第5話「神さまの見取図」
Episode: 05-01 ゆきのひとひら
季世の家から帰ってきて、誰もいない部屋の明かりをつける。
いつ、見舞いに行こうか。
母はまだ幸のつきそいで、病院の最寄りの短期賃貸マンションに泊まっている。
幸はもう相部屋に戻ったと聞いた。
不安定だった容態が、ようやく安定してきたらしい。
スマホのカレンダーアプリを眺めながら、ぼーっとしている。
その画面を、母からの着信通知が塗りつぶした。
「もしもし。……どうしたの?」
急な連絡に、心臓が汗をかくような緊張感を味わう。
『恵君、あのね。幸に合う臍帯血が見つかったの。今年中に手術ができるの』
母の声は弾んでいた。
もう、手術が成功した気でいるみたいだ。
咄嗟のことに何も言えずに、ただ母の声に耳を傾けている。
でも、その内容のほとんどが頭に入ってこない。
――今年中に移植が出来なければ、幸の余命はとても短くなってしまうという。
だけど、移植が成功すれば、退院できるかもしれない。
――成功すれば。
母は、手術さえ出来れば、失敗などありえないような楽観的な口調だった。
『幸君、落ち着いてきて、このごろは随分調子がいいの。私も家に帰るわ。荷物送るから、届いたらお母さんの部屋に置いてくれる?』
「あ、うん」
『パパには、もう話してあるから。じゃあ、よろしくね』
「わかった。じゃあ」
通話が終わる。
良い知らせを受けたはずなのに、母のように素直に喜ぶことができなかった。
まだ結果は分からない。
それなのに、今から浮かれて喜ぶのは難しい。
こっちが油断すればするほど、運命は底意地の悪い性根をしているから、結果が期待と真逆のものになるような気がして怖かった。
*
九月の末になると、中間テストを控え、皆部活やバイトを抑えるようになって、でもまだ高校二年の半ばだからと、緩んだ空気にだらけている。
このテストを終えれば、進路調査面談がある。
俺の気持ちは変わっていない。
高校を卒業したら、働く。
来年は受験勉強ではなく、就職活動が待っている。
今は自分の進路のことより、来月に控えた幸の手術のほうが気がかりだった。
――それよりも、明日のこと。
明日、幸の見舞いに行く。
八月のあの一件以来になる。
緊張がないといえば嘘になる。
でも、久しぶりに幸の顔が見たいという気持ちのほうが大きい。
会えばきっと解決する。安心できる。
幸は以前と同じ、落ち着いた態度で、明るく笑ってくれるはずだ。
*
病院前の駅で季世と待ち合わせをして、幸の病室へ向かう。
季世も学校帰りで、制服姿だ。
衣替えがあったのか、長袖のセーラー服になっていた。
「もしかして、今日が衣替えか」
「そう。まだ、昼間は少し暑い」
「そうだよな……」
言われてみれば、今日から十月だ。
俺はまだ半袖のシャツを着ている。
秋服の季世と並ぶと、猛烈に、自分が服選びを間違えているような気がして恥ずかしい。
通いなれた病院の、十階の、角の相部屋。
相庭、とペン書きされたパネルがルームプレートに差し込んである。
その他に、今は誰の名前も並んでいない。
……本当に、幸はまだ生きていた。
心のどこかでみんなに騙されているような気がして、少し不安に思っていた。
