2-28

「ハードシェルっていうのはさぁぁ――」対面に座ったトォタリさんがハードシェルのタコスを手で持ち、僕に指さして示す。「こっから食べんの。わかる? ん?」


 こうやってぇ――と言いながら端っこにかじりつき、ふぉうやってこうやってと口をもそもそ動かしながらまたかじりつき、ハムスターのようにしばらく無言で口を動かす。手持ち無沙汰になってしまったので、僕は自分のブリトーにかじりついた。スパイシーでジャンクな味付けのなかにわずかに感じる、こんがり焼かれたグリルドチキンとトマトの味が舌に広がり、溶けたチーズが伸びる。しかし、辛さをホットにしてしまったせいで、ヒリヒリとした刺激がすべてを押しつぶしてしまった。



 あのあと、物事はとんとん拍子に進んだ。



 宇宙まで伸びていた道路とドン・キホーテは元の場所にすっぽりといわないまでも同じ位置に着地し、駐車場にぎっしりと詰め込まれていた、真空パックに仮死状態で入れられていた人々の救出もできた(トォタリさんが言うには「鮮度が大事だからな」とのこと)。空から小さな揚陸艇がいくつも降りてきて、近未来路線のCODコール オブ デューティに出てきそうなアーマーに身を包んだ兵士たちがトォタリさんに敬礼したり、救護施設を投下して救助の引き継ぎをしたりしていた。


 着替えよっかと言うトォタリさんに連れられてまたドンキのなかに入る。こいつの最後の仕事だよ――そう言うと彼女は、ぐちゃぐちゃのごみ集積場のようになった店内を指さしたり手でかき混ぜる動作とともに逆再生させ、可能な限り復元させた。


 僕らはふたりでスプリンクラーのシャワーを浴びた。


「こういうときのために下に水着きてんだ」とトォタリさんは得意げに言っていた。「らくちんでいいんだよ」


 僕は陰の方にこそこそ隠れ、濡れてつるつるとした床に滑らないように汗や血を流した。はめ直してもらった左肩も、ヒールで蹴られた背中も、軽く火傷した場所も、あちこちが痛んだ。


 いーですよーと大きな声で言うと、僕にピンポイントにあたっていたスプリンクラーが止まり、ほぼ全裸のまま水着売り場の近くにあるバスタオルをそのまま手にとってからだを拭く。ふだん裸になってはいけない場所で裸になっている――そして、買ってもいない商品を勝手に使っている……そういったことが積み重なって、羞恥心と妙な背徳心がふつふつと沸いた。


 トォタリさんはどうするんだろうと思っていると、目のまえにかかっていたバスタオルが何枚かふわふわと飛んでいった。僕は適当に下着を物色し、適当なスポーツ用のハーフパンツとチャンピオンのロゴがプリントされたシャツを着ると、クロックスもどきのゴムサンダルを履いて、ぴちゃしぴちゃしと鳴らしながらトォタリさんのもとに戻った。


 彼女は浮いていた。


 地面から約10センチほど。垂直にふわりと浮き、そして水着は脱ぎ捨て全裸だった。両腕は広げられ、ただ伸びをしているようにも、天と対話するようにも、だれかからの救いを求めているようにも見えた。濡れた髪の毛からしたたる水が、きれいな背筋の表面をせせらぎのように流れていき、かたちのいいお尻へと向かう。


 僕は慌ててまぶたを閉じようとするけれど、なぜかそれができなかった。美しい彫像のようだったからだ。すけべ心がなかったかといえば嘘になる。でもそれ以上に、その後ろ姿からは王の威厳としか形容のできないものが発せられていた。


 指先から水浸しの床に、同心円状の波紋を広げつつゆっくり着地する。


 彼女は振り返り、僕を見た。その仕種も、視線も、いつものトォタリさんとはなにかが違っていた。アイシャドウが落ち、黒い涙のような軌跡を描いている。


 なにものにも覆われず放り出された大きな胸も、うっすらと腹筋が浮かんだお腹も、その下も――あまりにも堂々としている立ち姿は、見るものをたじろがせた。


 ゆっくりと歩を進め、向かってくる。空中をひらひらと飛んできた何枚かのバスタオルが、マントのように彼女のからだを覆っていく。


 僕は思わず片膝をついてを垂れた。王にはひざまずかなければ。本能がそう訴えていた。


 ぴちゃん、ぴちゃんと音がする。緊張で鼓動が早くなる。


「――――、」


 彼女は歩を止めた。細い指が、僕の湿った髪の毛をくように優しく触れる。


「………………」


「………………」


 時間が止まったような気がした。


 その停止した時間のなかで、右の頬にやわらかくくちづけをされた。そんな気がした。よくおぼえていない。


 ここがドン・キホーテの店内だということを忘れそうなほどの厳粛な雰囲気を突き破ったのは、ほかでもないトォタリさん本人だった。


「な~んかさぁ、腹ぁ、減ってない?」


 見上げた先にあったトォタリさんの不満げな表情は、いつもの彼女のものだった。タオルで顔をぬぐい、黒い涙は薄くなっていた。





「――ふぉうやって。ほんへ、ほう」


 ハードシェルタコスから細切りのキャベツも、そぼろ状のタコミートも、トルティーヤの破片もぜんぜん落とさずに、彼女はぺろりとたいらげた。いつもぼろぼろとこぼしてしまう僕は「おおー」と素直に感心した。


