10: Who killed Cock Robin ?
夏が終わり、秋が過ぎ、冬が溶けて、春が散り……もうすぐ二度目の夏が始まろうとしていた。
「時は来た」
アシェが短く告げた。その言葉の意味するところを理解する。彼の目的が、もうすぐ果たされようとしているのだと。
「おまえは、いいのか」
「それは……」
どういう意味か、問いかけそうになって言葉を飲み込む。そうではない。言うべきことはそれではない。
顔を上げた。真っ直ぐにアシェを見た。
「今までずっとわからなかった。あなたがどうしてそんなことをするのか。わからなくてもいいと思ってた。どうだっていいと、思ってたんだ」
善悪はまだわからない。悪いことをするのがどうして悪いのかはわからない。
アシェの所行をただ肯定してきた。彼が望んだからという理由だけで十分だった。
「今のぼくにはほんの少しだけ、わかるようになったんだ。想像が届くようになってしまった。アシェにとって彼女がどれだけ大切なのか、あなたがどれほどの思いでここにいるのか。……ぼくには、完全には理解し得ない。でもその重さを、今のぼくはわかっている、つもりなんだ」
「でも……わかってしまったから、わからなくなった。ぼくがどうするべきなのか」
アシェの願いの成就を心の底から願ってきた。
それは変わらない。変わらないはずなのに。
なつめの価値観はアシェによって作られてしまった。
なつめのくすんだ感性はつばきによって取り戻されてしまった。
「ぼくはあなたを止めてしまうかもしれない」
僅か一年にも満たない日々は、あらゆるものを強引なまでに変えていった。
それは、なつめの何もなかった半生を急いで埋め尽くそうとするかのような慌ただしさだった。
世間が当たり前とする日々、そんなものには興味がない、必要ないと心の底から思っていた。嘘ではない。
ただ、望まないまま手にしてしまった。その途端に手放すのが惜しくなった。なつめはそれを惜しいと思える程の、その程度の人間だった。
それでいいとすら思ってしまった。
「未来が欲しいんだ。失いたくない日常があって、大切だと思えるものができたから」
出会いから一年に満たない時が流れ、今や彼女はただの友人などではなかった。
初めての友人であり、大切な人だ。
「ぼくは世界の滅びを願えない。でも、あなたの願いを否定したくはない」
今のなつめには、その迷いを答えとしてぶつけることしかできなかった。
「……そうか。それが、おまえの答えか」
アシェは頷き、目を逸らした。
そしてゆっくりと静かに語り出す。
「おれは、いつのまにか彼女を救うことではなく、世界を滅ぼすことばかりを考えるようになってしまっていた」
『花』に取り憑かれ、本当の願いを見失っていたのだと言う。
「初めの望みはただ、外の世界へ。彼女と出ることだった。外の世界に、人に憧れた。だから彼女を、『花』の宿痾から解き放ちたかった。普通の、人のように、彼女に笑って欲しかった。……それだけだった。
それを忘れずにいられたのはおまえがいたからだ」
なつめに見出したのはフラウの面影であり、そしてかつての憧れの片鱗だった。
「筋違いな感謝だとは思っている。結局おまえは、おれのあずかり知らぬところで答えを見つけた。おれは何も、おまえにしてやることはできなかった」
人ですらない彼が、人の親を真似事でも全うすることはできなかった。例え出来たとしても、彼はどうしようもなく人の敵だった。
「為すべき事は変わらない。結局おれが、彼女のために世界を脅かすのは同じだ。目的の過程で数え切れないほどの悲劇を、惨劇を生むだろう。
──だが、お前の欲する未来くらいは残してみせよう」
「ありがとう。──父さん」
それは息子としての初めての我儘で、父としての初めての言葉だった。
*
フラウが見たなつめの記憶はほんの一部だ。
なつめが辿った約一年もの道程を、積み重ねた淡い日々を、フラウは見ていない。
