Episode: 03-04 夕立

 今日も幸の見舞いに行く。


 母との約束だった。

 届け物がある。


 涼しい朝のうちに出かけようと思ったのに、もう昼だ。

 行きがけにコンビニに寄って自転車を漕ぎながらおにぎりを頬張る。

 が、炎天下で運動しながらの食事がよくなかったのか、あるいは今朝の夢の印象が甦ったのか、胃が受け付けなかった。

 気分が悪くなりそうだったから、慌ててスポーツ飲料で胃を満たす。

 そうするだけで、落ち着いた。


 汗が背中を流れ落ちる感覚に、肩が震える。

 虫が背中を這うような、居心地の悪さを感じた。


 ばかばかしい。

 あんなの、作り話だ。


 駐輪場に愛車を停めて、紙袋を二つ提げて、院内へ入る。

 丁度屋根の下に入ったあたりで、天気が崩れているのに気づいた。


 ひと雨降りそうだ。


 帰る頃までに止んでくれるだろうか。



「おはよう、幸」

 

「あ、恵君。おはよう」


「起きてたのか?」


「ああ、うん」


 幸は、窓の外へ向けていた視線をこちらへ寄越す。

 いつもみたいに、ゆるく笑う。


 夏なのに被っているニットキャップは、もう幸のトレードマークみたいだった。

 パジャマから服に着替えている。

 身体が小さくて、服に着られているかんじだ。


 幸は、体力づくりのために運動を始めてから、少し痩せた。

 筋肉がついているのか、やつれているのか、わからない。


「大荷物だね、恵君」


「これ着替え。あと、静岡のばあちゃんからお守りが届いた。徳島のお寺だって」


「徳島か。遠いね」


「手紙がついてるから、あとで読んで、またハガキを出してくれって母さんが」


「うん。わかった。ありがとう」


 幸は、どこかぼんやりしている。

 薬を飲んだあとだったのか。それとも、単に疲れているのか。


「幸、調子悪いのか? 俺、もう帰ろうか」


「え? どうして?」


「いや……なんとなく。疲れてるのかなって」


「起きたばっかりなんだ。それでかな。あ、でも、用事があるなら、そっちを優先して」


「用事は、ないけど……」


 あ、だめだ。変な空気が漂ってしまう。


 遠慮と気遣いの応酬が重なると、息苦しくて仕方がない。

 咄嗟に別の話題も出てこない。

 何かを話すつもりで口を開くと、季世の話題を選んでしまいそうだ。

 夢に見たことを話そうか。


「――なんか、静かだな」


 口をついたのは、どうでもいい感想だった。

 時間帯のせいだろうか。

 ちょうどお昼時で、動ける患者やその家族は出かけているのかもしれない。

 看護士たちの姿もない。


 周囲の様子を一通り窺って、視線を戻すと、幸は父方の祖母から贈られたお守りを封筒から出して、眺めていた。

 刺繍の金文字が並んでいる。

 病気平癒。


「祖母ちゃんたち、お遍路始めてから元気になったよな。前は趣味もなくて、節約するのが生きがいみたいな人たちだったけど」


「ああ、お祖母ちゃんたち、ちょっと若返ったよね。定期的な運動のおかげかも」


 同封されていた写真を眺めて幸が笑う。


「幸のおかげだよ」


 幸が病気になったことが、何かに良い影響を与えた。

 そういう『良かった探し』を時々する。

 

