11: We killed Cock Robin.
記憶を辿る。
思考を辿る。
感情を辿る。
そしてフラウは思い知る。
この先を、自身の記憶の参照なしに知ることは許されないと。
あの時フラウはすべて見ていた。すべて、聞いていた。
ずっと、何もかもを知っていた。
はずなのだ。
フラウの記憶に掛けられた鍵が解かれていく。
──ぼたん。
今は亡きボクの愛しき友よ。
キミは願ったのだろう。ボクの忘却を。
これまで見えもしなかったボクの記憶を縛る鎖は、確かにキミの心の色をしている。
その思いに、願いに、ボクは感謝を捧げるべきだろう。
そして謝罪を述べなければならない。
──ボクはキミの願いを、否定する。
ぼたんの掛けた呪いが意味を失う。
*
──月の綺麗な夜だった。
【ボタン 気が付いたかい】
「もちろん」
ビルの屋上、矢をつがえたぼたんは夜の町を睨む。
「今夜は様子がおかしい」
矢を放つ。壁を這うなめくじのような徒花はコンクリートに縫い止められた。
いくら狙撃しようと核の回収には近づかねばならない。
ぼたんは屋上から飛び降りた。
今夜は徒花の発生が多すぎる。
最初の徒花を見つけたのはまだ夕刻だった。
とっぷりと日が暮れて、なお続々と新たな徒花が現れている。
まるでぼたんを何かに近付けまいとしているかのようでもあり、同時にある所へと誘っているようでもあった。
【今夜は いつまでたっても帰れそうにないね】
ツインテールをたなびかせ、ふわりと落ちながら空を見上げる。
丸い月が雲に隠れてなお、強い輝きを放っていた。
ぼたんとて覚悟はしていた。帰れない夜がいつか訪れるだろうとは。
けれどそれが、今日でなくてもよかったのに。
喧嘩別れしてきた妹のことを思う。
喧嘩というにはあまりに不器用な口論だった。二人は喧嘩などしたことがなかった。けれど、きっとあれは姉妹喧嘩と呼んでいいものだった。
あの日からまだ仲直りができていない。
ぼたんが言ってしまったのは言う必要のないことだと分かっている。最後まで胸の内に秘めておくつもりだった言葉。それをどうして、よりにもよってつばきにぶつけてしまったのかわからなかった。
ぼたんに同調しているフラウは、その憂鬱を感じ取り、しかし沈黙していた。
人の機微はフラウには難しい。言った言葉が野暮となるくらいなら言わない方がましだろう。
指折り数えることもやめるくらいに湧き出る徒花を潰し続け、時刻は真夜中を指す。
そして、ふっと大きな反応が灯った。
「……きた。フラウ」
【ああ 五時の方向 あのあたりには確か 建物を取り壊している最中の工事現場があったはずだ】
かつてないほどの存在感。それでいて、ひどく静かな波長。
これまでの徒花と同じものではない。
「きっと
【罠かもしれない】
「でも、行かないなんて選択肢はない。でしょ?」
お互いにわかりきったことだった。
「フラウ。多分、今夜が最後の夜だ。彼は何か焦っていたもの」
随分と郊外へと来てしまった。車の音はもう聞こえない。
風の音だけが夜の中に満ち、フラウもまた黙りこくる。
「……そうだよね。逃げても、何にもならないんだ」
小さなひとりごとは風に掻き消えた。
ぼたんは力強く、隣のフラウに微笑む。
大丈夫、と。
「覚悟はいい?」
フラウの赤い瞳は真っ直ぐにぼたんを見据え、こくりと頷いた。
覚悟などあの庭園が壊れた時からとうに終えている。
【アシェ 待っていろ──ボクが 必ず】
フラウの囁きがぼたんの耳に入る前に風に溶けたのか、それを知る由はない。
闇の中を駆け、無人の工事現場へと辿り着く。
大きな古い公共施設を建て替えるため、遮られた白い覆いの向こうに広がるのは、無残に天井を失い壁を壊された建物の亡骸だ。
足音を立てず瓦礫の中を進み、ぼたんは探す。
アシェの姿はすぐに見つかった。
黒々とした水面のような艶を放つ大きな繭のごとき徒花の側。
大きすぎる徒花の方を向いたまま、彼は静かに佇んでいた。
「──長かった。本当に」
