「店長さん、いつもありがとうね!」

 と楽しげに手を振り、店を出た。


 やっとの事で息が整ったあたしは、

「て……店長! もしかして、二つ目の願い事も叶えたんですか!」

 あたしは店中に響く声で叫ぶ。

 店長はポーカーフェイスで、

「はい」

 とだけ答えた。

「いったいなにを?」

 あたしは店長に詰め寄る。

「生意気な女性はボクの力で無事スランプになったそうです」

 あたしは身勝手な願いに怒りで頭が破裂しそうだった。

「あー。それは、よかったですね。店長。でも、そのおかげで苦しんでいる唄先輩をどうするんですか!」

 あたしはあらん限りの声で皮肉を言う。

「唄……先輩ですか」

 店長はカウンター席に座り、頬杖をつく。

「ええ! 先輩、すごく悩んでいるんですよ。人を助けるために別の人を苦しめても良いんですか?」

 あたしは声が枯れるぐらい大声で叫ぶ。

 しかし、店長は、

「周りのメンバーはみんなその唄先輩を慰めたそうです。今日は調子が悪いんだね、って」

 とあたしの思いをスルーする。

「店長、話聞いているんですか?」

 訝しげな目で店長を見る。店長はその目線すらスルーして、

「それで、二つ目の願い、みんな才能溢れる私のほうを見て、っていう願いをボクは叶えました」

「はあ……」

 怒りが飽和状態になってしまって、もう渇いたため息しかでなくなってしまった。



 その六日後の近所のコミュニティセンターで行われるカメラサークルにあたしは久々に参加した。

 唄先輩を探すも、先輩は欠席していると幹事のオッサンがケラケラとノー天気に笑っていた。

 その軽さにあたしはイライラしてしまう。まあ、そのイライラをオッサンにぶつけても仕方がない。深呼吸をして怒りを静める。

 そのときだった。

 岩沢さんがピンクのカメラバックを担いで溢れんばかりの笑顔でやってきたのだ。

 その様子にもあたしは若干の怒りを感じる。ここでキレてもやっぱり仕方がないので、もう一度大きく深呼吸した。

「あっちゃん、素晴らしい写真を見せてよ」

「あっちゃん、いろんな写真技術教えてよ」

 岩沢さんの周りにはオッサン連中がまるでアイドルを囲むかのごとく、わらわらと集まってくる。 岩沢は満面の笑みで、

「ええ。良いわよ」

 とオッサン達に声かけする。

 あたしはその笑顔をにがにがしく睨み付ける。 岩沢と目線が合った。岩沢はしたり顔でこちらを一瞥する。

 今回の課題はテーブルフォトだったのだけど、フラッシュの電池を忘れていたのもあって、やる気が一切出ず、早々に帰ることにした。


 そうかといって、家に直接帰るのもなんか癪だった。このイライラを解消するため、駅前のカラオケ屋で三時間ばかり歌っていた。

 カラオケ店の自動ドアが開くと、夕方だというのに、ムッとした湿り気のある熱風が肌に当たった。

 橋を渡っているとき、ふと顔を外へ向けると、雲が一つもない空は深い青色になっていた。

 その空の光景にあたしは、思わずため息をつく。 一分ほど眺めていただろうか、我に返ったあたしは、カメラを構えた。

 しかし、だんだんと暗くなっていくため、どれだけ明るくすればいいのかとか悩んでいくうちに、空はだんだんと暗くなっていき、とうとう日没してしまった。

 あたしはため息をついて、カメラの電源を切ると、前を向き、橋を歩き始めた。

 橋のたもとにあるベンチへ顔を向ける。先輩がベンチでうずくまっていた。カメラのストラップが少し濡れている。

「先輩!」

 あたしは先輩に駆け寄る。

 あたしの声を聞いた先輩は顔を上げる。薄暗いけど、顔が赤くなっているのがわかる。

「恥ずかしいところ見られたわね」

 先輩は目元をこする。

「やっぱり、うまく撮れないわ」

 先輩は軽くせつなそうに笑う。

 あたしは意を決して、

「先輩、あたしが働いている喫茶店に行きましょう! そこにいけば、先輩の願いが叶えられます! 店長に叶えてもらいましょう!」

 と先輩の手を握る。

「願い……?」

 先輩は惚けた顔であたしを見る。それから先輩はあたしの手を振り払うと、

「願いって、そんな曖昧なものはわたし持っていないの」

 と強い意志をした目をこちらに向ける。

「わたしはね、願いじゃなくって目標を持っているの。目標に進むためには、努力をしなきゃね。今日もこうやってブルーモーメントを撮ってたのよ」

「ブルーモーメント?」

 あたしは先輩の言葉をリフレインする。

「日没後、十数分しか見えない空のことよ。百聞は一見にしかず。見てみてよ」

 先輩は目をハンカチで押さえると、あたしに先輩は自身の眼レフを見せてくれた。

 ディスプレイには濃紺がきれいな空が映っていた。オレンジ色の夕焼けと紺色の空のコントラストがきれいな写真もあった。

 あまりの美しい写真にあたしはため息しかでない。

「自信はあるんだけどね。でも、この自信が過信だったらって考えると恐ろしいの」

 先輩は再び目を押さえる。

「自信もって良いですよ! あたし、この写真すごく好きです!」

 あたしは素直な気持ちを先輩にぶつける。

「ありがとう。自信が戻ってきそうだわ」

 先輩は俯く。口角は若干上がっていた。

「私の夢を話そうか。隣、かけてよ」

 先輩はベンチの横にズレる。

 あたしは隣に座り、先輩にカメラを返す。

 先輩はカメラのストラップを首にかけると、大きく背伸びをして、

「わたしね、プロのフォトグラファーになりたいの」

 と照れくさそうに笑う。それから真っ直ぐ前を見据え、

「だからね、これぐらいのスランプ、どうにか打破しなきゃだめなのよ」

 真剣な声でそう言った。

 あたしは自分の高校時代になりたかった写真家の夢を思い出した。ホントは写真が学べる芸術大学に行きたかったのだけど、両親の反対を受け、気の進まない心理学科に進学した。

