Episode: 05-02 世界の底に降り積もる

 夕暮れの川沿いを、ずっと歩いた。


 幸に投げられた言葉は、心が拒絶したまま、上手く思い出すことができない。

 ただ、言葉に乗せて投げつけられた憎悪だけがはっきりと胸を締め付けていた。


 あの夏の日。

 屋上で刃をつきつけられたのは、幸自身じゃなくて、俺だったかもしれない。

 あんなふうにいっぱい血を流して、俺は死んだのかもしれない。

 そのほうが、幸には嬉しいのだとしたら。

 俺は。


 死んだほうがいい。


「……」


 死ぬのかー。


 現実味がない。

 死ぬって、どうやればいいんだろう。

 幸は、あんなふうになっても生きている。

 あんなにいっぱい血が流れても、生きていた。


 あれこれと手段を考えるうちに、怒りがわいた。

 裏切られ、傷つけられたのは俺じゃないのか。

 ――違う。分からない。混乱している。


 どうしてこんなことになったんだっけ。


 川を眺めて歩きながら、発端はすべて橋の上にあったように思う。

 今。

 辿り着いたのは、季世と出会った橋だった。

 そこに、季世が立っていた。


「恵」


 と、静かな、でも通る声が俺を呼ぶ。


「季世。……幸は」


「お医者さんに、任せてる。あのあと、過呼吸みたいになって……でも、心配ないって」


「そう。うん……」


 俺は一体、どこからどう歩いてきたのか。

 季世は、俺を追い抜いてここに来ていたのか。こんな偶然があるなんて。


「……探しに来た。心配だったから」


 季世の口から、意外な言葉が漏れる。


「そういう気持ちが、季世にあるとは思わなかった」


 言い方が皮肉っぽくなる。

 傷つけられたから、誰かを傷つけないと収まらない。

 そんな、自分本位な欲求に飲まれてしまう。分かっているのに、止まらない。


「楽しかった? 引っ掻き回して、構ってもらえてよかったね。俺はさ、本気で、幸のこと心配してたんだよ。だから、死なないなんて、軽率なこと言えなかったよ」


 ずっと、言いたくても言えなかったことがあった。


「不死病なんかあるわけないじゃん」


 それを言えば、何かを失うと思った。


「俺も、季世も、幸も死ぬよ。いつか絶対死ぬ。それが、遅いか早いかの違いじゃん。だからさ、子供じみたこと言って病人の気を引くみたいな、悪趣味な遊びやめろよな。いい迷惑だよ」


 季世の表情に変化はない。

 心の動きは現れないのか、それともそもそも動かないのか。

 冷たい風は、季世の黒い髪を揺らした。

 

 季世は平坦な、無感動な目で、俺をじっと見ていた。


 俺が失うのは、彼女からの信頼だ、と理解した。

 でももう手遅れだ。

 少しだけ、寂しい。

 だから、案外俺は、季世と幸と集まる時間が嫌いじゃなかったんだと思った。

 もう二度と、取り戻せないような予感があった。


 不意に、季世の薄い唇が開く。


「それじゃあ、見てて」


「――は?」


「絶対に、死なないから」


 呆気に取られていると、季世は意外なほどに軽やかな身のこなしで橋の防護柵を越えた。途端に、首筋に寒気が走る。


「季世! お前っ、まさか」


 そうして立っている季世の姿に、はじめて会ったあの日を思い出す。

 返事の代わりとでもいうように、駆け寄る俺を振り返ると、季世の足が地面を蹴った。重たい水しぶきの音が響く。


「馬鹿っ……」


 その言葉は俺にこそふさわしい。煽ったのは俺だ。

 慌てて俺も柵を越える。季世の沈んだ場所から、勢いよく気泡が浮かんでくる。

 身体はまだ浮かんでこない。

 衣替えしたばかりの長袖のセーラー服は、きっと水を吸ったら重くなる。


「季世っ! 季世っ……!」


 水泡が小さくなって、手がかりが曖昧になっていく。

 焦りに身を任せ、俺も川に飛び込んだ。

 