重たげに足を動かし、こちらを向く。
くたびれた鼠色のコートの裾が引き摺られるように揺れた。
白髪混じりの黒髪に見える銀髪。
青年のような皺ひとつない顔に浮かぶ、深い老い。
落ち窪んだ昏い瞳が、月明かりを映しか細く輝いた。
「魔法少女よ。今宵で全ての決着をつける。──我が悲願、叶えさせてもらうぞ」
アシェの手に握られた、光を飲むほどに黒い剣。
ぼたんが指をかける、光で塗りつぶされたように白い弓。
交わすべき言葉は最早無く、戦いの火蓋は切って落とされ──
【待て】
突如として無数の白い茨が現れた。
瓦礫と瓦礫の間を張り巡らし、彼らを遮る。
「フラウ!?」
「おまえ、何を……!?」
【仕切り直しさ 思い違いを正さなければならないからね】
幻影の姿を現した白い少女は、前へと歩を進める。
甲高く、黒い鎖が鳴らされる。
【剣を向ける相手を間違えているんじゃない?】
「……なんのことだ。相手は魔法少女。間違えるものか」
アシェの声は冷淡に、しかし隠せない動揺を滲ませる。
ぼたんはフラウをしかと見つめ、弓をアシェに向けたまま黙りこくる。
フラウは不敵に微笑んだ。
【いいや アシェ キミの相手は──このボクだ】
そして光が弾けた。
まばゆい光に彼らが目を眩ませた一瞬の後。
フラウの実体が、この世に顕現した。
艶やかな絹色の髪が、宙へと広がる。
そのかんばせに、幽霊のような面影は最早ない。
雪の肌は瑞々しく、甘い唇には血色の朱が灯る。
双眸、紅玉の輝きは硬質な存在感を知らしめた。
あどけない顔立ちに似つかわしくない妖艶な笑みを湛え、ぼたんの方を振り向く。
「ありがとう。ボタン。キミの力無しではボクはここに、来られなかった」
魔法少女という協力者による座標の固定、アシェという己に名を与えた者による存在証明、倒し集めた徒花の核を対価に、ようやくフラウの転移は成った。
「さあ、決着をつけようじゃないか。ボクとおまえで」
転がる鈴音の声が決定的な決別を、突きつけた。
「……やはり、わかってはくれないのだな」
「わかっているよ。わからないわけがないじゃないか。
──わかっているからこそ、こうして否定しているんじゃないか」
少女は幼子を諭すように優しく語りかける。
「キミは悪くないさ。間違ってもいない。ただ、そうするように仕組まれた。
そしてボクは無力だった。そういうふうに作られた」
広げる小さな両手は空っぽで、鎖ばかりが重く腕を上げることすらも儘ならない。
「──だが、いつまでも何もできないままと、思っていたか。『花』よ」
宣戦布告はもう、アシェに向けられたものではなかった。
彼の後ろ、未だ繭の様相にて沈黙を貫く巨大な徒花。
「その中にいるのだろう。おまえは」
細い指が突きつけられる。
「ボクは『花』を許さない。そして
少女の声は冷たく冷たく凍りつく。
「故に、ボク自身の落下を持ってとどめの一撃とする」
最も大きな落下とはすなわち『死』である。
為すのは『花』への侵入、逆行、そして道連れの自壊。
『花』より生まれたフラウはいずれ『花』へと戻る運命にある。
その際に己を毒として再定義する。
元は同一であるからこそ許された、フラウのみの刃。
『花』に愛を奪われた、その復讐はそうして果たされる。
フラウ自身を費やして。
「ボクが為すのは正しきことだ。
止めてくれるなよアシェ。ボクの愛する人。
おまえにその資格は、ない」
悲痛なほどに、慈しむように、淡い笑みを手向け、凍える夜半の毒花は拒絶を謳う。
フラウはアシェを愛している。
だからこれ以上、アシェに愛されるわけにはいかない。
これ以上、アシェに罪を犯させるわけにはいかない。
フラウはもう決してアシェより注がれる愛を認めない。
許さない。
「ボクは
再三の拒絶、宣言、揺るがぬ決意。フラウの独壇場の中、動ける者はそれを許された者はいない。
瓦礫の中を進み、黒い繭に触れようと手をかけて──
「そんなの、認めるわけないでしょ」
その拒絶すらも断ち切る、声が響いた。
動ける者はいない?