「タコスの食べ方にもコツがあるってこと」


 彼女は得意げに言うと、大きなコカ・コーラの紙カップに直接口をつけ、注がれたドクターペッパーを嚥下する。汚れた口元を、大きめのグレーのスウェットの袖口でぬぐった。ちょっと暑いのか、また腕まくりをする。


 ふだんはおしゃれな服を着ているトォタリさんだけれど、こうやって戦いが終わったりすると決まってグレーのスウェットを上下に着るらしい。これが一番リラックスできるんだそうだ。夜のドンキとかファミレスによく上も下もグレーのスウェット着てるギャルがいるっしょ。あれ、ぜんぶ、あーし。と冗談めかして言っていた。


 僕たちはタコベルにいた。トォタリさんの地元にある一番お気に入りのお店らしい。夜闇のなかでライトアップされた、店頭に掲げられた濃いピンク色のベルマークと、TACO BELLという白いネオン――僕のいる世界では、タコベルが日本に再上陸したのはほんの数年前のことで、まだ都心部に数店舗しかない。だから、いかにも“むかしからこのロードサイドにありますよ”といった風情の大きなこの店は、どことなく非現実的というか、一気にアメリカに行ってしまったかのような気分にさせられた。


 メキシコ料理もそうだし、それから派生したテックス・メックス料理を気軽に食べられるファストフード店は、僕の住む日本にはぜんぜんない。毎日食べたいかというとそうじゃあないけれど、でもマクドナルドやサイゼリヤみたいに、低価格でタコスやらブリトーやらチミチャンガが食べられるお店があったらいいなと日頃から思っていた。再上陸したタコベルは価格設定がやや高めだ。トォタリさんの世界のタコベルは、それに比べるとだいぶ安い。それだけこの世界では店舗数が多く、そして馴染み深いんだろう。正直言ってうらやましかった。


「うっわ! たっか!」スマホに表示させた僕の世界のメニュー表を見て、トォタリさんは大きな声で言った。


 順番でいえば、マクドナルド、バーガーキング、タコベルの順番でメジャーらしく、だいたいケンタッキーフライドチキンやモスバーガーと同程度かそれより上の立ち位置らしい。でもきっと僕が知らないだけで、タコベルがファストフードチェーンの王者として君臨し、マクドナルドが劣勢を強いられている世界もあるんだろう。バーガーキングがその名のとおり王として君臨している世界もあるはずだ。きっとその背後にいてしのぎを削り、領地拡大にはげむのは、僕らと同じ〈王さま〉だ。


「タコベルなんて珍しくもなんともないよ」


 タコスをすべてたいらげた彼女は、テーブルの中央にでんと置かれたナチョスに手を伸ばす。タコミートと追加された輪切りのハラペーニョ、そして上からかかった黄色いチーズソースを何枚かのトルティーヤ・チップスに乗せたまま器用に口元まで運んだ。チーズソースが垂れてしまい、グレーのスウェットの首元を汚す。


「スタバみたいなもんですよ」


「ん?」


「ほら、トォタリさんスタバ好きって言ってたじゃないですか。トォタリさんにとってのスタバみたいな感じですね。僕にとってのタコベルは」


 ナチョスをもりもり咀嚼しながら、脳に引っかかった答えを探すように視線を上へ向け、飲み込んだ。「あー、わかった。はいはい」


「都会とか田舎とか――地元と別の町とか、そういうやつっしょ。……ん? 違うか」


 そういう話に展開したいわけじゃなかったけれど、でもだいたい似たようなことだ。たぶん。


「なんつーかさ、変な気分じゃん? そういうのって。自分にとってはあたりまえで、むしろムカついてたりするようなもんが褒められるのって」


「居心地が悪い、とか?」


「そうそう。そんな感じする。覚え、ないじゃん。な~んかさ、イヤじゃね?」


「わか……りますけど、外からの視点ってだいたいそういうもんだと思いますよ」


「……そーいうもんかね」


 トォタリさんは鼻を鳴らすと、窓の外を物憂げに見た。国道の向かい側には回転寿司屋があった。もうすぐ閉店みたいだ。店内には人がまばらにいるけれど、ネオンサインとポールサインの灯りは消されている。


「キルキルってさ、東京で育ったんでしょ。なんで国道っつーか、こーゆー、なんもない景色が好きなの?」


「家の近くに、国道あるんですよ。もちろん、それだけじゃなくって……えーっと、おばあちゃんちですね」


「ふうん?」興味が出たようで、彼女はこちらに向き直った。


「ばあちゃんち――えっと、父方のなんですけど、ばあちゃんちの近くってこんな感じなんですよ。町の中心地から離れると大きな国道があって、ジャスコとか、トイザらスとか、スシローがあるような。最近は一年に一回お墓参りに行くぐらいですけど、むかしの思い出が強いと思うんですよね」


