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なんだか悔しくなって、朝の奇妙な出来事も頭から吹き飛んでしまった。今日は限界まで職員室に残って仕事をしようと決める。
小テストの採点をし、宿題のプリントを作り、授業計画を作っていると、時間はあっという間に過ぎていった。幸か不幸か、パソコンを睨み続ける私に誰も声をかけなかった。
教材を作り終わった頃には職員室には私しかおらず、窓の外はもう暗くなっていた。時計を見上げると午後八時に十五分前。八時で校舎は自動警備に切り替わる。そろそろ出なくてはいけない。
職員室を施錠して、職員玄関に向かう階段を下りる。廊下は蛍光灯がついているとはいえ薄暗く、校舎はもう人の気配がなかった。
階段を下りるとその先がすぐに職員玄関で、横には事務室がある。事務室には明かりがついているが人気がない。一人残っている警備員は、校舎の戸締りに回っているのだろう。
私は玄関の横、職員用のロッカールームに、下足を履き替えようと入ろうとした。
そのときだった。右の廊下の奥に気配を感じて振り向いた。息を呑んだ。
暗い廊下の奥に、一人の少女がこちらを向いて立っていた。
蛍光灯に照らされているものの、顔が陰になって容貌はわからない。おかっぱの髪、白いブラウスに、色はわからないが深い色の吊スカートを身に着けている。足は裸足だった。
彼女を見た瞬間、ぞわりとした怖気が背中を走った。格好に何もおかしいところはない。だがすぐに理性がその根拠をとらえた。明かりに照らされた少女の足元と手先。
肌が真っ黒なのだ。
墨汁で塗ったように真っ黒だった。人間ではありえない黒さだ。
少女はすぐに背を向けて、廊下の奥へ走り去った。
懐中電灯片手に、警備員がちょうど階段を降りてきて、私は安堵からその場に座り込みそうになった。
「京子先生じゃないですか。どうしたんです」
警備員は三十そこそこの男性だ。そこに女の子がまだ残っていて、廊下の奥を行ったと切れ切れの息で伝える。常識が、少女の身体が黒く見えたことを言わせなかった。
「わかりました。見てきます」
一人残されるのは心細かったが、少女が消えた廊下の先は特別教室が二つあるだけの行き止まり。すぐに見つかるはずだ。
警備員は小走りで廊下の奥へ消えた。五分ほどして警備員が戻ってきたが、その顔は曇っていた。嫌な予感がした。
「教室中を隈なく探しましたが、誰もいませんよ。見間違いじゃありませんか」
そんなはずはない。だが自分で探しに行く勇気はなかった。もう一度確かめてもらおうか、それとも見間違いと認めて帰ろうかと迷っていたら、警備員ははっとした顔をした。
「京子先生でしたよね。ひょっとして……どのクラスをお持ちですか」
「四年三組です」
警備員の顔が紙のように白くなり、何かに耐えるように唇が固く閉じられた。
「あの、それが、何か」
「まあ見間違いだったんでしょう。さあ気をつけて帰ってください」
目を泳がせながらそう言って、ロッカールームへ導こうとする。拒めば強引に押し込まれそうな必死さにこちらも狼狽する。
下足に履き替え、追い立てられるように玄関を出た。速足で駐車場に向かい、自分の車に乗った。ルームライトをつけてバッグから麦茶のペットボトルを取り出し一口飲んでラジオをつけた。おなじみのパーソナリティが、最近はまっている健康法を紹介していた。
自分の車に戻り、他愛ない話を聞いていると気持ちが落ち着いてきた。そう、さっきのはきっと見間違いだ。遅くまで仕事をして疲れていて、暗い校舎に一人だったから心細かったのだ。条件が重なって私の脳が見せた幻想だったのだ。
けれど問いは残った。
私が四年三組の担任であることが何だというのだろう。
疑問を抱えたまま、私は車を発進させた。
パーソナリティが夏定番のヒット曲をコールする。私はラジオの音を高くして、校庭沿いの車道をゆっくりと走らせた。山間の道には人気も車もなく物寂しい。無理に慣れない鼻歌を歌いながら角を曲がると、校舎脇の藪にさしかかった。
そういえば、連日煙が出ているのはどこからなのだろう。他に車がいないので徐行して眺めてみる。
煙が出ているかどうかは、空が暗くわからなかった。しかし、藪の奥へ入る小道があるのを見つけた。私は迷わず車を止めた。
さっきまで激しい動悸が収まらなかったというのに、どこにそんな勇気があったのか自分でも不思議だった。だが気になり始めると止まらない。納得のいく説明が欲しかった。スマートフォンのライトをつけて懐中電灯代わりにすると、車を降りて小道に分け入った。
周囲は夏草が茂っていて、誰かが熱心に管理しているとは思えなかった。学校の敷地なのだろうか。草をかき分けて奥へと進んでいくと、目の前に現れたのは古さびた小屋だった。屋根には煙突がある。
焼却炉だ。
理由がわかってほっとした。夏草を踏み潰しながら、小屋の周りをぐるりと回ってみる。小屋に窓はなく、唯一の入口は引き戸になっており、古びた南京錠で閉ざされていた。錠をよく見ると、栓の部分に細かい擦り傷がたくさんついていた。
鍵がかかっているのに、誰かが力ずくで何度も扉を開けようとした……?
