煤と煙

遠野遠

「カブトムシとクモ、身体の部分にどんな違いがあるかな。気がついたことをノートに書いてみようか」


 そう言って私は教卓の教科書の折り目を広げた。窓から差し込む日差しは日に日に強さを増してきて、そろそろ日焼け止めを塗るべきかと考える。明日の体育は外でドッジボールだ。日焼け止めを塗っておかないと大変なことになる。教員である前に私は一人の女なのだ。


「先生、おれ、書けた」


 最前列のコウジが勢いよく手を挙げる。小学四年生にもなると積極的に手を挙げる子は少なくなるが、彼は身体も声も大きく、物怖じしない児童だ。

 彼の隣のフミヤを見る。彼はクラスで一番の成績だが、内気で友達も少なく積極性はあまりない。フミヤは書き終えているようだが、私と目をあわせまいと椅子の中で身体を小さくしていた。

 大学を卒業し、憧れだった小学校教員となって三か月。任されたのは四年生の担任だった。右も左もわからない中だったが、最近では児童たちの性格を考慮したうえで指名できるようになってきた。


「コウジくん早いね。けど、ちょっと待ってね。後から聞くからね」


 コウジはおもしろくなさそうに不満の声を上げた。他の子が書き終えるのを待ってから、指名する。


「はい、カブトムシはクモより硬い」


 教室に少しの笑いが起こる。予想の範疇の答えだ。一番手はこうでなくてはいけない。


「そうだね。身体の硬さはいきものを見るときに大事なところだね。他にはないかな?」


 コウジの発言で、周りの男子たちが話を始める。


「やっぱカブトムシのほうがクモより強いよな」

「クモは糸出して絡められるしクモのほうが強いだろ」

「いやクワガタが最強じゃね」

「俺の兄ちゃん、ヘラクレスオオカブト持ってる」

「まじで?」


 私は手を叩いて彼らを静かにさせると、いろいろな学力の子を指名していく。

「強い」「蜜を食べる」「木にすんでいる」「クモのほうが気持ち悪い」「色が灰色」。

 意見を黒板に書きだしていく。様々な意見が出そろったところで、私はフミヤを指名した。フミヤは居心地悪そうに、ぼそぼそと答える。


「カブトムシは身体が三つに分かれてるけど、クモは二つです」


 期待した答えだ。私は赤字で黒板に書き、教科書の見るべきページをクラスに示す。ここできれいに五時間目終了のチャイムが鳴る。次回の流れを予告して、授業を終わる。悪くない展開だったはずだ。



 帰りの会を終えて、職員室へと帰る。なまぬるい冷房だが、冷房のない教室と比べたら天国だ。グラスに麦茶を注いで自席に座り、一息つくと、隣の席の泉美先輩が声をかけてきた。


「京子ちゃん、三組のキュウリ、いいのがなってたよ」


 本当ですか、と思わず声が弾んでしまう。クラスで初めての草花育て。うまくいくか私自身も不安だったのだ。目で「やったじゃん」と合図をして、先輩はファイルを片手に慌ただしそうに職員室を出て行った。これから部署の会議のようだ。

 

 泉美さんは二組の担任で、私より二つ上、私を除けば一番の若手だ。ショートヘアで顔が小さく、いつも忙しそうにしゃかしゃかと動き回る姿は少年を思わせる。てきぱきと仕事を片付けるだけでなく、この学校で唯一の新任である私によく気を回してくれる、頼れる先輩だ。

 職員室の隅、奥の机の向こうの畑野主任が顔をほころばせている。


「学年で一番なったのが早いのは、もしかして京子ちゃんのところかな」


 畑野主任は一組の担任で、学年の主任でもある。温厚なおばさんという風貌だが、教室では暴れん坊の児童たちをビシリと抑えつけ、会議室では笑顔で無理筋の要求をかわしたり甘い意見にゆるりと突っ込んだりと、手練れの貫禄がある。