それは見るべきものではなかったから。なつめだけのものだった。彼がそう、拒絶した。
彼の記憶を正しくなぞらえたのは彼自身だけ。
フラウはただ、なつめがアシェと、つばきと築いた関係を知ったのみ。
そしてなつめが記憶の海に溺れたように、つばきもまた、つばき自身の記憶の中へと沈んでいく。
フラウには見せられない、記憶の中へ。
彼女が秘める葉風ぼたんの記憶へ。
*
ぼたんと出会った頃のわたしは、何もかもを恐れていた。
親同士の再婚、新しい環境に新しい父親。
何もかもが未知で、唯一既知である母親すらもどこか別人に見えた。
新しい姉は極め付けに恐ろしかった。
『姉』という両親よりももしかすると近しい存在。
突然そんなものができたってどうしたらいいのだろう。
何もわからず、わからないことが恐ろしかった。
けれどその恐れを、幼いわたしは心の奥底にしまい込んだ。その恐れを知られることはきっと、彼らの幸福を妨げると幼いながらにも悟っていた。
『こわいの?』
そんな覚悟をいざ知らず、新しい姉は、ぼたんはわたしを見透かした。
『あたしもだよ』
そういって、力強く手を握る。
『大丈夫。あたしが守ってあげる。これから、ずっと、どんなときも』
怖いのは同じなのに、そう、力強く手を握ってくれたぼたんに言いようのない気持ちを抱いた。
──ああ、こんなふうになれたらどれほど素敵だろう、と。
そしてもう、わたし達が姉妹であることに疑問を抱くことはなかった。
ぼたんは素敵な女の子だった。明るくて優しくて、卑屈で臆病なわたしとは大違い。
わたしが焦がしたトーストや土砂降りの通り雨、道を間違えた末の遠回りに肩を落とす隣で、笑ってそれを『素敵なもの』に変えてしまう素敵な女の子だった。
綺麗なものを綺麗だと言って、綺麗でないものすらも綺麗なものに変えてしまう。
魔法使いみたいな女の子で、わたしはいつしか彼女の真似ばかりをするようになっていた。
わたしは素敵なぼたんの妹になりたくて、それ以上にぼたんになりたかったのだ。
時々怖くなる。いつかこの関係は、不意に壊れてしまうのではないかと。
どれほどぼたんを真似ようともわたしは本当にぼたんの妹にはなれない。『似ている』などという言葉をもらうことは永遠にない。
そんな悩みすら見透かされたことがある。
『もしもあたしたちが離ればなれになって、誰もあたしたちのことを姉妹だと呼ばなくなったとしても。あたしは、つばきのお姉ちゃんだよ』
あの日のぼたんは揺るぎなく、言い切ってくれた。
『つばきをひとりにはしないから』
本当の姉妹じゃないから。
本当の姉妹よりもずっと、わたしたちは仲のいい姉妹だった。
中学に上がったぼたんに何が起こったか、わたしも詳しくは知らない。
それは聞くべきことではなかった。
ただほんの些細な、そしてどうしようもない人間関係のもつれがぼたんを苦しめたことは知っている。
「あたしね、正しいことをしたつもりだったんだ。
間違っている子に間違っていると言って、泣いている子に手を差し伸べて。みんな仲良くなんて無理だけど、みんな仲の良いふりをできたらそれが一番良いって。そのために、頑張ったはずだったんだ。
──でもそれは綺麗事だった。
綺麗事は、叶わないんだ。綺麗なものは全部いつか壊れてしまう」
小さな背中。涙ひとつ溢さず。声を震わせることもなく。
「おかしいよね。笑っちゃうよね」
なんでもないことだったかのように、ぼたんは笑った。
わたしの姉になったぼたんは、いつだって強かった。
この人さえいれば大丈夫、全てうまく回る、そう信じられるような人間がこの世にはいる。
人一倍気を配り、人一倍労力を払い、それでいて誰よりも気負わない。
弱くて不甲斐なくて不器用なわたしをずっと笑って助けてくれた。妹だからではなく、彼女がぼたんであるから。
だからわたしは、ぼたんの苦しみに気付くことができなかった。