メールの返事をくれるのは、幸のスマートフォンを操作する母だったのかもしれない。みんなで口裏を合わせて、俺に幸の死を隠そうとしているのかもしれない。
謎の被害妄想に囚われて、眠れぬ夜を過ごしたこともあった。
よく考えれば、そんな苦労をして俺を騙して、誰が得するというのか。
俺がぼうっとしているあいだに、季世の白い足が部屋に踏み入った。
「幸。こんにちは」
「季世。いらっしゃい、こんにちは」
久々に聴いた幸の声は、思ったより元気そうだ。
相手が季世だからかもしれない。
ベッドの周辺には、相変わらず文庫本が積み重ねられている。
手元ではタブレットPCのディスプレイが淡く光を放っていた。
しっかり着替えて、ニットキャップを被っている。
姿勢よく座っていて、季世を招き入れて、嬉しげに笑う。
「冬服も似合うね。衣替え、今日から?」
「うん。ありがとう。あと――」
季世に遅れて、部屋に入る。
幸は、俺を見つけて目を見張った。
季世に夢中で気づかなかったのか、部屋の中からは俺の姿は陰に入っていたのか。意外そうな顔だ。――そうだ。俺は、今日、季世の見舞いに便乗している。
俺からは、直接行くとは伝えていなかった。
来ないでほしい、と言われるんじゃないかと思って怖かったから。
動揺したように見えたのは一瞬で、幸は落ち着いて息を吐いた。
「――恵君。久しぶりだね」
「幸……」
他愛ないメールを何度か交わした。
でも、直接喋るのは夏休みのあの日以来だ。
あの日の光景が、まだ目に焼きついている。
雨に洗い流されていく赤の色。鉄のような匂い。
幸はハイネックの服を着ていた。
だから、傷が今どうなっているのかは分からない。
傷跡が残るだろう、と母が嘆いたのを聞いた。
だから、そこに、まだ、あるはずだ。
幸の選択の証拠が。
「幸。思ったより、元気そうでよかた」
「うん、まあね。大部屋に一人だし、伸び伸び過ごしているからかな」
季世は慣れた様子で来客用の椅子を並べ、幸のそばに座った。
俺も、勧められた椅子に腰掛ける。
兄に会いに来ただけなのに、どうしてこんなに緊張しているんだろう。
久しぶりに会うからだろうか。
――自殺行為を選んだ兄の心境に、まだ理解が及んでいない。
あの一件で、幸を、知らない誰かのように感じた。
だって、俺の知っている幸は、自殺を選ぶような人間じゃなかったから。
川に身投げしようとした女の子に、相手を知りもしないのに、心から憤るような人間だったから。
「心配かけて、ごめんね」
幸は、以前と変わらぬ調子で、そう言った。
俺も、だから、前と同じに接したかった。
言いたいことは沢山あった。心配の言葉は、もう散々聞き飽きているだろう。
でも、口からこぼれるのは、そんな言葉ばっかりだ。
「幸。もう、大丈夫そうだな」
結局――自分が安心したいために、そんな言葉を選ぶのだと思う。
そして、それは、小さくても無数に幸の上に降り積もっていて、彼を押しつぶす。
その結果が、あの行為だったのかもしれない。
理解したのが、一瞬遅かった。
分かっていれば、もっと言葉を慎重に選んだのに。
俺の一言は、幸の小さな身体に染み付く呪いになる。
いつもみたいに、幸は微笑んでいた。
「恵君。僕ね、大丈夫だったことなんて、一日もないよ」
幸はいつもの世間話と同じ調子で、だから聞き間違えたかと思って混乱した。
今、何て言った?