許された者はいない?
実体を得たフラウは存在そのものが強い魔法だ。彼女がそうあれかしと願えばそれは法になる。
だが、魔法少女を縛るのはたったひとつ、己を定めた理のみ。
『そういうもの』として、二人で、共に作り上げたのだから。
葉風ぼたんの涼やかな赤い眼光が毒花の少女を貫いた。
「あなたたちに何があったのか、何を背負っているのか。あたしは知ってる。何を願って、ここまできたのかも。
変身するたびにあたしは、フラウとひとつになってきたんだから。
知らなかった? 気付いてなかった?
あたしは、フラウが思っているよりもフラウのことを知っているんだよ」
ぼたんは身体に絡みついていた白い茨を引き千切ろうと足掻く。
細かい無数の傷口から血色の花弁が溢れ、けれどぼたんはやめない。
声は、震えない。
「みんなを犠牲にしてたった一人の大切な人を救うだとか。
自分を捧げてみんなを守るだとか。
ねえ、そんなの。頭が沸いてると思わない?」
それはぼたんに似合わない、薄暗く湿った嘲りだった。
裏切りと嘘、間違いを知り、砂糖菓子の少女は既に焦げついた。
だが、その瞳は熱く煮えたぎっている。
「そんな、誰も幸せになれない終わりを! あたしは……
カラメル色の苦渋を満面に浮かべ高らかに叫ぶ、否定。
それは虚勢だ。それは嘘だ。
葉風ぼたんは綺麗事を否定した。
妹の目の前で、そんなものはないのだと言い切った。本心だ。
けれども。だからこそ。魔法少女は綺麗事を唱える。力強く、呪文がここに成る。
凍りついた場は融けきる。
「ああ、そうだ。たとえフラウ、おまえ自身に否定されようと。認めるわけにはいかないんだ」
次に動き出したのはアシェだった。
場に張り巡らされていたフラウの茨は全て灰になり、崩れ落ちる。
フラウの宣言を聞いてなお、アシェの顔色は変わらない。諦観と苦渋の膜を薄く纏ったまま、揺るがない。
フラウの思惑など知りもしなかった。しかし、驚きもなかった。ただ、冷たい納得だけが胸を占めていた。
似た者同士だ。
理解できてしまった。彼女が正しいのだと。
フラウは彼を追い、そして敵対した。
道を違えてしまったことなど最初からわかっていた。
二度と分かり合えはしない。
二度と寄り添えはしない。
彼女の決意を聞けば尚更に、止まるわけにはいかない。
「もう、手遅れなのだから──!」
魔法少女に目を向ける。
彼女の言葉がフラウの茨を解く時間をくれた。
だからあの戯言は十分に価値のあるものだった。
言葉そのものに一片の価値がなかろうと。
アシェは耳を閉ざす。心を閉ざす。
とっくに必要のないものだ。
目の前にいるのは、待ち望んだ最後のパズルのピース。
言葉など必要ない。向けるのは剣のみだ。
アシェと同じく身体の自由を取り戻したぼたんもまた、眼前のアシェを睨みつける。
「フラウ、お願い。待ってて。そこから、動かないで。ほんの少しでいい。あたしを信じて」
囁き声は確かにフラウに届いた。
