Episode: 05-03 傷跡

 季世のローファーは流されていて、俺のぶかぶかのスニーカーを履いていた。

 川から、季世の家まで、転々と道路に水滴が染みを作る。


 俺は、裸足で季世の隣を歩いた。


 時々小石を踏む痛みに、生きている実感を得て、笑ってしまう。

 命の危機を経験したせいで感覚が麻痺しているのか、それとも、羞恥を感じることさえできないほど疲れているのか。

 ずぶ濡れで歩くことに抵抗を感じなかった。それさえも、妙に、楽しかった。


 濡れ鼠のまま季世の家に上がった。

 シャワーを浴びて着替えを借りる。それは、防腐剤と一緒に長いこと衣装ケースの中で眠っていた男性用のパジャマだった。

 近所にコインランドリーがある。

 あと一時間もしないうちに、俺の服は乾くはずだ。

 季世も濡れた服を着替え、髪を乾かし、ひとつにまとめていた。


 座卓について、二人で、それぞれコインランドリーからの帰り道にコンビニで買った弁当をつつく。

 変な感じだった。

 今さっき、死にかけた二人が、旺盛に食事をしている。

 極限の緊張状態が過ぎてみると、消耗した分、腹が減って仕方がなかった。


「――危なかったな。前みたいに増水してたら、絶対助からなかった」


「うん。でも、今日は違った」


 胃の中から、まだ川の匂いが漂う気がした。多分、気のせいだ。

 あの状況で、財布が流されなかったのは幸いだった。スマホは犠牲になったけど。

「――あ」


「何?」


「文庫本。ポケットに入れたままだったんだ。でも、多分川に落としたな」


「大事なもの?」


「分からない。幸に投げつけられて、弾みで持ち出しちゃったんだ」


 ズボンを脱いだときには財布とスマホのことしか気にしていなくて忘れていた。


「雪のひとひらって本」


 と、座卓の端に置いてあった紙束が目に入った。

 コピー用紙を束ねたもので、縦書きに文章が印刷されている。


『三年一組 朗読劇 雪のひとひら』


「あっ、それと同じ?」


「あ――うん。幸に話したの。文化祭でやる、って」


「有名な本?」


「うん。ポール・ギャリコの。アメリカの作家」


 季世の影響で読み始めた本だったのか。


「どんな話?」


「雪の結晶の、生涯の話。それを、人の人生に例えている」


「なるほど……?」


 道徳的な題材で、いかにも中学生の文化祭にふさわしい内容に感じる。

 いずれにせよ、早く幸に返さなきゃ。



 乾いた服に着替えて季世の部屋を後にする。

 町へ出ると、さっきまで起きたことに、現実味を全く感じられなかった。


 ――生きていて、よかった。


 帰りがけに本屋に寄る。

 ダメモトで探したつもりだったが、目当ての本は見つかった。

 どうも定番のようで、書店が独自に作った平台の『読書の秋の推薦図書』コーナーに並んでいた。

 目に焼きついていた鮮やかな紺色の表紙に、雪の結晶が浮かんでいる。

 濡れた小銭で会計を済ませる。

 乾かしきれなかった財布と壊れたスマホにだけ、騒動の名残があった。



 明日、一番に幸の見舞いに行こうと決めた。

 明日は土曜日で、昼から見舞いに行ける。


 その晩、良く眠れなくて、買って来た本をなにげなく開いた。


 文字が大きくて、それほど文字量がないのだと判る。これなら読みやすそうだな、と思って目を通して、気づけば最後まで読み終わってしまった。

 それでもまだ、朝は遠い。秋が来て、夜が長くなっていた。

 本を一冊読み終えた疲れと達成感で、そのあとは眠くなって、朝まで目を覚まさなかった。

 