「我々先輩をさしおいて抜け駆けとは。こりゃ三年後には校長になっちゃうな」


 そう言って、いたずらっぽく笑ってみせる。私は「そんなつもりじゃないですよ」と笑って返すと一日教室で話し続けた喉を麦茶で潤し、スリープ状態だったパソコンを叩き起こした。

 研修の課題を作らなくてはいけないし、子どもたちの夏休みの課題も決めなくてはいけない。慣れないことも多いけれど、先輩たちはみんな驚くほどやさしく、仕事にはやりがいがある。大きく伸びをして、やるぞ、と呟く。

 文句のつけようのない毎日。このときは、そう思っていたのだけれど。



 翌日の朝、早めに教室へ向かった。時間が早いので、教室に来ている児童は二、三人しかいない。それぞれに声をかけてから、鉢植えの様子を見ようとベランダに出た。全員が熱心に育てているとは言い切れないけれど、枯れているものはないし、育ちは悪くない。朝の会でキュウリが実ったことをみんなに報告しよう。

 朝の会の台詞回しを考えながら、何気なく手すりの向こうへと目を向けた。すると、あまり見慣れないものが見えた。

 この小学校は小高い丘にあり、校庭の奥はちょっとした藪になっている。

 藪の上に、細い煙が上がっていた。赴任してからこんな光景は見たことがない。三階の高さからでは藪の奥を見通すことはできないので、想像するしかなかった。近くには民家があるので、きっと焚火をして、ごみでも燃やしているのだろう。



 その後、登校してきた児童たちと話したり、教室の整理をしていると、あっという間に朝の会の時間がやってきた。子どもたちを席につかせて、教卓に出席簿を広げる。出席確認と健康観察だ。一人一人名前を呼んで、健康状態を答えさせる。見渡すと空席はない。四十人全員が遅刻せず出席している。


「はい、げんきです」「はい、かぜぎみです」「はい、げんきです」


四十人全員の名前を呼び終えて出席簿を畳もうとしたとき、コウジの声が飛んだ。


「先生、オリハラだけ呼んでません」


 はっとして出席簿を開く。出席していて「げんき」な子には印をつけないことになっている。オリハラさんのところには何もついていない。


「あれ、オリハラさん。先生、呼ばなかったかな」


 体育が得意で飄々としている彼女は、平然とした顔でうなずいた。クラス全体に目を向けると、大半が不思議そうな目で私を見ていた。気づかなかったが、彼女だけ飛ばしていたらしい。


「ごめんね。先生、うっかりしてた」


私は彼女に謝って、健康観察を終えた。



 その日の一時間目、ふと外を見ると、たなびいていた煙はなくなっていた。授業は滞りなく過ぎていった。

 二限目はグラウンドで体育だ。一限目を終え、時間通りにグラウンドに集まるよう言い残して教室を出る。更衣室でジャージに着替え、今日は日焼け止めをきっちり塗り、目を細めながら外へ出た。

 児童たちを校庭に整列させ、点呼をとる。前から一人ずつ、数を数えながら座らせていく。


 一、二、三、四……三十九、四十、四十一。


 ……あれ?


 四十まで数えたのに、一番後ろのヨシダさんが立ったままでぽかんとしている。人が足りないのならまだわかる。しかし人が増えるのはおかしい。他のクラスの子が時間割を間違えて混ざってしまったのだろうか。なかなか考えづらいことだが、万が一ということもある。

 「ちょっと先生、何してんのー」児童たちが騒ぐ。児童たちをもう一度立たせて、同じように点呼をとった。今度は一人ずつ顔を確認しながら、慎重に。


 一、二、三、四……三十九、四十。


 今度は全員が座った。私の数え間違いだったのだろう。今朝の健康観察といい、少し疲れているのかもしれない。しっかりしなければ。自分に言い聞かせて深呼吸をし、外周の指示を出した。

