1-11
「ねえ、キルシくんはなにになりたい?」
半年以上まえ――ある日の放課後、いつもどおり図書委員会の当番中、フヒトベ先輩にそう尋ねられた。
その日もふしぎなことに、僕とフヒトベ先輩以外の生徒は図書室にいなかった。
僕は考え込むように、わざとらしく「うーむ」と唸る。
「答えにくい? だよね~」
「まあ、そうですかねえ……」
「じゃあ、わたしから教えてあげる」彼女はそう言うと、読んでいた『ニュートン』から顔を上げ、さも当然のように言った。
「わたしはね、リノリウムの床になりたい」
一瞬、言っている意味がわからなくて、僕は思わず訊き返してしまった。そ、リノリウム、と彼女は言う。
「リノリウム? ……あー、小説とか読んでるとたまに出てきますね。風景描写のひとつとして」
「出てくるでしょ。リノリウムの床がどうたらこうたらって」
「え、先輩、なんでですか? それ」
というか、具体的な職業とかそういうものではないのか。
「だって、印象的でしょ。リノリウムの床。こうやってさ、ふつうに暮らしてるときにはいちいち言わないじゃない、リノリウムの床だなんて。リノリウムの床。リノリウムの床。リノリウムの床。……ごめん、なんか楽しくて三回も言っちゃった。あ、で、そういうものが、世の中にはたくさんある。あるんだよ。ぱっと思いつく? 忘れられがちだけど、当たり前にずっとそこに存在していて、たまに誰かが見つけてくれるようなものが……」
フヒトベ先輩の、眼鏡の奥の綺麗な睫毛が、なぜかかなしそうに伏せられる。
「えっとじゃあ、似たようなものだと電柱とか?」
「そう」
「ビルの窓ガラスを拭く清掃員とか?」
「そうだね」
「……先輩、そういった仕事に就きたいんですか?」
「違う。違うよ、キルシくん。わたしはね、そういう話をしてるんじゃあないんだ」
フヒトベ先輩はぼんやりとどこか遠くに視線をやる。
全くもって話が読めなかった。
「わたしはね、“そこ”にいたいんだ。そして“そこ”で、たまに――本当にたまに、誰かに思い出されるような存在でいたい。でもね、ずっと“そこ”にいたいわけじゃなくって、気が済んだら、どこかに行ったり、そういう感じ」
「旅人ですか」
「それともちょっと違う気がするんだよね」
「“そこ”――って、具体的にどこですか? “ここ”ではなく?」
「“いま”でも“ここ”でもないよ。そうじゃないんだ」
はあ、と生返事をする僕に先輩は「さ、きみはなにになりたい」と問う。僕は咄嗟に「先輩がリノリウムの床なら、僕は夕焼け空に架かる電線にでもなりたいですね」などといま思い返すと気持ちの悪い返答をした。先輩はそれもいいねと笑い、そのあとふたりで「今まで見たなかで一番印象に残っている普通の光景」について熱く話し合った。
いま考えるに、先輩は受験勉強やらなんやらで疲れていただけだったのかもしれない。でもやっぱり、彼女は本気でそう思っていたんだと思う。
彼女は進路に関する話題をのらりくらりとかわしつづけた。海外の大学に留学すると言ったら、難関大学を目指すとも、いきなり就職するとも言っていた。最初は真面目にとりあってくれない先輩にやきもきしていた僕だけれど、次第にその適当な話に僕も適当に話を合わせるようになっていた。それはそれで、結構楽しかった。
卒業後、フヒトベ先輩は推薦入試で受かった大学には行かず、どこか遠くへ行ってしまったらしい。
らしい、というのは一度だけ校内でそんな噂を耳にしたからだ。
その噂が本当かどうかはわからない。連絡先を知っているんだから確かめればいいのに、僕はそれを確かめるのが怖くて、未だにメッセージのひとつも送れない。送ってしまった瞬間、あの適当な会話の思い出が全部なくなってしまいそうで。
彼女は大学に通っているのだろうか。それとも、誰かに時たま思い出されるような存在になるため、どこかに滞在したり、違う場所へと移動をしつづけているんだろうか。“そこ”という場所にいるんだろうか。
僕は二年生になってからこのやり取りをたまに思い出すようになったし、〈王さま〉になってからはもっと思い出すようになった。
結局のところ僕がなにになりたいのかと言うと、僕もフヒトベ先輩と同じで、誰かにちょっとだけ覚えてもらえるような存在になりたい。誰かの記憶に永く留まるつもりはない。ちょっとだけでいい。あんな人がいたね――そんな感じ。いつの間にか消えているような、蒸気のような存在。