 飛び込んだ瞬間、空気で服が膨らんで体が浮いた。

一瞬後には頭から爪先まで水に沈む。

 冷たい水を含んでどんどん体が重たくなる。

 苦しさと混乱でもがくどころではなかった。

 何のために川に飛び込んだのかを忘れて、ただ酸素を求めて水面へ向かう。


 水面は真っ黒だ。

 この世の果てみたいだ。


 顔が、体中が痛い。

 水面にぶつかった衝撃と、鼻からたっぷり水を吸い込んだせいだ。

 それに、さっきから漂流物にぶつかる。体がどんどん沈んで行く。

 この川は、こんなに深かったのだろうか。

 体温を失いつつある体を動かすのは難しい。

 もう酸素も得られず、意識も鈍い泥のようだ。


 何かを追って、川へ落ちたはずだった。

 それを取り戻して、ここを出なくてはならない。

 でも、一体、何のために。

 信じてきた世界が、姿を変えて、俺を裏切ったのに。

 今更、そんなところへ戻る必要なんて、ないんじゃないだろうか。


(死ぬ、かな)


 もう何も見えない、光が失われた視界でそう感じた。深い。

 いつか動画で見た、マリンスノーを思い出す。

 悠々と泳ぐ長寿のサメの姿を幻視する。――苦しい。

 俺は、このままここで命を落とす。やがて下流に流れ着いて、変死体となって発見されて、きっと自殺として処理される。そうなる理由があるのだから。


 だから、もう。

 俺が死んだほうが、きっと幸も清々するだろうし――。


 ――諦めかける意識の縁に、何かが引っかかる。

 頭が諦めても、身体は苦痛に耐えられずに必死にもがいた。

 水を掻く手に、何かが触れる。

 白くて、光のような。


 それは、指だった。


 強く捕まえる。

 指の先には、季世の身体が繋がっている。

 何か、季世の首元から赤い色が広がる。

 血かと思った。それは、スカーフだった。


 一瞬で、色んな光景が脳裏に過ぎる。


 幸が自分の首筋にカッターナイフをつきたてた、あの瞬間。

 俺は本当は何を感じていたんだろう。


 ああ、これで終わるのか。

 やっと解放されるのか。

 長い闘病生活の終わりを、肯定する気持ちがないといえば嘘になる。


 死んでも良いなんて許していた自分が許せない。

 俺が、誰よりも先に幸を裏切っていたのかもしれない。


 そうだ。

 幸はなにも、唐突なことを言ったわけじゃない。


 幸のせいじゃない。

 季世のせいでもない。

 俺と、みんなの。家族の関わり方が、いつから歪だったのか――。


 季世がお見舞いに来ると、幸は朗らかに笑った。

 やっと呼吸ができたような、肩から力の抜けた顔をした。

 家族の誰にも見せない笑顔だった。


 多分、それは、俺たちが長い年月をかけて、幸から奪ってきた感情だった。


『良い名前をつけて、よかった。幸の名前は、幸運のことだな』


 父の言葉を、思い出す。


 あのときは、確かにそうだと納得していた。

 でも、考えてみれば、幸運であれば、そもそも病気になんてならなかったはずだ。

 俺たち家族は、いつだって、何か理由を見つけないと気が済まない。

 全ての事柄を、こじつけないと、やっていけないんだ。

 俺たちは負けてない、こんなことでくじけない、そうやって強がりを重ねて、まるで幸の病を歓迎するようなことを言った。無神経を重ねて幸を傷つけた。

 酷いことをしてきた。

 ナイフよりも先に、俺たちが幸を切りつけていたんだ。

 優しさのつもり、思いやりのつもり、でもぜんぶが幸によって許容された親切の押し売りだった――。


 後悔が、胸の奥から溢れ出す。

 まだ、このまま死ぬわけにはいかない。強く、そう思う。

 

 謝らないといけない。

 まだ、何も言葉にしていない。

 だから――。



 ――気づくと、河川敷にいた。


 あたりは真っ暗で、何も見えない。

 ここがどこか、分からない。ただカエルの鳴き声があちこちから響いていて、押しつぶしたらいやだなと思った。


 身体が求めるままに、呼吸を繰り返す。

 水を吐いてから喉が痛かった。濡れた身体に夜風が冷たい。


 自分が、生きていることに気づく。


 次の瞬間、焦りに全身が熱くなった。


「季世!」


 季世の姿を探す。

 まさか俺だけ助かったのか。

 すぐ傍らに、白い手首が光って見えた。季世の身体はぐったりと力を失っている。

 顔色は分からない。呼吸も鼓動の動きも、分からない。


「季世、季世っ……!」


 駆け寄って、薄い胸板に耳を重ねる。

 そもそも自分の心音がうるさくて、ほかの音がよく聞こえない。

 血の色を失った唇は薄く開いたままで、そこから呼吸があるのかないのか、確かめようと耳を近づける。

 分からない。

 こういうときは――人工呼吸。咄嗟に脳裏に閃く四文字に、怯む。

 どうやるんだ。曖昧なイメージしかわかない。

 唇をつける。つけたあとは?

