Episode: 05-04 目の届く場所
十一月三日。
文化の日。
ちょうど、季世の文化祭の日に、幸の手術が重なった。
二週間前から無菌室に入った幸とは、メールのやりとりしかできていない。
手術の立ち会いに行こうと思っていたのに、幸からは拒否された。
代わりに、季世の文化祭を見て、できれば録画してきて欲しいと要望を受けた。
俺は、懐かしい母校を訪ねている。
ちょっと歩けば、見慣れた顔の先生と行き合う。
俺は地味な生徒だった。
目立った賞与も受けなかったし、成績優秀というわけでもないし、クラスの中心的存在だったわけでもない。
だから、とくに呼び止められることもなく、季世の教室まで行った。
両親もしくは祖父母しか見に来ないような、中学校の文化祭の催しだ。
行ったら浮くんじゃないかと少し不安だった。
廊下も、天井も、壁も床も、窓も、窓からの景色も、すべてが懐かしい。
卒業してまだ二年しか経っていない。
こうして来るきっかけがなければ、おそらくこの先一生来る機会なんかなかったかもしれない。へんな気分だ。
いざ教室へ入ると、生徒たちも、来客たちも、皆自分に関することに真剣で、とくに部外者を気にする様子もなかった。季世でさえ、俺の来訪に気づかない。
――大丈夫か、俺。
明らかに誰とも無関係な部外者なのに、スマホで撮影していて、事案にならないだろうか?
心配になって、あたりを見渡し、作法を伺う。すると、出入り口の近くに記帳台が設けられ、来訪者の名前を記入するようになっていた。そこで、撮影許可証の札をもらえるようだ。
馬鹿正直に名前を書いていいのか。季世との続柄になんて書けばいいんだ。
っていうか、本名を書くとOBだってバレるじゃないか。
偽名にしても、知り合いに会ったら即アウトだ。
幸に与えられたクエストがここまで困難だとは思わなかった。
仕方なく、本名を書く。
友達の文化祭に遊びに来ちゃいけない決まりもない。
やましいことがなければ、落ち着いていればいいのだ。
ほどなく、生徒達が教室に作った簡易的なステージに入場してきた。
観客たちの拍手が間近に響く中、緊張で硬くなったり、それを誤魔化すためにふざけあったり、逆に笑ってしまったり、今こうして見ると中学三年生もまだまだ子供でかわいいな、と思う。流石に、ふざけあうにしても程ほどで緊張感を取り戻して、落ち着きも備えていた。
一様に、同じ制服に身を固める、黒髪の少年少女たち。
その中に、季世の姿を見つけて、にわかに身体が熱くなる。
前説が始まり、観客席は温かい緊張感に包まれる。
まずは、フルートの演奏から。
吹きすさぶ、冬の風が、雪を運んでくるような音だった。
装丁された台本を開いて、物語が語られ始める。
「雪のひとひらは、ある寒い冬の日、地上を何マイルも離れたはるかな空の高みで生まれました。灰色の雲が、凍てつくような風に追われて陸地の上を流れていました。その雲の只中で、このむすめのいのちは芽生えたのでした――」
もうすぐ時計は十五時を示す。
幸の手術がもうじき始まる。
*
――二週間と一日前。
無菌室に入る前に、幸に本を渡した。
それは、事前に幸に頼まれていたおつかいの分と、結局渡しそびれていた『雪のひとひら』の文庫本だった。
重ねて渡した本の中からこれを見つけて、幸は俺へ差し出す。
「これは、いらない」
「え。なんで。もう読んだ?」
「うん。僕、この本嫌いだ。恵君は、読んだ?」
「読んだよ。……俺は、感動してたけど」
「雪がさ、聞き分けが良すぎるんだよね」
「え? ああ……」
ゆき。
彼が自分を指したのかと思って、一瞬理解が遅れた。
「行く手に降りかかる災難、苦痛、理不尽をさ、神様の思し召しだからって受け入れて納得しちゃうんだ。僕には理解できない神経。神様って、人間みたいに欠陥がある存在なんだろうね。愛するものに、わざわざ苦痛を与えるなんて。僕ならぜったい避けるよ」
幸は、一段フィルターを剥がしたむき出しの性格を見せてくれたみたいだった。
思っていたよりも、獰猛で勝ち気だ。
それが、幸の生命欲の源だった。
「考えてみれば、そうだよな。苦労した人が人間的に立派になるとは限らないんだよな」
「立派な人は、大抵苦労してきたんだと思うけど。全員が全員、そこまで生き延びられるかなんて保証はないよ。苦労してよかった、なんて、苦労が終わってからじゃないと、そのあとの結果を見てみないと、言えないよ」
同じようなことを、この間父親に言われたっけ。
俺たちもずっと、幸が病気になってよかった理由を探していた。
そして、幸が病気になったおかげでもたらされた良い変化を、見つけようとしていた。
理由なんか、本当は、一つもない。
ただ、偶然の、巡り合わせでそうなった。
誰が悪いわけでもなくて、たまたま不運にも、病気に罹っただけだ。
そこに、これといった確かな原因はない。
運悪く、条件が揃ってしまった。それだけだ。
幸が病気になったおかげで、相庭家は食生活に気を使うようになった。