 今の勉強はそこまでつまらなくはないから、これでいっか、と半ばあきらめムードで勉強している。

「ひびきちゃん、訊いてる?」

 唄先輩の声で思考が脱線していたことに気がつく。

「話し続けるね」

 先輩は軽やかな声であたしに、

「誰かの力を借りて、夢を叶えたくないの。技術を教えてもらうのはいいけど、夢を叶えるために誰かのコネとか使いたくないわけ」

 と微笑みかけた。

 あたしは先輩の正々堂々な姿が日がとうに暮れているというのに、とても輝いて見えた。



 それから一週間後のカメラサークルのこと。

 岩沢さんがプロの写真家として、活躍し始めたということを受付にいるオッサン連中が軽やかに話題にしていた。

 今週のバイトのときに、店長が岩沢さんの願い――プロの風景写真家になりたい。なれれば、なんだっていい――という願いを叶えたというよくわからない報告を受けていたから、こうなることは予想済みだっただけど、実際にその話題を聞くと、唄先輩のことを思い出してしまって、苦しくなる。

 ぱらぱらと埋まっている座席のうち、あたしは一番右端の席に座って、なんとなくカメラの設定をガチャガチャといじっていた。突然、コミュニティセンターの出入り口のところで、歓声があがる。

 あたしは立ち上がるのがめんどくさくって、立ち上がらず、上半身だけを後ろへ振り返る。

 中に入ってきた岩沢は憎々しいほど気持ちが良い笑みを振りまいていた。

 岩沢のその姿を見たあたしは、苦々しく左親指をかんでしまう。

 前を向いて座り直すと、幹事のオッサンが前でプロジェクターとスクリーンの調節をしていた。

 それから三分ほど経った。プロジェクターの調節が終わったらしい幹事のオッサンはすべての窓の遮光カーテンを閉めた。

 幹事は暗くしますよ、と言ってスクリーンの真横にある明かりのスイッチを切る。スクリーンにはコンピュータの画面が煌々と映し出されていた。

「今日はうちのサークル出身でプロの写真家、岩沢温子さんをお呼びしています!」

 拍手喝采の中、岩沢は満足げな顔でスクリーンの前に立つと、

「今日は、風景写真のいろはについてです」

 と偉そうなしたり顔でレーザーペンを取り出した。

 あたしは、この茶番にアホクサ、としか思えなくなったので、机に溶けてそのまま寝てしまった。


 あたしは元々まじめにカメラサークルに参加してなかったけど、これを機に本気でやめようかな、と薄ぼんやりと考えるようになっていた。


 件のサークル活動から二週間が経った。

 あたしはカメラサークルについてすっかり忘れ去っていて、「がじぇっと」でのバイトに精を出していた。

 今、お客がいないため、店長はゲスイ週刊誌を広げ、真顔で読んでいた。あたしは自分の電話でニュースを読んでいた。

 ある記事のページを開いたとき、

「あ」

 と、あたしは思わず声を出してしまう。

「どうかしました?」

 店長は週刊誌を閉じ、あたしの方を見る。

「あ……。いや。岩沢さんの作品に盗作疑惑があるっていう記事を見て……」

「ああ。そのことですね。この雑誌にも載っていました。『流星のごとく現れた新進気鋭の風景写真家、岩沢温子の疑惑の写真』って」

 店長は頭を掻くと、本当に盗作かどうかはわかりませんが、と言葉を句切った後、

「プロの写真家になることだけを願ったんですからね。それからの道は本人が切り開かなければならなかったのに、それを怠った結果がこれなのかもしれません」

 と言って、本棚に雑誌を戻す。

 そのときだった。

 鈍い鈴の音と同時に、店のドアが開いた。

「いらっしゃいませ」

 あたしと店長は同時にドアの方を見る。

「はーい! ひびきちゃん、来たよ」

「唄先輩!」

 そこには気持ちの良いぐらい素敵な笑顔の唄先輩がいた。

「ひびきちゃんがここでバイトしているって、風の噂で聞いてね。来ちゃったわ」

 唄先輩は、ドアに一番近い二人掛けの席に座ると、

「ひびきちゃんに一番最初に報告しなきゃいけないな、って思って来たの」

 楽しげな声で、店長にアイスカフェオレを注文した唄先輩は、

「わたしね、広告会社に就職することになったの。カメラマンとしてね」

 と言って、満面の笑みを浮かばせる。

「えっ。じゃあ……」

「そう。写真で食べていけるのよ、多分ね」

 あたしもテンションが上がり。

「すごい! すごいじゃあないですか!」

 と黄色い声を出してしまう。

「おめでとうございます」

 アイスカフェオレを持ってきた店長はうっすらと口角をあげている。

「店長さん。ありがとうございます」

 唄先輩は店長の顔を見て、微笑む。

「頑張ったかいがあったわ! もちろん、これからも頑張るけどね!」



 唄先輩が会計を済ませ、店を出た後、店長はさみしそうな目であたしを見る。

「どうかしたんですか?」

 あたしは店長のつらそうな金色の瞳を見返す。

「誰かの足を引っ張ったって、なにもならないんだな、って思いまして。誰も嫉まず、自分のできることを増やしていって、夢を叶えた方が良いんですね」

 と言って、目をつむった。

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