 朝、起きて居間へ行くと父がテレビを眺めていた。

 母の姿はない。


「母さんは? 病院? パート?」


「おはよう、恵。ママは病院だ。そのあとパートに行くって」


「そっか。朝飯、なにか食うものある? パンとか」


「よし、父さんが作ってやろう」


「え。なんで」


 いいよ別に、と断る前から、親父が動き出した。

 スウェット姿のまま、冷蔵庫とシンクとコンロの前を行ったり来たりする。

 俺は仕方なくテレビを眺めてぼーっとしていた。

 病院には、母さんが仕事に出るくらいの時間に行けばいいかな。

 幸は、母さんの前では、いつも通りなんだろうか。

 つまり、明るく前向きで決して希望を失わない、清浄で朗らかな少年を演じているのだろうか。昨日の今日でも、そうなのだろうか……。


「できたぞ、恵」


 親父が皿を出してくれる。


 トーストと、ベーコンエッグだ。

 無難な出来栄え。でも、素朴ながらに嬉しい。

 もりもり食べているうちに、親父はコーヒーを二人分淹れてくれる。

 あまりに甲斐甲斐しいから、なんだか不気味だ。


「親父。なに? 何か、言い難いことでもあるの?」


 思い切って訊ねる。

 そんな思い切ったこと、普段なら出来ない。

 昨日死にかけたことで、心境の変化があったのか。

 つまり、まどろっこしいことはなしにしたい。

 いつ死んでもおかしくないのが人間なのだから、いつでもきっぱりしていたい。

 包み隠したり、飾り立てたり、遠回りはなるべくしたくない。そう思った。


「それがな、恵。父さんには、言い難いんだ。だから、できれば恵から言い出してほしい」


「はぁ?」


 何のことだろう。心当たりが多すぎた。

 まず、季世の存在。彼女の言動について。昨日、幸と喧嘩したこと。

 それから、川で溺れかけたこと。そのせいでスマホが水没故障したこと。


 ――前言撤回だ。

 隠していることで穏便にことが運ぶなら、なるべく隠し通したい。


「進路のことだ。先生から、電話があった」


「ああ、そっち……」


「うん。こっちじゃないほうについては、改めて時間を取って聞かせてもらおうかな。何それ。どんな隠し事。なにかあったの? 彼女? 彼女できた?」


「今はそっちの話なんだろ!」


 口が滑った。親父は興味津々の様子だが、コーヒーを飲んで、一度落ち着いた。

 進路の話なんて、今はどうでもいい気がするのに。


「恵君には悪かったね。ずっと、うちは幸が優先だった。幸のことで、いつも頭が一杯、手一杯だ。だから、恵君とじっくり話す時間がなかった。一人で、なんでも決めさせてた」


「なに、そういう話……」


「えらいよ、恵は」


 思いがけない言葉に、胸が詰まる。

 咄嗟に反発心が沸くのは、感情の裏返しだと分かった。

 報われた気がして嬉しかった。

 でも、そんな一言で済むことじゃないとも思った。

 そんなことより――と何より思う。


 俺のことなんか、どうでもいい。

 俺だってそう思う。


「まず、幸だよ。それで間違いなんかない。俺は後回しでいい」


 俺自身も、そうやって俺のことを後回しにしてきた。

 だから、今更、俺を気にされても困る。


「いや、だめだ。恵は本当に高校を出てすぐ働きたい? それが、家計を助けるためって考えだったら考え直してみて。そうじゃなくて、やりたいことがあるなら応援する。気を使わなくていいから、考えてみて。恵にはもっと考える時間が必要だと思う。まずは、なんでもいいから、進学してほしい。お金のことは気にしなくていい。バイトで溜めてるお金も、自分のことに遣ってよ」


「でも、うちは――幸が……」


「お父さん、これでも頑張ってるんだぞ。ママもやりくり上手だ。お互いのじいさんばあさんからも協力してもらっている。だから、幸の治療費と恵の学費くらい、心配ないよ」


「でも、でもさ……」


 落ち着かない。

 急にそんなこと、言われても。

 自分の将来を考えろ、なんて。

 今まで、言われてこなかったじゃないか。


 明日、幸がどうなるか。

 そればかり考えてきた。


 それが相庭家だったのに。


「でも――それじゃあさ、俺だけ、頑張ってないじゃん。俺だけ苦しんでないじゃん。俺、ずるくない? 幸があんなにしんどいのに、俺だけ学校行って、気楽に暮らしてるのってさ――」


