第3話 時空連続トマソン狩り(early access edition)

3-1

 夢のなかで炊井戸タクイド先輩に会った。彼女は一面泥を張った灰色の屋上にはだしで立っていた。僕もいつのまにかその場にいて、はだしだった。


 先輩は胸に大きな生き物を抱きかかえていて、ときおり、愛しそうにそいつの頭に頬をすりつけたり、あやすようになにごとかを囁いていた。


 僕が泥のぬかるみにちゃぽちゃぽと足を取られながらも先輩に近づくと、彼女は「やあ」とその生き物から顔を上げて言い、「遅かったじゃないか」とつづける。彼女の頬には、灰色の泥が半乾きでひっついている。いつも被っている学帽の鍔の先っちょにもすこしだけ。


 先輩が胸に抱えていた生き物は、カバの赤ちゃんだった。ぴこぴこと立ったかわいい耳に、つぶらな黒い瞳、そしてちょっと間抜けっぽく見える愛らしい顔と、湿った灰色の肌。どこに出しても恥ずかしくない、正真正銘のカバの赤ちゃんだった。


 それ、なんですか。僕はたずねる。


「泥から生まれるものがなんなのか、きみは知ってるかい」


 先輩は僕の質問を無視して言う。カバの赤ちゃんは大きな口をくわあっと開けて、あくびをした。


 カバの赤ちゃんもあくびをするんだなと感心していると、先輩は「泥はすべてをはらんでいるよ」といつものように、ゆったりとした、どこか浮世離れしているけれど確信を持った風に言う。


「ごらん」


 先輩が顎をしゃくると、もうそこはどこかの屋上じゃなくて、地平線の向こうまで灰色が広がる世界になっていた。


 地平線の向こうで、なにかが動いていた。ゆっくりと灰色に波紋が広がり、ずもももと湧き上がるように屹立し、そしてやがてそれはひとのかたちになった。泥の人たちはつぎつぎと生えてくる。そして、みな思い思いにあっちへ行ったりこっちへ行ったりしはじめた。


 あの人たちは? 僕がたずねると、先輩は「きみとおなじさ」と言い、「はいよろしく」と一方的にカバの赤ちゃんを押し付けてきた。


 困惑しながらカバの赤ちゃんを受け取ると、そいつは先輩が子犬や子猫を抱くようにしていたのが信じられないほど重く、僕は重さと驚きからその場に倒れこみそうになってしまった。


「しっかりね」と先輩に言われ、僕はなんとか踏ん張ると、両腕の筋肉にせいいっぱい力をこめて灰色のずんぐりしたからだを持ち直す。


「ちゃあんと持ってるんだよ」先輩はそう言うと空中にふわりと浮かんだ。だんだんと上昇していく。「じゃあね~」


 軽く言うと彼女はどこかへ飛んでいってしまった。


 カバの重さで僕はだんだんと泥に沈んでいく。でも、このカバの赤ちゃんを手放すことだけはどうしてもしたくなかった。気がつくと、遠くでうろちょろしていた泥の人たちがこちらを見、足を止め、そして明らかに僕の方へ向かってきていた。びちゃりびちゃりと足音をたて、統率のとれた動きで向かってくる。僕はこわくなってこの場から逃げ出したくなるけど、もうそれはできなかった。


 だって、この子を手放してしまったら、もう先輩は帰ってこないような気がしたからだ。


「でもきみは、わたしを手放したいんでしょう?」


 どこからか懐かしい声が聞こえてきた。あの人の声だった。炊井戸先輩の前に僕が出会って、そして僕の前から姿を消したひとりの先輩──フヒトベ先輩の懐かしい声が。


 気がついたら僕は腰まで泥に浸かっていた。でもこのまま、適度にひんやりとした泥のなかに沈んでしまってもいいかなと思う。



 そこで目が醒めた。



 うっすらと目を開けると、黒いものが目に飛び込んできた。どこか表面に光沢があって、すべすべとしていそうだった。呼吸に合わせてかすかに動いている。


「おはよう。キルシくん」僕の頭の上から、聞き慣れた声がおりてくる。「起きたんだろ?」


 ゆっくりと頭を上に向けると、肘をついて横たわった炊井戸先輩の顔がそこにはあった。微笑んでいる。


 僕はゆっくりと、ベッドの上でじりじりと後退して距離をとった。背中がひんやりとした壁にくっつく。先輩はそれにあわせ、もぞもぞと距離を詰めてきた。お互い、鼻息が吹きかかるほどに顔が近い。


「おはよ」と再度彼女は言う。先輩はこういう礼儀や挨拶に関しては若干うるさいのだった。


「お、おはよう、ございます……」僕は目を背けつつ言った。


 先輩はからかう気まんまんになったとき特有の、ひひ、という悪役みたいな笑い方をすると、なんだなんだ、ずいぶんとしおらしいじゃないか、とつづけた。


「いや、あの、やっぱり近いと恥ずかしいですし……」


「へえ。きみはおぼえてないのか」


「な、なんの話ですか」


「寝てるときは、こう──」先輩は黒いセーラー服に包まれた自分の肢体を、細い指先で官能的な演出でなぞりあげる。「強く、しがみついてたじゃないか」


 骨が軋むかと思ったよ。そう彼女は言って、ゆっくりと色気が込められたまばたきをした。挑発するように舌で唇をぺろりと湿らせる。でもそのタイミングはどこか微妙にずれていて、色気があるのにどこかちぐはぐだった。先輩もどこか恥ずかしがっているらしい。


 壁を押すように僕はまたにじりにじりと後退した。


「ほ、ほかになにか粗相などは……!?」


 真っ赤になった顔で問うと、先輩は「ん~?」と喉を鳴らし、「それ以上訊くのは、あまりおすすめしないな~」とわざとらしくはぐらかすと、これまたわざとらしく咳払いをして身を起こした。


 彼女が身を起こす直前、寝起きでぼやけた視界がだんだんと鮮明になるにつれ、セーラー服の胸元にぽつんとある黒いシミに気がついた。間違いなく寝ぼけて垂らしたよだれのあとだった。僕はますます申し訳ない気持ちになった。


「さ、朝ごはんでも食べようか」

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