健康維持に努めるようになった。父方の祖父母はお遍路巡りで体力をつけて、新しい趣味を得て生活に張りが出来、年齢のわりには元気に過ごしている。
理由がほしかった。
悪いことばかりではないと思いたかった。
悪いことや、不安や恐怖から目を逸らして、前向きなことだけを視界に入れて、見て見ぬふりを続けてきた。
幸が病気になってよかったことを挙げ連ねるばかりに、まるで、幸が病気になったことが善い事であったような言葉を、幸本人へぶつけてきた。繰り返し、何度も。この六年、ずっと。
だから、幸も、素直に嫌がることができないまま、強がりと建前で自分を縛りつけてきた。
息をするための喉さえも縛り上げた、その鎖を、解いていかなきゃならない。
本当なら自分たちが持っていなきゃいけなかった、重たい鎖だ。
一人ずつ分け合えば、一人頭の重量は、それほどでもないはずだ。
「――雪は、死ぬ瞬間に理解するんだ。災難は、全部意味のあることだった、って。ぞっとするよ。僕は絶対、跳ね除けてやる。今までの苦痛の分、取り返してからじゃないと、死ねないよ」
「うん。そうだ。幸には、この先の人生、良いことが沢山待ってるはずだ。だから、手術も、成功するよ」
「うん、ありがとう」
幸は笑う。背後の窓は、大きな青空を映している。
「恵君、僕ね、強がりじゃなくて、ちっとも怖くないんだ。今度の手術のこと」
俺が差し入れた本の背表紙を眺めながら、幸が呟いた。
「夏のあの件で、僕は、確かめたかったんだと思う。季世の言葉を信じたくて、あんなことをしたんだ。結果的に、こうして、僕は生きてる。それが、充分な証拠なんだ。僕は、死なない。次の手術でも、絶対に死んだりしない。だって――」
「不死病、だから?」
「そう」
答えて、無邪気に笑う。
「先が長いな。でも、それくらい命が続かないと、今までの分を取り返すには足りないから、ちょうどいいな」
最初に感じたのは、憤りだった。
季世の紡ぐ軽率な嘘に腹を立てた。
でも、それがいつしか、幸を、俺を、心強くさせていた。
季世の言葉は、呪文だ。
こうやって、俺たちに勇気をくれる。
嘘でも、本当でも、構わない。
それは、俺たちの願い事だ。
「あと、そうだ。報告しておく。僕ね、季世に告白したんだ。好きなんだ、季世が」
えっ。
――と、言葉にならず、絶句した。
「でも、返事は手術のあとに、ってお願いしちゃった。後悔してる。全然落ち着かないんだよね、気分が。ドキドキするよ」
「お――思い切ったなあ」
すごい。その行動力。
やっぱり、幸は兄だな、と思う。弟よりも先を行くんだな。
俺には色恋沙汰なんて、まだ全然縁がない。
具体的な想像も、あんまりできないままだ。妄想となれば別だけど。
「恵君も、素直になったらいいよ。夏休み、妬いてたよね。それで見舞いに来なくなっちゃったんだ、知ってるよ」
「えっ、え!?」
「気づいてないの? 恵君だって、季世のこと、好きでしょ」
「俺がっ――!?」
俺は、どうなんだろう。
正直、よく分からない。
「自分の胸に聞いてみたら。それじゃあ、次は十一月、手術のあとでね」
俺の心を掻き乱しておきながら、幸は平然とそう言った。
命をかける手術になるのに、まるで日常のような言い草で、その何気なさに励まされた。
――季世は、幸になんて答えるつもりなんだろうな。
*
「生まれおちてこのかた、彼女の身に起こったあらゆることどもの裏には、何とまあ思慮深くも用意周到な、えもいわれず美しくこまやかで親身な見取図がひそんでいたものでしょう。いまにして彼女は知りました。この身は、片時も、造り主にわすれられたり見放されたりしてはいなかったのです」
幸の思いがけない発言のせいで、季世を見ていることが少し恥ずかしかったけど――そんな気持ちも、朗読に耳を傾けるうちに消えていた。
季世の、よく響く声が心地よい。
その一節が、ずっと耳に残った。
神様の目の届く場所に、幸もちゃんといるだろうか。
季世も、俺も、その範囲内にいるのだろうか。
実感できたことは、ないと思う。
幸は、神様に、運命に、幸福に、見放されたみたいだった。
でも。
俺も、母さんも、親父も、季世だって、今、幸のことを願っている。
手術が成功しますように。
幸が長生きしますように。
苦しんだ分だけの幸運が、彼の未来に待ち受けていますように。
――エピローグに差し掛かり、フルートが幕開けと同様の曲を奏でた。
来客の温かい拍手が教室いっぱいに響く。
どの子供たちも、自らの親や親戚を見つけて、ほっとしたような、照れくさそうな笑顔を浮かべる。
俺は季世を見ていた。
季世も、俺を見つけた。
彼女は、意外そうに目を見開いて、思いがけず隙の多い、子供っぽい笑顔を浮かべた。安堵して、全身の緊張が解れたような。
見守られていたことに気づいた、歳相応の、幼い笑顔だった。
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