Episode: 03-03 お守り
きっかけになったのは、幸に与えられていた課題図書だった。
バイトで行ったスーパーの、正面が本屋さんだった。
関東ハムのドイツソーセージイタリアン風味を焼きながら、視界の端で、ずっと本屋を見ていた。
有名な作家の新刊が出たのか、大きなポスターを店頭に張り出している。
客入りもひっきりなしだ。
幸は、あの作家のことを好きだったんじゃないか――。
二週間に一冊、本を読む。
それが幸との約束だ。
俺が一冊読むあいだに、幸は七冊読んでしまう。
前回、幸に本を運んだのはいつだっただろう。
もう二週間を過ぎているんじゃないか。
そのくらい、メールしてくれればいいのに。
夏休みだからって何か俺に遠慮があるのか、それとも、俺がおつかいをする必要がなくなったのか。
ともかく、一度、久しぶりに幸の見舞いへ行こうと思った。
*
数日ぶりに吸い込む消毒液の匂いが、夏の炎天下で自転車を漕いできた身体に、寒々しく染み渡る。顔なじみの看護士さんに挨拶をして、受付に名前を書いて、エレベーターに乗る。
十階へ。
幸の病室に入ると、他に誰もいなくて、なんだかいつもより静かだ。
ベッドを覆うカーテンが開いている。
窓を眺める、幸の小さな背中が見える。
幸の身体の向こうに、夏の青空が広がっていた。
雲ひとつない。あの空の下を、さっきまで自転車に乗っていた。
だから、病院との温度差に身体が震えてしまう。
もしかして、あれから季世は見舞いに来ていなかったのか。
頼りない背中から、寂しさのようなものを読み取ってしまう。
俺の変な意地で、幸を一人ぼっちにさせていたらどうしよう。
焦りでうまく声が出ない。
それなのに、足は止まらず、幸のベッドへ近づいていく。
「あ。恵君。久しぶりー」
ガラスに映りこんだ俺の姿を見つけて、幸が振り返る。
「バイト、忙しかったんだって? 母さんから聞いたよ」
いつもの調子の幸だった。
「お、うん。すごい稼いだ。書き入れ時ってやつ」
「お疲れ様。バイク、買えそう?」
「あとちょっとだなー。この夏が勝負」
「そうだよね。来年は受験もあるし、バイトするなら今のうちだね」
幸に隠していることがある。
バイトの理由と、進路のこと。
相庭家の家計が理由だと気づけば、幸は自分のせいだと思う。
だから、俺はバイトの理由を隠した。
免許を取って、バイクを買うために貯金をしている。そう言ってある。
進路のことも。当然のように、幸は俺が進学するものだと思っているのだ。
この話題を流したくて、焦って舌が回る。
この間お祭りで焼きそば作りのアルバイトをしたこと。
夏祭りの熱気について。幸と一緒に行った夏祭りの思い出話。
続かなくなると、俺の口からぽろっと、彼女の名前がこぼれ出た。
「そういえば、季世は?」
最近、来ているのかな。
それとも、自主的に来ることはないのだろうか。
「それがね、恵君」
話題を振られた幸の表情が、ぱっと輝いた。
だから、俺は、少しだけ気持ちが重たくなる。
――なんだ。やっぱり、来てたんじゃないか。
俺がいても、いなくても、幸の状況に変わりはない。
「聞いてよ。季世が話してくれたんだ、昔のこと」
相変わらず、幸は季世に、季世の紡ぐ妄想に興味津々だ。
暇人相手に、暇人が嘘をついている。そんな図式が目に浮かぶ。
幸は大発見をしたような、素晴らしい秘密を知ったような、とっておきの内緒話をする調子で俺に話してくれた。
でも俺は、その話の内容を、少しも現実的に捉えられない。
適当なところで相槌を打ちながら、聞き流した。
幸は沢山喋ると、青白い頬が少し紅潮する。
元気が出たみたいだ。だから、会いに来てよかったと思った。
幸が元気になるなら、いくらでも、嘘に合わせて相槌を打とう。
ほかに、俺にできることはない。
*
家に帰ると、母が夕飯を作っていた。
「何か、手伝えることある?」
「朝刊、パパが出しっぱなしにしたやつ片付けておいて」
「ああ、うん」
「お兄ちゃんのところ行ったの? 着替え、届けてほしかったのに」
「あー、うん。行ったよ。元気そうだった」
「明日も行ってくれる? バイト、ないんでしょ?」
母はこちらを一瞥もせず、包丁とまな板を注視している。
ソファの上には、母が指摘した通りに父が置きっぱなしにした新聞があった。
その脇に紙袋が並んでいる。
幸の着替えや、日用品や、お見舞いの品々が入っていた。
「パパのほうのお祖母ちゃんから、幸にお守りが届いたから。徳島のね、お遍路さんのね、ご利益のあるお寺なんだって。一緒に持って行ってあげて」
「祖母ちゃん、またお寺行ったのか……」
「お遍路だもの。まだ半分も巡っていないんですって、まあ旅行よね。元気なこと」