アシェの両手に握られた剣がぼたん目掛けて振るわれる。
ぼたんは唇を引き締め身体を逸らす。斬撃の余波を肌で感じた。
まともに受ければ一溜まりもない。
変身が解けてしまうだろう。
分は最初から悪い。何より、この距離だ。
ぼたんの武器は弓。近づかせないことが前提だ。
弓を構成するエネルギーを返還する。その何割かは数本のダーツへと変換。
攻撃を終えた隙を狙い、擲つ。
しかしその全てがアシェの剣に弾かれてしまう。
牽制としては及第点。
ぼたんが視界から外された。
動くなら今。
周りに目を向ける。
瓦礫は踏み台としては十分。
素早く鉄骨を蹴り、解体途中の建物の二階、その名残のふちへと飛び移る。
足場は安定しているとは言い難い。だが追いつかれるわけにはいかない。
顕現させた白い弓を引く。
乾いた風がぼたんの肌を撫でた。
「手遅れなんてひとつもない、分かり合える、手はきっとある、そうでしょう?」
苛烈な眼差しを彼に向け、穏やかな声で彼に語りかける。
きっと手遅れなのだろう、きっと分かり合えないのだろう、手は他にないのだろう。分かっていながら、言葉を吐く。
そしてアシェへと矢を放つ。
力尽くでも止めるとでも言うように、降り注ぐ光の矢の雨。
「だってあたしたち、願いは同じじゃない!」
手加減なんて微塵もない攻撃を繰り出しながらも、矛盾するようにぼたんはアシェに訴えかける。
アシェにとってもぼたんにとっても。大切なのは守りたいのは救いたいのは、フラウだ。
アシェの唇は真一文字に結ばれたまま、瞳はガラス製のように無機質なまま応えない。
いくつかを浴びながらも矢の雨を潜り抜け、瓦礫を踏み越え、アシェはぼたんの元へと辿り着く。
ぼたんは咄嗟に廊下の名残へと逃げ込むがそこは既に剣の間合いだ。
ぼたんは弓を捨てた。
初撃を転がりながら避ける。崩れた壁は互いの邪魔をする。
しかし次撃は膝をついたぼたんに振り下ろされ──剣身は皮一枚で止まった。
彼女の右手には隠し持っていたクロスボウ。
引き金は今にも引かれようとしている。
先端は彼の心臓に向けられていた。
アシェは低く唸る。
耳は塞いだはずだった。心は閉ざしたはずだった。
だが、ぼたんの言葉は鋭く突き刺さっていた。
「綺麗事を。世迷いごとをっ……手はある、だと? そんなもの、とっくに探し尽くしているッ!」
突きつけた剣先が僅かに震えだした。
ぼたんの意識がそちらへと割かれ、途端クロスボウを構える腕を鈍い一撃が襲う。
引き金を引くには遅かった。
射出した矢は軌道を逸らされ、コートの襟に穴を空けるのみ。
次の瞬間には腹にアシェの鋭い蹴りが叩き込まれようとしていた。
勢いを殺し、弾かれるように後退する。
土煙の中、体勢を立て直したぼたんはキッと彼を睨む。
「……そんなこと、わかってる。綺麗事、世迷いごと上等! あたしは幼稚で、我儘で、だから痛い目ばかり見て! それでも、友達の泣き顔を黙って見ているよりはずっとましでしょう!?