ぼたんは真実を家族に悟られないように完璧に演じていた。
毎晩の食卓に並ぶのは面白おかしい学校生活の断片で、彼女はいつもころころと華やげに表情を変えた。
わたしはそのたびに、相槌を打ちながらそっと箸を噛んだ。
わたしはぼたんの通う中学を受けることすらかなわなかった。
わたしは、ぼたんのように頭が良くなかった。
古臭くて野暮ったいわたしの中学のセーラー服と、洗練された品の良いぼたんの制服のワンピースを並べると、本当の妹じゃないからだと突きつけられている気がした。
限界は程なくして、唐突に訪れた。
いつものようにちょっと張り切りすぎな朝食を取って、いつものように軽やかな足取りで家を出たぼたんは、学校に行っていなかった。
学校からそう電話が入った。ぼたんが来ていない、と。
絵に描いたような優等生だった姉が無断で休むなどあるわけがないと両親は慌てていたけれど、ぼたんは何事もなかったかのようにいつもの時間に帰って来た。
開口一番、『今日はね』と学校の話をする。
行かなかった学校の話を、いもしない友人の話を。
憂いひとつない笑顔で。
「バレてるよ。嘘って」
わたしは、からかうように言ったのだ。
わたしはひどい勘違いをしていた。
真面目すぎるぼたんにだって息がつまることはあるのだろうと、だから一度くらい何の理由もなしに学校をさぼってみたくなることもあるだろうと。
詰めが甘いよね、ってわたしに笑われて、心配かけてごめんなさい、ってあまり反省してなさそうにぼたんは舌を出して、それでおしまい。
うちは神妙に家族ごっこをやっている新米家庭で、強迫的なほどに誰も彼もが寛容だった。
だからこんなちょっとした事件くらい、消えてなくなると思っていたのに。
ぼたんの笑顔がひどく不恰好に歪み、その頬が痙攣し始めた。
ごめんなさい、と壊れたスピーカーのように細く繰り返し立ち尽くす。
玄関はどうしようもなく暗かった。
ぼたんはわたしの、的外れな指摘で破綻した。
わたしはただその日の小さな嘘だけを指したはずだった。
けれどぼたんが背負っていたのはその両肩を押しつぶしそうな程の嘘だった。
彼女の語る何もかもが嘘だったとわたしたちが気がついたのは、手遅れになってからだった。
それ以来、ぼたんは朝いつも通りに家を出て、しかし学校に行かない、行けない日が続いた。
結局、ぼたんが学校をやめるまでには随分と月日を要した。わたしたちは彼女の、『大丈夫』という言葉を信じすぎてしまった。
わたしと同じ中学に転校してもぼたんは学校に来なかった。
綺麗に伸ばされた茶色い髪のツインテールを断った。綺麗にアイロンをかけられた灰色の制服を着なくなった。綺麗な赤色のリボンを、結べなくなった。
毎日毎日、家にもおらず町を徘徊している。
何を聞いても曖昧に笑って誤魔化すだけて、本音をひとつも吐きやしない。誰に対しても。
いつもどこか遠くを見つめていた。
ぼたんの立ち直りはいつだって早いはずだった
凹むことすらろくにないはずだった。
ぼたんが、ぼたんじゃないみたいだった。
放課後、姉を探す。
どんなに探してもぼたんは見つからなかった。
まるでわたしにはぼたんのことが理解できないと言われているみたいだった。
そんなときにわたしはなつめに出会った。
彼と仲良くなったのは、初めはやっぱり姉のためで、いつしかそれだけじゃなくなっていた。
彼に会いに行く、その何割かは確実に逃避だったのだろう。探し回っても絶対に会えないだろう姉と、会いに行けば絶対にそこにいた彼。
選んでしまったのは仕様のないことだったと思う。
なによりも、わたしにはなつめを放っておくことができなかった。
なによりも、ぼたんならきっと、どうしたかなんてわかりきっていた。
いつのまにかわたしの中で彼の存在がずっとずっと大きなものになっていたのは、思いも寄らないことだった。
そしてそのまま、一年が過ぎようとしていた。