だから僕は、何者にもなりたくない。
僕はずっと、歩きつづけていたい。
どこにも辿り着きたくない。
僕が
光源は、星の光だけになった。細い指が、僕の頬を微かになでる。
ふむ。先輩は納得したように鼻を鳴らした。
「ぼくは〈屋上の王さま〉で、他にも〈陸橋の王さま〉や〈団地の王さま〉なんかもいる。テンちゃんやハスコちゃんもそうだね。
ぼくたちはつまるところ、オーソドックスな〈王さま〉だ。なにか思い入れのある場所を、支配し、領地とし、そこを起点に時空を渡って陣地を奪い合ったり、ときには仲良くなったりしている」
彼女は顔を上げて、銀河の星々を見やる。僕も同じように、無数に輝く小さな星を見た。
「場所に対する想いが強いんだ、ぼくたちはね。時空を渡れると言っても、それはある意味、終わりのない繰り返しにすぎないかもしれないね。
結局ぼくたちは、“ここ”にいるしかない。そして、“ここ”に帰ってくるしかない。それもまあ、悪いことじゃないけどね」
そう。僕と違って他の〈王さま〉たちは、“場所”に縛られているとも言えるし、帰る場所があるとも言えた。
それは絶望なのかもしれないし、救いなのかもしれない。
対する僕は、実際に帰る家があると言っても、このゲームに参加している以上、歩きつづけるしかない。これもまた、終わりがどこにあるかわからない。
「キルシくん、きみのちからは場所に縛られている〈王さま〉のなかでは貴重なんだ。きみは、人類とそのまえを歩む獣たちが敷いてきた、道という超長距離の構造物を征き――支配する。それはもうすこし、自覚した方がいいと思うな」
彼女はやや呆れたように言い、頬をなでる指先に力を入れ、軽くつねってきた。
「先輩、もしかすると僕は『何者にもなれないかもしれない』のが、怖いだけなのかもしれません」
「怖がる必要はないだろう?」
「でも、怖いですよ。なにかになりたいようなきがするんですけど、なりたくはないんです」
「……皆、おなじさ」
先輩もそうなんですかとたずねようとした唇を、ひんやりとした人差し指におさえられる。
しばらく会話が滞り、ふたり揃って夜空を眺めた。
「歩きつづけたいと願った以上――」彼女が星を見るのをやめ、僕に目を合わせる。「いずれきみは、なにかに成ってしまう」
その目は諭すように穏やかで、そして同時に勇気づけるようでもあった。
さ、起きて。
彼女の言うとおりに僕は上体を起こし、立ち上がった。ゆっくりと伸びをする。
ずっと膝枕をされていて気がつかなかったけれど、この屋上は超高層ビルの最上部に位置していた。こんなにも高い場所に位置しているのに、強い風が吹いていないのは、やはり先輩のおかげだろう。
眼下には明かりの消えたビルたちが無言で屹立している。どれもこれも角ばっていて、高さが均等に揃えられている。ビルの間から垣間見える道路には、車が一台も走っていない。誰も歩いていない。
ビルの群れは遠くまで続いていた。向こうに見える山々にも、巨大な直方体が乱立していた。
「静かなところだろ」先輩がうしろから声をかけてきた。「きみの言う〈果て〉とは違うが、まあ似たような場所だ」
「人はいないんですか?」
「いないみたいだね。機械の類も存在しない。虫も、獣も。玉座はがら空きだった。だからここは、ぼくの世界だ」
先輩が背後から近づいてきて、僕の肘を小突く。振り返ると、彼女は丸められた布生地を両腕で抱えていた。厚みを持った布の表面では、さっきまで見ていたような無数の輝きがあしらわれていて――
「この殺風景な屋上に彩りを与えてやりたい。きみもそう思うだろう?」
頷いて、僕は〈星のカーテン〉の端っこを持つ。カーテンは引っ張れば引っ張るほど伸びていき、僕がユザワヤの
学校の校庭ほど広い屋上を囲う高い柵に沿い、カーテンをかけていく。伸びるだけではなく、このカーテンはかけやすいようカーテンフックをにょっきりと生やすので、僕も先輩も感心して「偉いぞ」「凄いぞ」などとカーテンに話しかけてしまう。そのたびにカーテンは恥ずかしそうに身をよじった。
僕も先輩も屋上を一周し終わり、同じタイミングでカーテンをかけ終える。互いに目を合わせ、僕らは頷いた。