大好きな人を泣かせてまで選ぶ未来が、正しいわけがないでしょう!!」
ぼたんの心はもう、ずっと前に、完膚なきまでに折れていたのだ。
電車の駅のホームへと吸い込まれそうになる身体を止められないくらいに。
虐げられていたものの力になろうとした。いつのまにか虐げられるのは自分になっていた。かつて力になろうとしたものすらも自分の敵へと回っていた。
正しいことをしたからと、恥じ入ることなく前を向けるほどに鋼鉄のようではいられなかった。
たったそれだけの話。
無邪気な悪意は善意で構成された少女を踏みにじっていた。
世間には溢れかえった、陳腐な顛末だ。
いつか泣いていた誰かに手を差し伸べたことすら間違いだったと悔いていた。
学校が、人が、煌びやかな何もかもが、確かな何もかもが、当たり前とされるもの正しいとされるもの全てが、今のぼたんには怖くて怖くて仕方がない。
お気に入りのツインテールは解いて断ち切ってしまった。かつて愛した制服のリボンはもう指を触れることすら恐ろしい。
逃げ続け擦り切れたスニーカー、ざんばら髪と卑屈な笑み。それが今のぼたんを構成する何もかも。
葉風ぼたんにはもう、希望は抱けない。
──でも、
魔法少女は、かつてのぼたんが抱き今のぼたんが失った何もかもで出来ている。
弓を強く、引く。
「最善を! 最良を! 最後まで! 誰も彼もが幸せになれる結末を求めることが間違いだとは言わせない!
夢も希望も、あなたたちにはないのなら! あたしは、あたしだけはもう。捨てるわけにはいかないの!」
ぼたんだって、これっぽっちもそんな甘くて都合の良い理想なんて信じちゃいない。
信じていなくても、唱え続けると。
そう決めたのだ。それが為すべきことだと、信じたのだ。
「あたしはもう、逃げない。逃げちゃ、いけないんだ。
それが間違いだって、信じているから!」
そして渾身の一矢が放たれる。
フラウとアシェ、二人の関係の始まりは諦めからだった。
互いが互いに己を何者かも知らず、定義もできず、ただ囚われ続け、そして引き裂かれた。
全ては『花』という上位者の掌の上。
彼らの選択は常に、諦観に支配されていた。
フラウは理解する。
「ああ、キミは──」
ぼたんはその選択がどれほど恐ろしいものか知りながら、全てを救おうとしているのだと。
見くびっていた。彼女の強さを。
やめてくれ、そんなの。
願ってしまう。
欲してしまう。
未来など、許されていないのに。
でも、彼女なら。
彼女とならもしかして──。
弱い少女は、揺れる。
攻撃を真正面から受け止めたアシェが、よろめきながら立ち上がる。
ぼたんの攻撃が致命に至ることはない。彼女がそれを望んでいない。
だが、胸に突き刺さる光の矢は着実に彼の力を奪い取っていた。
「……眩しいな」
目を細める。
「そうか、これが。フラウ。おまえの『善し』とするものか」
その言葉にフラウははっとする。
ああ、そうだ。揺れてしまうのは当然だったのだ。
だって、ぼたんが。彼女こそが、フラウの望んだ理想だったのだから。
愛に呪われたフラウが曇りなき信頼を向けられる、夢と希望の体現者なのだから。
そういうものであってほしいと、二人の願いが魔法少女を作り上げたのだから。
綺麗事を願ったのは、彼女だって同じだったのだから。
アシェが深く咳き込んだ。
口元から血が溢れる。
「アシェっ……キミ……!」
咄嗟に駆け寄ろうとしてしまったフラウにアシェが首を振る。
自分たちはもう、それを許された関係ではないと突きつける。
フラウは唇を噛み踏みとどまった。
拒絶したのは自分から。自分ではもう彼を救えない。
矢を避けきれないのは必然だった。
長い月日の間に『花』に蝕まれ、アシェの身体は既に限界を迎えようとしていた。もうまともに言うことを聞かない。
騙し騙しの日々もついに限界を迎えていた。
魔法少女を見つめ、アシェは零す。
──美しいな、と。
どこか泣き顔に似た微笑を浮かべながら
「だが、それでも。おれにも信じる道がある。
ただ美しいだけの決意などに、揺るがされるわけにはいかないんだ……」
アシェはひび割れた壁に寄りかかり、宙を見上げた。
丸い月が真上にて、煌々と輝いていた。