 親父は、いつも仕事で忙しい。

 まとまった休日だって、何年も取ってない。趣味に興じる姿を見たこともない。

 母さんは、好きだったピアノをやめた。

 嫁入りの時に持ってきた、少女時代から愛用していたピアノを売り払って、医療費の足しにした。ピアノを演奏した指が、長いパート勤務でぼろぼろになっているのを知っている。


 俺だけが、何も犠牲を払っていない。


 俺だけが、のうのうと暮らしている。

 ろくに働きもせずに飯を食って、苦痛もない毎日を送って、当たり前に朝を迎えることに、何の疑いもない。何にも脅かされていない。

 俺は、幸に比べて、親父や母さんに比べて、何の苦労もしていないんだ。


「……そんなの、ずるいじゃないか、俺一人だけ」


「それでいいんだよ。恵まで苦労したらいやだよ。そうならないのが、父さんたちには嬉しいんだよ。恵にまで我慢させたくない。恵には、恵に出来ることをして欲しいんだ。苦労は、あとでいくらでもできるよ。嫌でもすることになるよ。だから、今、買ってまですることでもない」


「普通は、逆だろ」


 若いうちの苦労は、買ってでもしろって言うだろう。

 でも、分かった。

 ――若いうちに苦労して、本当にそれが報われるなんて、誰が保証してくれるのか。幸の味わった苦労も苦痛も、それがいつか大きな幸運になって戻ってくるなんて、誰にも断言できない。その前に命が尽きる可能性だって、充分にある。

 いつ死ぬとも分からないなら、望まぬ苦労を負う必要はない。

 それが可能な状況ならば。

 俺にはそれが可能だった。

 ただ、幸を横目に、そういうわけにはいかなかったんだ。


 罪悪感で、ずっと苦しかった。

 後ろめたくて、仕方がなかった。

 言い訳をしないと、何もできなかった。

 忙しくてくたびれて、疲れて辛いほうが、気が楽だったんだ。


 幸と少しでも近い状況でいないと、自分だけずるをしているみたいで、落ち着かなかった。


「だって、だって、俺は……俺がさ、本当は、病気になればよかったんだよ。俺は、幸みたいになりたかった。幸みたいに優しくなりたかった。幸のほうが、きっと将来みんなの役に立つ大人になるじゃん」


 ――『どうしてきみじゃなかったんだろう。どうして、僕だったんだろうね』


 同じことを、俺もずっと考えていた。

 病気になったのが、どうして俺じゃなくて幸だったのか。

 どうして神様は、幸を選んで苦しめるのか。どうして俺を見逃したのか。


 きっと、神様は間違えたんだ。


 幸と俺を間違えて、幸のほうを、病気にした。

 本当なら、俺がそうなるべきだったんだ。

 だって、幸のほうが優秀だった。

 成績が良くて、人当たりが良くて、みんなから慕われていた。

 生きていく価値があるのは、幸のほうだと思った。

 親父も、母さんも、『どうして幸のほうなんだ』と思ったに違いない。


 だからずっと、居心地が悪かった。


 いけないことを、ずるいことをしている気持ちでいっぱいだった。


「本当は、俺が病気になるべきだったんだよ」


「――病気になったのが恵だったら、幸もきっと同じことを言うよ」


 そうだろうか。

 そうだろうなと想像がついて、鼻の奥がつんと痛んだ。


 昨日の幸の慟哭が、耳の奥に蘇る。

 もう我慢したくない。

 頑張りたくない。


 ――そんなの、誰だって一緒なんだ。


 それなのに、頑張る気力も、我慢できる許容量も、人より少ないはずの幸が、今までどれほどの無理を強いられてきたのか。

 その傍らで、俺は、バイトに励んでみたり、自分の進路を勝手に狭めて決め付けたり、苦労したつもりになって、ただの独り相撲をとっていた。

 無駄な苦労を負って、勝手に疲れていただけだったのか。


「恵。怒らないで聞いて欲しいんだけどさ。きみは、当たり前に、まだ子供なんだよ。だから、親を頼って、もっと自分勝手でいてくれないと困るよ。頼むから、大人を先取りしないで、ちゃんと高校生っぽいことしておいて」