そんな想像が脳裏をよぎって、なぜか薄ら寒くなった。駆け足で車へ戻り、まっすぐ家へ帰った。
「先生、ぼく抜かされました」
健康観察。どうしても誰か抜かしてしまう。
飛ばす児童はその都度違い、規則性は見出せずにいた。さすがに子どもたちは怪訝そうな顔を隠さないようになってきた。
今日の五時間目は学年集会で、体育館でリクリエーションをすることになっている。各クラスの活動係が催しを決め、一時間彼らに行事を運営させるものだ。行事はバスケットボールに決まっていた。この集会の設定も、本来は学年担当三人で詰めるところを、いつのまにか先輩と主任の二人で話がついていた。私は自分のクラスへの移動指示と体育倉庫の開錠だけすればいいと後から知らされた。
昼の休み時間のうちに、児童たちに体育館へ行くよう告げる。だがまだ給食を食べ終えていない児童もいた。フミヤがぽつんと席に残って給食と格闘している。声をかけようと近づくと、皿にはミニトマトが五つほどあった。
「フミヤくん、こんなにミニトマト持ってるの。どうして?」
フミヤはストローから口を離してぶつぶつと答えた。
「コウジとか、いろんな人からもらったんです」
「トマト好きなの?」
「はい」
フミヤはトマトが好きだっただろうか。そんな印象はない。そもそもフミヤは給食をあまり食べないのに、人から進んでもらうだろうか。給食の時間は教室を離れて別の仕事をしていた時間があったため、その場面は見逃していた。
「コウジくんがトマト嫌いだから、フミヤくんにあげたんじゃないの?」
「そんなことないです」
淡々とした返事。フミヤの性格では、強引に嫌なことを押し付けられてもおかしくない。深く尋ねないとまずいと思ったが、時計を見ると五時間目開始まで十分を切っている。フミヤが食べるのを邪魔してもまずいし、体育倉庫の鍵を取りに行かねばならない。今度この二人の関係はしっかり見ておこうと思い、後ろ髪を引かれつつ事務室へ向かった。
事務室に入り、鍵入れから体育倉庫の鍵を探す。そのとき、いつもは存在を意識しなかった鍵に目が留まった。
それは他の鍵と違って小ぶりで、長く使われていないのか錆で薄汚れていた。吊られた鍵の上には『焼却炉』と書かれたシールが貼ってあった。
体育倉庫の鍵を取ると、ほんのついでというように、通りかかった事務員に声をかけた。
「この学校に焼却炉なんてあったんですね」
事務員が足を止める。固い笑顔だ。
「ええ、まあ。でももう使われてないですから、気にしないほうがいいですよ」
そう言うと、書類を取ってそそくさと部屋を出て行ってしまった。
「気にしないほうがいい」とは何だ?
釈然としない思いで、体育館へと向かった。
体育倉庫を開け、集まり始めた児童たちを整列し座らせていく。前から人数を数える。
一、二、三……四十、四十一。
なんだろう。もう慣れてきた。
平然と確認を終える。
主任と泉美先輩のクラスも揃い、学年集会が始まった。主任の全体への講話の後、各クラスの活動係が前に出て説明を始める。ルールの確認。準備すべき道具。チーム編成。説明を終えると、みんなで準備を始めるよう指示が出された。
体育倉庫へ行こうとする子、コートの持ち場に着こうとする者、放送機材へ向かう者、それぞれ持ち場へ歩き出す。児童たちが入り乱れざわつくのを見ていると、ふと、私は悲鳴を上げそうになった。
白いブラウスに紺の吊りスカートの少女が歩いていた。横顔も手も脚も塗りつぶしたように黒い。生徒たちの中に姿が見えて、次の瞬間にはいなくなっていた。授業の最初に集合したときにいなかったはずだ。いや、もう確かなものなんてないのかもしれない。何も信じられない。
私の様子を見て、泉美先輩が心配そうな目を向けてきた。我に返って、子どもたちがうまく仕事ができているか体育倉庫へ確認しに行く。
倉庫の傍では、もうバスケットボールを取り出していたコウジがフミヤにボールを投げていた。それはパスというにはあまりに乱暴で、フミヤはボールを捕らえきれず、ボールはフミヤの足にぶつかって転がっていった。ここは見逃すべきではない。声を上げて注意しようと息を吸った。だが声が出なかった。
また、いた。
体育館の入口にあの少女がひとり立っているのが見えたのだ。首から上、顔も唇も真っ黒だった。無表情だが、目はしっかりと私をとらえて離さない。
私はその場でしばらく動けなかった。その間、少女は無表情で瞬き一つせず、数秒の後廊下へと走り去った。
思わず私も入口めがけて走り出す。児童たちが私の突然の行動に驚き声を上げた。体育館の入口を過ぎて、右に折れた廊下を曲がる。
曲がった先には、少女の影はもうなかった。
「京子先生!」
振り返ると泉美先輩が私の後を走ってきていた。
「いったいどうしたの?」
先輩が不安げに尋ねる。
いったいどうしたのか? それは私が訊きたいことだ。
「女の子がいたんです。黒い女の子が。先輩は見えなかったんですか?」
「京子ちゃん。大丈夫だから。気を確かにもって」
先輩の目には、心配と悲しみがあった。
おかしいのは私なのか? 私が何か悪いことをした? 私は突然感情を抑えきれなくなった。
「もう何がなんだかわからないんです。最近変なことばかり起こって、私がだめなの? 私がおかしいの?」
二人きりの廊下に私の声が響きわたる。震える私の手をとって、先輩が言った。
「……わかった。あたしの知ってること、全部話すよ」
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