アシェは嘆きなのか笑いなのか呻きなのかもわからない声を飲み込む。
元よりこれは時間稼ぎだ。
最後の徒花を咲かせるための。
「そろそろ時間だ。起きろ──フロイライン」
そして黒い繭が、胎動する。
*
その日、つばきは学校へ来なかった。
学年が上がってもクラスは同じになることなく、なつめがそれを知ったのは茜屋りこの口を通じてだ。
このところのつばきが何かを思い悩んでいる様子だったことは記憶の通りで、きっとそれが要因なのだろうとあたりをつける。
放課後、彼女の訪れそうな場所に向かったけれどそこに彼女はいなかった。家にも帰っておらず、電話も通じない。
それを何度か繰り返して、なつめの中にじわりとした焦燥が積み上がる。
日が暮れた。つばきはまだ見つからない。携帯電話を持たないなつめが公衆電話の箱に駆け込む度に手に入れるのは機械的な音声だけだ。
途中、繁華街の中で無数の徒花とそれを迎撃する魔法少女の姿を見つけた。街行く人々に見えないその姿は、なつめにははっきりと見えていた。
アシェが行動を起こすと言った近日中は、今日になったのだとようやく知る。正体不明の焦燥がまた、大きくなる。
空を駆ける魔法少女と目が合った。彼女がこちらに気付いたのかどうか定かではない。だが、その瞬間胸がざわついた。強烈な既視感、出会ったことはないはずなのに。
つばきとはまったく似ていない少女が、何故かつばきに重なって見えた。
なつめの直感が叫ぶ。彼女を追えと。
気が付けば魔法少女の後を追っていた。その先に、アシェがいる。
最後の戦いへなつめはアシェと共には向かわなかった。アシェはそれを望まず、なつめはそれを受け入れた。なつめはただの人間として生きることを望み、そして望まれたから。
『おれがいなくなった後のフラウを頼む』
なつめが頼まれたのはそれだけ。
きっとアシェはもう帰ってこないつもりなのだろう。彼の時間はもうあまり残されてはいない。
辿り着いた工事現場。こんなところにつばきがいるはずもない。そんな万が一の可能性を確かめて、ここを去ろう。
きっとアシェは、自分にこの戦いを見られたくはないのだろうから。
だが、目を離すことができない。足を引くことができない。なつめの胸を占める真っ黒な予感がそれを許さなかった。
少しばかり離れた場所の物陰で息を潜める。
たとえ近付いたとしても、その半分が幻である魔法少女とアシェの戦いの余波に巻き込まれることはない。分かってはいても近づけなかった。気圧されていた。ただならぬ夜の空気が重くのし掛かっていた。
視界に入るのは徒花の黒い繭。
なつめも知らぬ、アシェの切り札。
「フロイライン」
繭が、破られる。
蕾が綻ぶように、徒花が真の姿を現した。
全身があの核の宝石でできたような、赤く輝く竜のような姿。
目もなく口もなく、翼はぼろぼろで脚は崩れて立つことすらも儘ならない。
醜く、情けない姿だ。
フロイライン、と呼ばれたその徒花が、一等に目を引くのはそれらのどれでもない。
竜の足元に張り巡らされた根。赤く硬質な輝きを放ち、竜を地に繋ぎ止めている。その根に、艦首の女神像のように磔にされた少女が一人。
それはつばきだった。
胸に白い『花』を、咲かせていた。
「……嘘だ」
何故。疑問が巡り、血液の温度が下がる。
何度だって目を疑った。
けれど何度嘘だと唱えても、目の前の光景は変わらない。
彼女だけは、見紛うはずがないのだから。
アシェの声が聞こえる。
「魔法少女──いや、葉風ぼたん。
これよりおまえを、落とす」
ようやくなつめは理解する。
魔法少女が、つばきの姉だったのだと。
つばきの大切な人だと。
「ぼくは、それを、あまつさえ、つばきすらも」
アシェがどうしようもなく悪人であるということ。それを知っていたはずだった。それを肯定したはずだった。
彼の欲する未来を理解してしまったから。
なつめにも欲した未来があったから。
未来を彼女に与えられたから。
欲したのは、彼女との未来だ。
それだけが欲しいもので、それさえ残れば他の何を諦めることも辞さなかった。
それが今、罅割れた。
心臓が破裂しそうなほどに鳴る。眼が霞み、呼吸がおぼつかない。
止めなければ止めなければ止めなければ。
全てが、失われてしまう前に!