――つまり、そういう、甘やかしだ。


 徒労感を塗りつぶし、安心感が湧き上がる。


 俺は、見放された子供じゃなかったんだな。


 歯を食いしばってこらえたのに、ずっとずっと、ずっと我慢していた涙が、一滴、二滴、テーブルの上に零れ落ちた。情けないけど、どう繕っても、俺はまだ十七で、高校二年で、それ相応の、子供だったのだ。



 病室を訪ねると、ベッドは空っぽだった。


 パジャマが枕元に畳んで重ねられている。

 だから、今、幸は私服に着替えているんだなと分かった。


 つまり、季世と一緒にいるのだ。


 なんとなく、予感があって、屋上へ向かう。

 鉄の扉を開けると、雲ひとつない、晴れ渡る空が広がっていた。


 二人は、花壇に添って並んだベンチに腰掛けている。


 幸は膝にブランケットを掛けて、目を閉じていた。

 眠っているのだろうか。

 季世は手元の書類に目を落としている。あれは、台本だろうか。

 口の中で何か呟いている。――朗読劇の練習をしているのだろうか。

 ふいに、季世は顔を上げ、俺に気づく。


「恵」


 しーっ、と人差し指を立てても遅かった。

 幸が目を開ける。

 身のこなしを見ると、どうやら、寝ていたわけではないようだ。


「――幸。昨日、ごめん」


 幸は俺を見た。

 その目元が腫れぼったい。俺も、似たような顔をしていると思う。


「恵君」


 幸の呼ぶ声に、怯えが滲んでいた。

 だから、彼は、己の言動を後悔しているのだと理解できた。

 そうと分かれば、怖いことは何もない。

 お互いに、仲直りを望んでいるのだから。


「ごめん、幸。幸のこと、俺は、ずっと、すごい強い人間だと思ってた。俺とは違う、優秀で、完璧で、人格者だって、そうであってほしいって、願ってたんだ。病気になっても毅然としてて、勇敢で、明るくて、楽観的で――俺たちのほうが励まされた」


「恵君。それは――」


「それは、幸の努力だったんだよな。生まれつきの性質なんかじゃなくて、頑張って、そういう態度でいたんだよな。だって、そうしないと――幸は、ずっと怖かったんだろ。弱気になった途端、病気に飲みこまれて、命を落とすんじゃないか、って――。ずっと、俺も、わかってた。幸のは、本当は空元気だって感じていた。だけど、都合がいいから、俺たちみんなで乗っかったんだ。重かったよな。苦しかったよな。ごめん、幸」