 校庭越しにふと藪のほうを見ると、木々の上空に、また煙が一筋立ち上っていた。



 その日はそれから、つつがなく授業を終えた。たなびく煙についてはなんとなく気にかかっていたが、体育の時間以降見えることはなかった。あれから人数を間違えることもなかったが、そもそも人数を数える機会はそれきりだった。

 放課後職員室に戻るとちょうど和泉先輩と畑野主任が自席で茶菓子を食べていた。主任は饅頭、和泉先輩はポッキーだ。

 私も自席に座ると、世間話に今朝の話をしてみることにした。


「こんなに何回も人数を間違えるなんて、ちょっとどうかしてますよね、私」


 冗談めかして笑うと、二人の時が一瞬にして凍りついた。二人だけではない。職員室の私の周り一角が、ほんの一瞬時を止めた。主任がすぐに表情を崩して、


「京子ちゃんはきっと疲れてるのよ。最近研修に授業準備にと一生懸命だから」


 どこかベテランらしくない甘い言葉。続いて和泉先輩が固い微笑みで、


「そうそう。困ったことがあったら、なんでもすぐに相談してね」


 と重ねた。私は動揺していたが、文脈の不自然さは耳に残った。疲れているかもしれないという指摘を受けて『困ったことがあったら、なんでも相談してね』。微妙に飛躍があるような気がした。

 二人も周りの教員たちは沈黙から立ち直るとわざとらしく作業に戻った。饅頭を食べるのもそこそこに、主任はパソコンを立ち上げた。

周囲に違和感を感じ始めたのは、この日からだった。




「先生、トヨモト抜かしてます」


 翌日の健康観察で、私はまた一人を数えそびれた。狼狽を隠して謝る。児童たちはあまり気にしていないのが救いだった。窓の外を見ると、また藪の上に煙があった。毎日焚火をしているのだろうか。


 焦げ臭い……?


 ふと鼻先が異変をとらえた。窓は開けていないし、調理室を使う時間でもない。火事かと思いクラス中を見回したが、皆不思議そうな顔でこちらを見ている。


「ねえ、何か焦げ臭くない?」


先頭のコウジに尋ねてみるが、「え、別に」と不思議そうに首を振る。もし火事なら周りのクラスでも騒ぎになっているはずだ。

 この臭いを感じているのは私だけ?

 はっとして窓の外を見やると、また煙が流れていた。麻痺したような頭で朝の会を終わらせるとコウジに尋ねてみた。


「ねえ、窓の外のあそこに煙が出てるの、見えるよね?」


 コウジは笑って答えた。


「先生何言ってるの? 何もないよ」



 嫌な汗をかきながら、上の空で授業をこなした。ずっと窓の外を気にしていたが、それ以来煙が上がることはなかった。

 放課後、漠然とした不安を抑えきれず、職員室の自席で主任と先輩に、今度は煙の話をしてみる。


「昨日の朝から、校庭の藪の向こうで煙が細く上がってませんか?」


 またほんの一瞬、二人の顔から能面のように表情が消えた。


「あらほんとう? 私は気づかなかったわ」

「あたしも。誰か焚火でもしてるんじゃないかな」

「それはそうと、そろそろ保護者会の準備もしなくちゃね」


 強引に話題を変えられてしまった。職員室は藪に面していないので、今煙が出ているか確認できないのが惜しかった。


「保護者会の準備は、そうね。京子ちゃんは研修や授業準備で大変だろうから、私たちでやりましょう」


 話を進める主任に、思わず割り込む。


「いいんですか?」

「ええ。保護者会なんて何度もあるから、じきに嫌でも経験できるでしょうし。そうよね泉美ちゃん」


 先輩が無言でうなずく。確かに何度も経験できるが、保護者対応は責任重大だ。だからこそ今進め方を覚えなくてはいけないのではないか?


「あの、私も手伝わせてもらいたいんですけど」

「いいのいいの、私たちで大丈夫よ」


 本心からの言葉だったが流されてしまう。多忙を察して負担を減らしてもらえるのはありがたい。だが私は違和感を覚えた。

 私は仕事から外されている?

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