*
「なんで」
ぼたんは声を震わせる。
「どうしてつばきがここにいるの! つばきを、離して。妹は関係ないでしょう!」
「ああ、そうだな。だが
ぼたんは唇を噛む。なんとかしなければならない。なんとかしてみせる。
だが、一体、どうすればいい?
フラウにあの徒花について問いかけようとする。
だが彼女の様子までもがおかしい。
徒花を見つめる瞳はどこか虚ろで、周りの音など何ひとつ耳に入っていないかのよう。
そして唐突に崩れ落ちた。
「フラウ!?」
揺さぶっても返事はない。
まるで悪夢にうなされているかのように、苦しげに目を瞑っている。
「何を、したの」
この場はアシェの用意した舞台だ。
当然のように、布石は十全に置かれていた。
多少のイレギュラーこそあれ、全てはこのため。
予定は調和する。
「……そうだな。おまえには知る権利がある」
フロイライン。
それは他者から集め凝縮した絶望を『花』に込め、ひとりの少女に移植した結果生まれた徒花。
最後の一手にして、フラウの器だ。
徒花を生み出し徒花に埋め込まれた少女に、フラウの自我を上書きする。
フラウを人間にするためにアシェが選んだのは、人間をフラウにすることだった。
葉風つばきを選んだ理由は魔法少女:葉風ぼたんの絶望を必要としたからだ。
魔法少女という存在が落下した時に見込める熱量は膨大だ。
落ちた彼女を取り込めば、フロイラインは完成する。地に縫い止められた竜は目覚め、飛び立つ。
世界に終末を導く呪いとして。
全てが終わった後に、『花』には用済みになったフラウが残される。葉風つばきの肉体を得て。
それが彼女を完璧に救える方法。
彼女だけを。
「なんて、ことを」
今、フラウの自我は切り離されようとしている。
そしてつばきは、踏み躙られようとしている。
「そんなことさせるものか」
つばきを取り返し、徒花を砕く。今、為すべきはそれだけだ。
「行かせはしない。おまえはここで、ただ見ているがいい。無力さを噛み締め、力尽きろ」
満身創痍の身体で、しかし鬼のような気迫でアシェが立ち塞がる。
瓦礫のように罅割れた腕で、ぼたんへと剣を向ける。
振るう力などもうまともに残っていないはずなのに、剣閃は冴えきっていた。
なけなしの寿命を対価に差し出しているとでもいうのか。
突破できない。
つばきはすぐ、目の前にいるのに。
あと少しで手が届くのに。
間に合わないと嘲笑うかのように。
つばきが赤い結晶に飲み込まれていく。
「いやっ……!」
ドンッ、と鈍い音がした。
背後からの不意の衝撃に、アシェの体勢が崩れる。
何が起こったのか、戸惑うぼたんはアシェにしがみつくひとりの少年に気が付く。
「なつめ、おまえ……何故!」
「ぼくのことはいい。はやく、つばきを!」
ぼたんは黙って頷いた。
見知らぬ少年の素性も理由も、今は関係がない。
アシェの剣を奪い取り、走る。
つばきのもとへ。
赤い竜は動かない。
今はまだ、時ではない。
まだ間に合う。
あの少年がくれた機会を無駄にはしない。
両手で柄を握り締める。
つばきを引き剥がそうとアシェの剣を突き立てては、その度に根に叩き落とされる。
荒い息をつきながら立ち上がる。
「待ってて、今……行くからっ!」
つばきが目を開けた。
赤い瞳だ。
【来ないで】
絶望に染まった目は拒絶を叩きつけた。
ほんの一瞬、怯んだ。
だが。