色々なことが数え切れないほどにあった一年だった。色々なことが変わっていった。
ぼたんは何も、変わらなかった。
なにひとつ話してくれないままだった。打ち明けては、頼ってはくれなかった。それどころかぼたんの隠し事は幾重にも脹れあがっていくようだった。
待って、待って、待ちぼうけて、どこかで堰を切ってしまった。
話してほしかった。打ち明けて欲しかった。頼って欲しかった。
わたしは叫ぶ。
わたしは変わった。だからきっと、力になれる。今度はわたしがぼたんの力になる番だと。
「わたし、ぼたんが間違ってたなんて思わない!」
「……本当に? ほんとうに、そう思う?」
問い直すぼたんの瞳は、暗くて、深い。
それは否定だった。どうしようもない断絶だった。
わたしは言葉を飲み込む。
わたしの頭がどんなに悪くても、わかってしまったから。
ぼたんは変わらなかったんじゃない。とっくに、変わりきってしまったのだと。
「人は嘘を吐くし裏切る。どれほど心を尽くしたって伝わらない気持ちはたくさんあるし、大人も子供も同じくらいに汚くて、思いやりだって裏返る。
あたしはそれを、全部見た。誰も彼もが幸せになることなんてないの。そんな綺麗なだけの話、どこにもない。間違ってたのは、あたしだよ」
姉のようになりたかった。
綺麗なものを、綺麗だって心の底から言えるようになりたかった。
そして誰かに、綺麗なものをあげられる人になれたならどれほど素敵だろうと思っていた。
でも。
わたしのなりたかったあなたは、もう、いないんだ。
そんな現実を突きつけられる。
だというのなら。
「わたしは、どうすればいいの……」
だめだ、わたしが弱音を吐きに来たんじゃない。わたしが望んだんだ。ぼたんの弱音を受け止めることを。
けれどそう決意したはずの両手から、ぼたんの弱音がこぼれ落ちる。受け止めきれない。認められない。
「つばきはさ、もう、あたしがいなくても大丈夫。でしょう?」
「そんなこと……!」
ない、と言い切れなかった。
わたしはぼたんから、恐れをなして逃げ出した
ぼたんを探す時間を少しずつ、なつめと過ごす時間に費やした。
わたしはなつめと向き合うことで、ぼたんから逃げ出したんじゃないだろうか?
なつめに差し伸べた手とぼたんに伸ばした手は本来、同じだったんじゃないだろうか?
「あ……」
わたしはなつめを、ぼたんの代償にした?
そんななつめに対してもぼたんに対しても最低な考えが頭の中を
そんなはずはない。
二人は全くの別人で、わたしは、わたしには、わたしの日常がある。それだけの話のはずで……
わたしとぼたんの日常は違う。
わたしとぼたんは、違うのだ。
それを認めてしまった時に、言葉がなくなる。
本物の姉妹のようになろうと誓ったはずだった。
二人で、どんな時も一緒にいようと。
それはもう、不可能だった。わたしたちはいつのまにかどうしようもなく変わってしまった。お互いの知らないところで変わっていった。
「つばきは強くなったよ。今のあたしとは比べようもないくらい」
あろうことか、わたしは。完膚なきまでにしあわせだった。
だから。わたしにあなたの絶望はわからない。
わたしじゃあなたの力になれない。
「ごめん、ありがとう。……でもこれは、あたしの問題だから。あたしだけのものだから」
ぼたんと目を合わせられない。声が遠のく。手は届かない。
「あたしのことは気にしないで。つばきは、つばきのやりたいことをやってくれれば、それが一番嬉しいから」
わたしは変わってしまった。
力になりたい。
わたしはその資格を、とっくに失っていたのだ。
わたしたちは『姉妹』のやり方を忘れてしまった。口の利き方ももう分からず、だから言葉を交わすこともなかったのだ。
もう、二度と。
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