 どうしよう。俺は、偉そうなことだけ言って、応急処置のひとつも覚えてなかった――今は自己嫌悪している場合じゃない。


 助けを呼べばいいのか。連絡手段になるスマートフォンは水に浸かって使い物にならない。周囲に人の気配もない。


「季世、季世っ。死ぬな、まじで、頼む……!」


 抱き起こして肩を揺すり、背中を叩く。

 そうだ、逆さに振ればいいのか。

 ひらめいて、季世の銅に手を回し、身体を抱き上げる。その途端、


「うぇっ、げほっ、げほっ、げほっ!」


 季世が動いた。

 苦しげに水を吐き、激しく咳をした。荒い呼吸を繰り返す。


 安堵が全身を脱力させて、そのまま倒れる。俺の身体に乗っかったまま、季世が身体を起こして、俯いて、何度も何度も噎せている。

 眉を歪めて、苦しそうだ。さっきまで真っ白だった顔が赤い。

 それから、俺を見つけて、見下ろしたままで、少しだけ口角を上げた。

 そんな勝ち気な顔をする季世が、新鮮だった。


「……ほら。死ななかった」


 濡れた墨色の髪が滴って、俺の頬をくすぐる。

 もどかしくて、でも、身動きができない。

 季世がまだ身体に載ったままで、どうしていいのか分からなかった。

 薄い唇は、次第に血の気を取り戻して赤く色づく。

 たっぷり時間を置いて、やっと言葉を理解して、勢いのまま叫んでいた。


「バカっ! 死ぬかと思った、本気で!」


 ――でも、生きてる。

 まだ心臓は早鐘を打って、どくどく言っている。

 怒りよりも、安堵のほうが大きくて、気が抜けて、血の気が引いて頭が冷えた。


 こんなふうに河川敷に寝転がって、無邪気に遊んでいた頃があって、あのときの幸はまだ健康な少年だった。いたずらして、親に怒られたとき、かばってくれたときもあれば、俺に全部なすりつけたこともある。でも、すぐに仲直りして、また一緒に遊んだ。幸は面倒見のいい兄貴だった。だけど、幸だって子供だった。


 ――なにも、病気にかかって突然聖人になんてなるわけないんだよな。


 冷たい川に浸かって、冷たい風に吹かれて、頭はすっかり冷えていた。

 さっきは感情だけしか受け取れなかった幸の言葉が、耳の奥にまだ残っている。


 言葉の一つ一つが、幸の本音だ。

 今まで飲み込んできた本音だ。


 違う。

 それは、俺たちみんなで、幸に飲み込ませてきた弱音だったのだ。


 前向きな未来を信じたいから、マイナスな想像から目を逸らしてきた。

 それを言葉にするだけで、運命は簡単に残酷なほうへ傾くような気がして怖かった。だから、明るい未来しか、言葉にしないようになったのだ。弱音を許さなかったのだ。


 愚痴を吐くことさえ禁じられて、幸はずっと、苦しかったに違いない。

 不安を分かち合うことを嫌がって、俺たちだけが、前向きな言動しかしない幸に救われていたんだ。


 身体の上で、ゆっくり、季世が動いた。

 落ち着いたのか、起き上がって、服の水気を絞っている。ずっと季世が重なっていたところが温かかったのに、離れた途端に冷えて、心細くなる。


「ごめん、季世。八つ当たりだった」


「うん。いい」


 短い言葉が、俺を許す。


「――助けてくれてありがとう」


「いや。俺は何もしてない。季世が息してくれて、よかった」


「うん」


 ――本当は、なんだっていいんだ。

 嘘でも、本当でも、構わないんだ。


 ただ、ずっと俺は、幸が、俺より季世を歓迎するから、悔しかった。


 俺だって、幸のことを、ちゃんと励ましたかった。

 俺がどんなにやっても難しかったことを、季世が簡単に達成したから、面白くなかったんだ。


 妬きもちを焼いていた。

 幸が嬉しそうで、俺は嬉しかったのに。


 いつだって、自分の気持ちを、自分で見過ごしてしまう。

 幸は、いつだって自分の気持ちを見つめて、飲み込んできたんだな。


 はじめて打ち明けてくれたんだ。

 本当のことを。


 だったら、俺も本当の話をしたい。

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