第8話 桜の木の下で

「来年の今月今夜、この桜の木の下で待ってるよ」

 ここは「熱海の海岸」ではなく、支流の河川敷に続く桜並木道である。

 楠木陽一は握りしめた神田香織の手を離し、笑顔を見せながら約束を交わした。

 付き合い始めてちょうど3年が過ぎた。楠木陽一は都内の電子機器メーカーへ、神田香織は名古屋のアパレルメーカーへと就職した。

 また明日からそれぞれ新しい街での生活が始まる。同じ大学のサークルで知り合ってから少しずつ二人の距離は近付いていった。出来ることならば二人の就職先が近ければと願っていたが、二人が希望する業種と試験の結果は残念ながら恋愛は優先されなかった。

「新幹線に乗れば2時間もかからない、途中で落ち合えば1時間も掛らない。距離はあっても時間は短いさ」と自分にも納得させる様に陽一は香織に慰めの様な愛の誓いを口にした。

 4月11日の日曜日、人通りのない並木道には数本の街灯が灯り二人は最寄りの駅へと歩いていった。それから乗り継ぎの新幹線駅から東と西へとそれぞれの目的地へと列車に乗り込んだ。

 陽一は、4月1日の入社式を終えると配属先の自分のデスクへと向かった。すでに半月余りの研修も終えての配属先では早速取り組む研究課題を与えられた。

 昨今「不法残業」が取り沙汰され、会社側も建前上は「残業」を抑制しているが、あとは個人の能力次第とばかりに個人の責任にすり替えていた。

 5月の連休までは週末の2日間も休みが取れ、日帰りだったり泊まりがけをしながら、神田香織との中距離恋愛は続いた。

 しかし連休が終わると、楠木陽一の仕事はハードなものになってきて、残業は常々どころか、週末の休日出勤さえも当たり前の様になっていった。

 5月の連休から香織と会えたのは、いよいよ8月のお盆休みになってしまった。それでも時間があれば電話やメールのやり取りはしていたのでお互いの近況は理解し合っていたつもりだった。ただ久し振りに顔を合わすとお互いが妙な緊張感を抱き、まるで初めて出逢った時の様な羞恥心がくすぶった。しかしその感情はあの頃の浮き浮きとした楽しい感情ではなく、冷めたスープの様に後味の悪さが入り交じった違和感であり、二人の心に不協和音を軋みだしていた。

「じゃあまた都合を合わせて」と陽一が手を振り二人は別れた。

 そんな二人のすれ違いは、おのずと破局を迎えることになった。思い出せば、あの3年間は毎日のように顔を合わせ、とりとめのない会話を楽しんでいた。あれが「青春」だったのか、時間に追われることもなく明日のことなど考える必要がなかったあの日々が愛おしく蘇ってくる。

 社会人の現実は思っていた以上に厳しいものだった。「責任」という重しは体力よりも心に精神的な負担を虐げられていった。それでも一年間はあっという間に過ぎていった。

 今年もあちらこちらに桜の花が咲いている。

 今日は4月11日。ふと陽一は、あの一年前の約束の日を思い出した。

 ただ今夜は神田香織ではなく、別の女性との夜桜デートを約束していた。

 彼女の自宅は桜並木から電車で20分ほどの距離であった。

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短めに 冬野 周一 @tono_shuichi

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