「それは、聞けない」
ぼたんをなぎ払おうとする根を叩き斬る。
砕けた破片が輝きながらぼたんの肌を切り裂いてゆく。
呻き声を漏らす暇さえもない。
燃料切れの身体に鞭打ち身の丈に合わない剣を振るい続ける。
何度も、何度も。
だが根はつばきを離さない。
つばきの光の点らない瞳は虚空へと向けられたまま、結晶に覆われつつある顔は彫刻のように動かないまま。
悲鳴を上げる。
【来ないで 来ないで 来ないで こないでこないで──!】
つばきに注ぎ込まれたのは凝縮した他者の絶望だ。
既につばきの自我は塗りつぶされて、ぼたんの声は届かない。
否、声を上げるほどに剣を突き立てるほどに。彼女の攻撃は激しくなる。
ぼたんは剣を捨てた。
「つばき」
中の彼女に、彼女だけに届くように。
その一声に魔法を掛けて、名を呼ぶ。
根の動きが、止まる。
ゆっくりと歩み寄りそしてつばきの頬を伝う涙を拭った。
「……ごめんね。いつか話せるときがきたら全部、話そうと思っていたんだ。もう一度、あたしがあたしのまま、強くいられるようになったそのときに。
つばきはもう、守られるだけじゃなくなったから。誰かのために手を差し伸べられる人に、なっていたから。
あたし……あなたの『お姉ちゃん』でいられる自信を取り戻したかった。それでつばきを拒絶するなんて、ばかみたいだよね」
つばきは大きく目を見開く。
その時、確かに彼女はぼたんを見た。
ぼたんは拳を握り締める。
最後の一撃を、叩き込む。
つばきを縛る根は粉々に砕け散った。
核であるつばきを切り離され、徒花は塵となって宙へと溶けていく。
瞳の色が元へと戻る。
噛み合わなかった焦点がぼたんを見つけ定まった。
「…………ぼたん? あ……わたし……ごめんなさい、わたし、ぼたんにひどいことを言った……!」
つばきの蘇った意識はあの日の姉妹喧嘩の続きへと繋がる。
いいの、と言うように首を振る。
「──つばきが無事でよかった」
ぼたんはふっと微笑み、次の瞬間。
変身を解き、倒れた。
ぼたんはつばきに干渉するために全ての防御を解いていた。
その腹には、塞げない大きな穴が空いていた。
彼を止める。
ただ、それだけを思った、長い長い時間が過ぎた。
なつめは何度も地に転がされ、這い蹲り、殴り殴られた。
もう時間の感覚も身体の感覚も遠くなったころ、周りが静まりかえっていることに気が付いた。
動くものは誰ひとりとしていなかった。
アシェはコートの裾をなつめに掴まれたまま、硬直していた。
よろめきながら立ち上がり、彼の腕に縋り付いて、腕から溢れ落ちる灰に気が付いた。
数拍の間のあと、灰はアシェの形を留められず流れるように崩れた。
時間切れだ。
アシェの寿命が、尽きた。
灰に還ってしまった。
なつめの導いた結末だった。
最後の夜が終わりを迎えた。
フラウまでもが消えていく。
目を覚まさぬまま、あの庭園に呼び戻されていく。
残されたのは二人だけ。
つばきは首の締まりそうな静寂の中で呆然と膝をつく。
動かない姉を抱えて。
散らばった灰の前に立ち尽くすなつめと目が、合った。
瞳に映る互いの表情は色を失っていた。
*
わたしのうそつきうらぎりもの。
そしてあなたはしんでしまった。
殺したのは、わたしだ。
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