「こどものころ?」


「です」僕は首肯する。「その頃はお盆のときとかに家族みんなで行って、一泊二日とか二泊三日ぐらいして。小さな庭で夜になると花火をしたり、昼は素麺を食べたり。暇になったらジャスコに行ったりトイザらスに行ったり。ばあちゃんちの敷地には自販機が二台あって――あ、缶ジュースのやつとタバコのやつなんですけど――それの補充を手伝ったりとか……」


「へえ、自販機」とトォタリさんはなんだか嬉しそうに目を丸める。「ガシャコンガシャコン! ってやつっしょ?」


「そうそうそうそう。そんな感じっすね。楽しかったな、あれ……」


 僕がむかしを懐かしんでいると、トォタリさんは「なるほどね」と言い、「なるほどねえ」と僕の思い出を深く味わうように繰り返した。


「……あのさ、ハトヤってわかる?」


 トォタリさんは突然話題を変えると、きれいな歌声でなんの前ぶれもなく歌いだした。


伊東イトーに行くならハットッヤ! で・ん・わは、よい~風呂」


 僕が呆気にとられていると、トォタリさんは「あ、ごめん。つづき歌っていーい? その、落ち着かなくって」ともじもじしながら言うので、僕は「あ、はい」とわけもわからず頷いた。


   ♪伊東で一番ハトヤ

   電話は4126よい風呂


 ――と、彼女はつづきを歌って、ちょっと恥ずかしそうに視線を泳がせると、やや自信なさげに訊いてきた。


「えっと……わかる? ハトヤ」


 どこかで聞いたことのあるメロディーだった。YouTubeでむかしのテレビCM動画をただひたすらぼんやり見ていたときに見た気がする。ちなみに僕としては、住んでいる地域のせいなのか、ハトヤよりホテル三日月のCMのほうが馴染み深かった。旅ゆけば楽~しい、ってやつ。


「え、まあ、知ってはいますけど……たしか伊豆にあるんでしたっけ? 熱海?」


「伊東は伊豆のとなりで、熱海の先。あーしね、熱海に行きたいの」


 熱海に?


「ここって北陸っしょ? 熱海って東海の静岡じゃん。遠いんだけどさ。行きたいんだよね。それで、伊東にあるハトヤに泊まんの。それが夢」


 それなら〈王さま〉の力でいつでも行けるのでは、と思ったところで、彼女は「バイクで」と付け加えた。なるほど。


「ハトヤのCMなんて、こっちじゃたしか流れてないんだよね。見たおぼえないし。それなのにこどものころからな~んだか耳に残ってんの。ずっと不思議で。なんなんだろ~――って。でね、マ……ババアがさ、ずっとヘビーローテーションしてたみたいなんだよね、あーしが赤ちゃんのときに。みたいっていうか、確実。あんま詳しくきいたことないし、きいてもちゃんと説明してくんないんだけど」


 あーしの名前もそうなんだよ。熱くて美しい海――これでアツミって読む。アツミミでもアタミミでもないよ? 名字は画数少ないのに、下の名前は画数が多いんだよなあ。


 そうぼやくと、トォタリさんは「伊東に行くならハトヤ」とふたたび軽く口ずさみはじめ、また我慢できなくなって「伊東で一番ハトヤ――」とつづきを歌った。「4・1・2・6」と電話番号をコールする部分は歌わなくても特に問題ないみたいで、「伊東に行くならハトヤ」と歌いはじめるたびにむずがゆそうな顔をしてつづきを歌うのだった。もう口と舌に馴染んでしまったので、そうしないと気がすまないみたいだった。僕も気がついたら一緒に口ずさんでいた。


「熱海ってなにがあるんですか?」


 僕は行ったことないので素直にたずねた。中学校からの友人はたしか去年行ったとかで、海がどうとかホテルの宴会場がどうとか言っていた気がする。


「え? 海?」とトォタリさんは言うと、「あと温泉?」とつづけ、「あとなんだろ……秘宝館?」と言った。


「秘宝館って結局なんなんですか? 聞いたことありますけど」


「えろいらしい」


「えろ……はあ」


「行ったことないからわかんないけど」


 行ってみたいっすねえ――と僕は半分本心で、半分話を合わせるつもりで小さく口にした。


 ――行こっか。


 ぽつりと前方から投げかけられた。


「え?」トォタリさんを見ると、いいこと思いついたからやっちゃおうよとでも言いたげだった。


「行こーよ。ニケツするか、それかみんなで行くなら車でさ。ハスコ、たしか持ってたでしょ。なんか古くって大きい車」


 ハトヤだってひとりで泊まるのは面白くないかもだけど、ふたり以上だったら楽しいっしょ。熱海の町もさ。シャボテン公園も行きたい。行きたくね?


 脳裏には青い空、白い雲、広がる海といったあまりにもお約束な光景が浮かび上がる。水着姿のトォタリさんの、太ももについた砂粒――そして、浴衣姿で両手に花火を持ってうひゃひゃひゃと笑いながら腕を振り回すトォタリさん。そういった(すけべ心たくましい)ヴィジョンがどんどん浮かび上がってきて、僕は思わず「行きましょう」と即答していた。

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