ぱんぱんと彼女が柏手を打つと、カーテンの表面をゆったりと滑っていた星々は一旦ぴたりと止まり、銀河やガス雲をあっちへ行ったり回転と縮小を行なう。僕はそれを見て、なんだかグーグルアースみたいだなとぼんやり思っていた。
ぴたりと動きがとまる。カーテンは、いま僕らの頭上に広がっている星々の流れと同期し、乱立するビルや地平線の彼方に広がっているであろう光景を映しているようだった。
ほら見て。先輩が投影されている小さな光点を指差した。その星は、実際に夜空で輝いている上半分と、カーテンに映し出された下半分とではんぶんこになっている。カーテンと柵の厚みがあるぶん、微妙に位置がずれていた。わかりやすく喩えると、プロジェクターから投影された映像が、スクリーン外の壁にもかかってしまっている感じ。
僕は四方を見渡す。境界部分が奇妙に歪んでいるとはいえ、遠くまで広がっていたビルの山々は消え去り、そこには星が広がっていた。まるで、この屋上だけ宇宙空間をとんでいるように感じられる。
先輩は僕の背中を楽しそうに押して、屋上の中央へ向かう。
「もし、きみがなにかに恐れたり、不安になったりしたなら……。ぼくはいつも、屋上にいるよ。だからきみは、いつでもぼくのところに来ていい」
口角をすこしあげて、安心させるように微笑みながら彼女は言う。先輩はいつも、こういうことをさも当然のように言ってしまう。かっこつけたいから言っているときもあるけれど、これはきっと本心なんだろうと、僕は思った。
「そしてきみが歩きはじめるとき、ぼくはいつも、それを見守っているよ。屋上という、ぼくの王国からね――」
彼女はどこからかカセットウォークマンを取り出すと、イヤホンの片側を自分の右耳にはめて、もう片方を手渡してきた。僕がそれを受け取って左耳にはめるのを見ると、次は握りしめたウォークマンを差し出す。再生ボタンには親指がかかっている。
すこし戸惑いつつも、僕はウォークマンに手を伸ばす。
金属のひんやりとした冷たさと、彼女の温度が伝わってきた。
先輩の目を見る。星の大海のなかで、黒い服を着て黒い帽子をかぶって黒い瞳を持つ彼女は、ただそこに微笑んで立っていた。
まるで自分が、この宇宙の特異点であるかのように。
「テープを渡したときに言ったことを、きみは覚えてる?」
僕は頷く。
彼女は謳うよう言葉を紡ぐ。
ぼくたちの世界は不安でいっぱいだ。
でも楽しいこともあるよね。
だからぼくらはダンスをするのさ。
さあ――
親指に力を込め、ふたり一緒に再生ボタンをガヂリと押し込む。
先輩はふらふらとからだを揺らしはじめる。
サーッというホワイトノイズのあとに、軽快なイントロ。
僕も見よう見まねで不器用にリズムをとる。
彼女とウォークマンを握りあう。
腕を振る。
共にステップを踏む。
星の海のど真ん中で、僕らは踊りだす。
僕らがなんでこんな力に目覚めたのかはわからないし、
時空を渡り歩いて、これからどうなっていくのかも想像がつかない。
でも確かなことがひとつある。
それは、僕が炊井戸先輩に出会ったということだ。
僕が道を支配する存在である以上、屋上を支配する彼女とはやがて離別する運命なのかもしれない。
だけれど、そんなことはそのとき考えればいい。
やがてこの世界にも朝が来るはずだ。
空が白みはじめたら〈星のカーテン〉は役目を終えるだろう。
音楽は止まり、僕らは全身で息をしながら屋上に倒れ込むだろう。
すこし休んで、僕たちはそれぞれの家に帰るだろう。
だけれども、それで終わりじゃない。
また会って、また話して、また一緒に歩いたり踊ることができる。
カセットテープは巻き戻る。
そういう感じでつづいていくんだろう。きっと、これからも。
“ねえ、このままずっとさ、心地よい音楽に乗ってさ”
先輩が楽しそうに笑いながら口ずさむ。僕らはくるくるとまわる。
なにもかもを忘れるように、そこにいるお互いの存在を確認するように――僕らは踊りあった。
回転をしつづける――
ステップを踏みつづける――
汗をかきながら笑いあう――
A-1 "夜にダンス" play stop.
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