聞こえた音が、上手く言葉として捉えられない。
「大丈夫なわけ、ない。分かるよね。僕病気なんだよ。きみと比べて、一目瞭然だ」
「幸。ごめん、そんなつもりじゃなくて――」
「分かるよ。いつだって、恵君は、そんなつもりじゃないんだ。どんな言葉で僕を傷つけても、悪意だったことがない。そっちのほうが残酷だよね。いっそ僕を傷つける意図があったなら、言い返すこともできたけど、きみは全く悪気がない。つまりね、僕が勝手に傷ついて、きみを悪者にしているだけなんだ。ずっとそうだった。悪いのは僕。きみは親切なだけ」
明らかな皮肉が、戸惑ったままの心に圧し掛かる。
「……ずっとって――いつから?」
「ずっと。僕はきみが憎かった。ねえ、どうしてきみじゃなかったんだろう。どうして、僕だったんだろうね」
幸の声が震えていた。
青白い頬に赤みが差していた。
同じことを、俺もずっと考えていた。
病気になったのが、どうして俺じゃなくて幸だったのか。
どうして神様は、幸を選んで苦しめるのか。どうして俺を見逃したのか。
「夏のこと。何かの間違いだって、みんな言うんだ。僕が自分を傷つけたのは、正常な判断じゃないって。不安とか、ストレスとか、状況が悪かったせいだって。恵君もそう思っているんでしょう? ――違うよ。僕は、ずっと考えていて、実行したんだ。ずっと、死にたかったんだよ。死に損なって、落胆してる」
「そんな――こと、言うなよ、幸。そんなこと、言うなよ」
「ここまでお金をかけてもらって、僕が自分で台無しにしちゃいけないって分かっている。でも、もう疲れた。もういやなんだ。手術をして、退院して、だけど僕は恵君みたいな健康な身体と人生を取り戻せるわけじゃない。病気はずっと付きまとう。この病に完治はないんだ。病室で二十歳まで育って、そこから外へ放り出されても、僕には何もない。友達もいない。学歴もない。経験もない。それなのに、突然、成人だ。今からなにをすればいいの? 何も出来なかった二十年の先に、何があるっていうの?」
「幸は、幸なら……」
幸なら、できる。
俺よりも頭がいいから。
俺よりも人当たりがいいから。
俺よりも人に好かれるから。
俺よりも人に優しいから。
だから、幸なら、いつからだって、やりなおせる。
そう信じていたのに、幸はそれを否定する。
俺の中の、どんな言葉も、声にならない。
幸の目尻から涙が溢れて、それを見て、俺の心臓が強く痛んだ。
兄が泣いたところなんて、入院してからはじめて見た。
それとも、いつも、人知れず、泣いていたのだろうか。
「生きることを頑張らなくても生きていけるきみが、目障りだよ。いなくなってよ、どっか行ってよ。視界に入られると、うざいんだ。僕はあのとき、あのときもしかしたら、きみを殺したかったのかもしれない」
静かで、搾り出すような声で、俺を傷つける。
幸の声が、喉元を引っ掻くようだった。
呆然としている顔に、何かがぶつかる。
文庫本だった。
それを手にして、椅子を立つ。
ふらつく足で、距離を置く。
困ったような顔をして、季世が俺を見上げた。
でもそれは一瞬で、すぐに幸に寄り添い、嗚咽する彼の華奢な肩を抱く。
幸は甘えるように季世の胸を借り、すがりついて泣いた。
そんな光景は見たくなかった。
弱々しくて、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
「もう我慢したくない! 頑張りたくない! 苦しいのも痛いのもいやなんだ。死ぬかもしれないって、その瞬間がいつでもおかしくないんだ。毎朝毎朝、生き延びてほっとするのに、時間だけが過ぎていてぞっとするんだ。取り残されていく。僕はどこにもいない。僕は何でもない。ただギリギリ死んでいないだけで、こんなの生きているって言えないよ。これはいつか終わることなの? 今こうして耐えた苦痛の分を、いつか取り戻すことができるの――? そうじゃないなら、一秒でも早く、お終いにしたいんだ」
しゃくり上げて、子供がわがままを言うように、喚いている。
俺は、何もできないまま、病室を出た。
幸の言われた通りにしたかった。
幸の視界に入らないように。幸に近づかないように。
季世と、二人きりになるように。
どこをどうやって歩いたのか、気づけば橋の上にいた。
日が沈むと、もう冷たい風が吹く。
夏よりも澄んだ大気が、壮絶なほど鮮やかな夕焼け雲を空に浮かべている。
まだ頭の中を、言葉で殴られたときのまま、何も考えられずに歩いていた。
喉が渇いて、自販機で水を買う。
そのときになって、片手に何か持っていることに気づく。
一冊の本だった。
醒めるような青い表紙。
タイトルを見る。
『雪のひとひら』
同じ音の響きに、胸の内で鼓動が大きく打った。
文庫を尻ポケットに突っ込んで、ペットボトルに口をつける。
そのときになって、口の中を切っていたことに気づいた。
透明なペットボトルの縁が、微かに赤く染まっていた。
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