「……違う。僕も、強がりを、みんなが信じてくれたから、勇気が出たんだよ。誰か一人でも、それは違うって、考えが甘いって指摘されたら、僕はとっくに潰れてた」


 季世を支えに、幸が立ち上がる。

 俺も、駆け寄って手を貸した。


 触れると、幸の身体は熱かった。


「恵君。ごめん。酷いことを、言ってごめん。ただ、羨ましいだけだ。妬んでいるだけだ」


「幸……」


「僕、ずっと、話してないことがある。ずっと、怖くて言えなかった」


 支えながら、幸をベンチに座らせる。

 幸の隣に、腰を下ろす。

 幸は囁くような声で、話してくれた。


 ――それは、三年前。


 まだ群馬の病院にいたころ。

 幸は、一度、危篤状態に陥った。


 深夜だった。

 俺は父親の車に乗って、東京から群馬へ向かった。


 その頃、幸の心臓は一度は停まり、様々な蘇生処置を試されていた。

 意識が、はっきりしていたはずがない。


 それはもしかしたら、ただの悪夢だったのかもしれない。

 でも、死の縁で、幸はその声を耳にした。


『まだ生きてる? じゃあ少し待ってて』


 発言したのが、看護士だったのか、医者だったのか。

 それは、幸の死を前提にした手続きを進める言葉だった。


 難病患者が多い入院病棟だ。

 医者や看護士が受け持つ患者の数も少なくない。

 伴う感情は様々なれど、彼らにとっては業務で、人の死は日常茶飯事だ。

 だから、心がないとか、失言だとか、そういうつもりはない。

 深夜の緊急事態で、相手も動揺していたかもしれない。

 連絡の行き違いがあったのかもしれない。

 ただ、何気なくこぼれたその一言は、幸の心に深く刺さった。

 かえしの付いた銛のような、鋭く、引っかかりのある言葉だった。


 だから、あの日から、ずっと幸の胸には穴が空いている。


 生きながらにして、死後の手続きをされていた。

 死ぬ予定を覆して、幸の心肺は蘇生した。


「――それからずっと、拭えない気持ちがある。僕が今生きているのは、何かの手違いなんじゃないか。本当はあの時が僕の命が尽きるときで、そのとき正しく死ななかったから、僕も、周りのみんなも、苦しみを味わっている。余計に苦痛が長引いて、余計にお金がかかっている。これは、意味のあることなのだろうか。ずっと疑問だったんだ」


「幸……無意味なわけ、ない」


「すべては、僕のせいだ。あのとき死んでいればよかったんだ。――でも、死にたくないんだ」


 幸は、そう言った。

 はじめて打ち明けてくれた、幸の不安の根源だった。


「早く病室を出たい。外に出たら、たくさんの人に会える。たくさんの人が生活していて、道を歩けばすれ違う。そのとき、少し勇気を出して挨拶して、自己紹介をして、そしたら、もしかしたら、その人と友達になれるかもしれないんだ。すごいことだ。誰かがいる。誰かと出会う。関係を築く。生きていくっていうこと。僕も、はやくどこかへ行きたい。病室を出ていきたい。町へ出て出会いたい。関わりを持ちたい。恵君が、季世に出会ったみたいに」


 そんなふうに考えていたなんて、知らなかった。


 俺は、幸のほうこそ羨ましかった。

 そんなふうに考えたこと、俺は一度もない。

 漫然と生きていたことが、後ろめたくて仕方ない。

 時間を、どれだけ勿体無く浪費してきたのかと怖くなる。

 それは、幸の目にどんなに贅沢に映っただろう。


「ごめん。幸。ごめん、俺、無神経で……」


「ううん。恵君のいる世界が、ずっと羨ましかった。健康な恵君が、恨めしかった。僕と同じになればいいって、もっと酷いことが起きればいいって、願った日もあるんだ。ごめん――。きみが、悪いわけじゃない。分かっているよ。僕を心から心配してくれている。そんなの、ずっと分かってるよ。ごめんね」


 幸が俺を見上げる。その喉元に、傷跡が刻まれていた。

 あの夏の夕立の匂いが、たちまち蘇る。

 あのときも、こうして支えられたら、その喉元に傷なんか出来なかったのかもしれない。


「幸。一緒に、みんなで、不安になればいいよ。一回一回、不安になったら、素直に弱音を吐いて、それから励ましあえばいいじゃん。見て見ぬふりしたら、無くなる訳じゃないんだよな。隠したって、消えるわけじゃないんだから。ちゃんと、そうしよう」


「うん。――うん。あのね、恵君。あのね、僕ね」


 幸は、泣きじゃくるように囁いた。


「僕、生きたいんだ」


 それは、きっと、あの夕立にかき消された言葉だ。



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