母の言葉が少し恨みがましいのは、相庭家が旅行らしい旅行へ行くのを控えているからだ。年末年始の里帰りや、俺の場合は修学旅行、父は出張――そんなものを除けば、レジャーとしての旅行へ行ったのは、六年以上前の話になる。
幸が治ったら、みんなで一緒に旅行へ行こう。
そう約束してから、幸を置いて旅行へ行くことは相庭家のタブーになったのだ。
ましてや、旅行中に幸の容態が悪化なんかしたら、悔やんでも悔やみきれないだろう。それに何より、幸だけ残して何かを楽しむことに、抵抗がある。
「――わかった。明日も行くよ」
みんな、幸に何かしてあげたくて仕方がない。
そうでもしなくちゃ、幸が死んでしまうのではないかと怯えている。
新聞を畳んで古紙回収用の袋に入れる。
食事の前にシャワーを浴びて、着古したTシャツに着替える。
自分の部屋を出て居間へ向かう途中で、幸の部屋が見えた。
埃を被った千羽鶴。
寄せ書きの色紙。
積み上げられた古本。
ご利益のあるありがたいお守りの数々。
全部、無力感の具現化のようだ。
幸を今一番励ましているのは、多分、形のない嘘だ。
一人の女の子が紡ぐ、不吉で甘い物語だ。
*
――目を覚ますと、あたりは暗く、何も見えなかった。
冷たい感触が頬に当たる。ここはどこだろう、と思う。
力を失った身体に、何かが這う感触がある。虫や、ネズミだ。
でも、それを振り払う力もなくて、ただ不快な感触に身体が震えた。
皮膚の柔らかい場所を齧られて、肉を抉られ、血を啜られていく。
小さな生き物の、小さな口に、少しずつ身体を崩されている。
気の遠くなるような方法で、存在を奪われていくみたいだ――。
最後に胃の中に何かが入ったのは、いつだっただろう。
食べ物も、水も、欲しいと思う。
だけど、手に入らないのだという諦念が先に心を支配する。
こうなってまで、開いたままの口から唾液が滲むのは何故だろう。
その水分を求めて、虫が口内に入り込む。
胃袋まで勝手に入ってきてくれたらいい、と願う。
それでこの飢えが少し楽になるのなら、願ってもないことだ。
けれど、虫は満足いくまで唾液を啜ると、どこかへ去っていった。
ふいに、視界で光が揺れる。
だから今、自分は目を開けているのだと気づいた。
誰か、そばにいるのだろうか。
見つけてほしい。
でも、見ないでほしい。
こんな姿を見られたら、誰も自分を助けようとは思わないだろう。
腐りながら、生きている。
生きながら、腐り果てていく。
ここに閉じ込められて、もう何日経ったか分からない。
どうして終わりが訪れないのか、分からない。
早く終わりにしてほしい。
もう、生きていたくない。
痛くない場所なんか、身体中のどこにもない。
噛まれ、えぐられ、傷つけられ、腐り、崩れていく。
信じた相手に裏切られ、拒絶され、捨てられた。
こんな場所に、隠すように、閉じ込められた。
一番愛してくれていたはずの相手に、終わりの来ない苦痛を与えられた。
これは、罰なのか。
わたしは、悪いことをしたのだろうか。
だから、こうして罪を償うために苦痛を与えられているのか。
ごめんなさい。神さま。もうしません。なんでもします。
だから早く、終わりにしてください。
この苦痛から逃れられるなら、何を引き換えにしてもいい。
早く、助けて。誰か。助けて――。
それが叶わないなら、せめて死なせてほしい。
諦めて閉ざした目蓋に、光が差して、皮膚越しの眼球を刺激する。
開けた視界いっぱいに、眩しさが溢れる。
何かが近づく。
それが危険なものかもしれないのに、身をよじって避けることもできない。
諦めに支配された身体は動かない。
――それは、差し伸べられた大きな手。
その光景を最後に、視界は再び闇に閉ざされる。
*
目を開けると、眩しい夏の日差しをまともに眼球に受けた。
頭は一気に覚醒して、夢の余韻を引きずった鼓動が早鐘を打っている。
口の中が妙に苦い。
寝苦しい夜を過ごすうちに、俺の身体をブランケットががんじがらめに締め付けて、背中は汗でびっしょりだった。
死ぬ。暑くて死ぬ。水が欲しい。
湿度の高い熱気に満たされた部屋に、外から蝉のコーラスが轟いている。
今はいつで、俺はだれで、ここはどこなのか。
少しずつ、目覚めたばかりの脳が認識していく。
――夢を見ていた。
中原季世の、昔の夢。
違う。
それは、幸に聞かされた季世の作り話だ。
面白半分に盛り固められたような、悲惨な生い立ちだった。
季世は、あんな胸糞の悪い話を、どんなつもりで幸に聞かせたりしたんだろう――。
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