 例えば、相庭家の食事を見直すきっかけになった。

 例えば、自分の健康に気を使うようになった。

 例えば、お遍路めぐりをしていい運動になった。

 例えば、日常を大切にするようになった。


 幸が病気にかかったことは、必ずしも悪いことばかりではない、と考えることが彼の気休めになっている。

 いつからか、そう思うようになった。

 幸も、そうしてほしいようだった。


 だけど。


 今日は空気が停まったように、奇妙な緊張が走る。

 幸は何も言わない。感情が窺えない、静かな顔をしている。


 御守りを握る指に、少し、力が入る。


「――僕が、病気になって、よかったね、みんな」


 幸の捨て鉢で皮肉な物言いに怯んで、一瞬、息が止まった。


 違う。


 そんなことは即座に分かる。

 言いたいことは、そうじゃない。

 幸だってそれを理解しているはずだ。


 病気になって悪かったことばかりじゃない。

 そう思わなければ、耐え難い理不尽だ。

 だから、些細なことでも、理由を求めて結びつける。


 それで幸の気が楽になれば。

 周囲の気が楽になれば。

 そう考えて積み重ねてきた。


 歪な部分を包み隠して、それを優しさだと思ってきたのに。

 嫌な汗が背中を伝う。虫が這うような不快感に寒気がする。


「幸? ……らしくないよ、そんな後ろ向きな言い方」


 声が震えないように、そう言うのが精一杯だった。

 幸は俯いたまま、手の中の御守りを弄っている。


「ごめん、恵君。なんか、気が弱っているみたい。思ってもないことを言った、ごめんね」


「――季世が、また変なこと言ったんじゃないのか?」


「季世は関係ないよ!」


 やっと、幸が俺を見る。


 強い眼差しで、俺を、睨むように見ている。


 幸に言われるまでもなく、理解していた。

 季世を持ち出したのは、ずるいことだ。

 今、季世の話はしていなかった。


 問題は、相庭家が織り上げてきた、気遣いと優しさと、言い逃れと誤魔化しが絡みに絡み合った、幸を取り巻く空気についてだ。


 張り詰めたら切れてしまうから、緩んだままを保ってきたつもりだった。

 でもとうに張り詰めて、ぎりぎりのところで、繋ぎとめられてきただけだとしたら。


「俺、今日は帰る。疲れてるところに、ごめん。幸、寝たほうがいいよ」


 俺はまた、幸の病気に責任転嫁したような気がして、落ち着かない心地になる。


 逃げるように、踵を返す。

 幸に背を向け、病室を出る。



 駐輪場に出ると、雨が降っていた。


 夕立だ。


 立ち尽くして、しばらく、雨に打たれる町を眺めた。

 冷たい風に吹かれて、頭が冷えた。


「……はあ」


 重たいため息を吐き出すと、少し胸が軽くなった。

 温かい飲み物でも買っていこう。

 気圧の変化がよくない。エアコンで冷え切った部屋がよくない。

 夏だけど、冷たいものばかり飲んでいてもだめだ。


 幸の部屋へ戻ろう。


 謝って仲直りだ。

 幸だったら、きっとそうするはずだ。


 売店でホットのお茶を二つ買って、病室へ引き返す。

 廊下の窓から、雨が激しさを増していく様子が見えた。

 こんなに激しい雨は、それだけで見物だ。

 雷まで轟く。

 夏の蒸し暑さを連れ去って、冷たい風が流れ込む。


 夕方までには、落ち着くだろう。

 それまで幸の部屋にいよう。

 おすすめの本でも読んで、時間を潰せるだろう。


「……あれ」


 戻ると、病室は無人だった。

 六人部屋で、幸以外にも患者が入っていたから、完全に無人になっているのは珍しい。

 いつもより広く見える。

 でも、無人だからという理由だけではない気がする。


 そういえば――。


 もう一人の患者の気配が、ない。


 部屋を出てプレートを確認すると、『相庭』以外の名札が掛かっていなかった。

 転院したのか。

 それとも。


 亡くなっていたのか。


「……」


 もしかしたら、それで幸はナーバスになっていたのかもしれない。

 充分に説明がつく。

 理由が分かると、少しほっとした。

 身勝手なことだけれど、俺のせいじゃない、と安心できたから。


 幸はトイレにでも行っているのだろう。

 そう思ったから、来客用の椅子に掛けて待つ。

 ベッドの脇の大きな窓から、荒れた天候に覆われた都市が見えた。

 昼までは快晴だったのに。傘を持たずに出かけた人も多いだろう。大変だ。


 遅いな、と思う。


 手持ち無沙汰になって、周辺を見渡す。

 枕元には、幸のパジャマが几帳面に畳んで置いてあった。

 そういえば、さっき幸は私服に着替えていたような。

 俺が相手で、着替える必要はない。

 幸が身奇麗にして出迎える相手と言えば、一人しか思い浮かばない。


 ――季世。


 今日、来る予定だったのか?


 何故だろう。妙に胸騒ぎがして、椅子を立つ。

 予感が、妄想にも近い情景を俺に見せる。

 導かれるように、俺は階段を上った。

 鉄の扉の向こうに、屋上がある。



 屋上は、叩きつけるような雨に濡れて水浸しだ。

 花壇も、ベンチも、物干し竿も、全部濡れている。

 そして、向き合って立ち尽くす二人も、当然濡れていた。


「幸! 何やってんだ!」


 声は、豪雨にかき消されて響かない。

 でも、微かに届いたのか、幸がこちらを顧みた。

 何も言わずに、視線を逸らす。


 幸が見つめているのは季世だ。


 真っ黒い長い髪が水を含んで、流れる墨のように見える。

 シャツが張り付いた身体は、傍目に見るより華奢で、頼りない。

 だけど、思っていたよりも異性の体つきをしていて、こんなときにそんなところに目がいく自分が心底嫌いになった。


 幸は、季世の手を取る。

 何をしているのか、よく見えなかった。

 駆け寄ろうとすると、幸が怒鳴った。


「来るな!」


 思いがけず、鋭い響きに身体が震えた。

 幸がどんな顔をしているのか、ここからは良く見えない。


「どうして! 何してんだよ、こんなところで!」


「僕は、――たいんだ」


「何……!?」


 何て言ったのか、分からない。何をしたいって、言ったのか。


 ――確かめたいって、言ったのか。


 何を?

 不死病かどうかって、そのことを?


 幸が季世の手を掴んでいる。

 その季世の手が何を掴んでいるのか、やっとわかった。


 ありふれた、見覚えのある形をした、カッターナイフだった。


 途端に、背中に寒気が走る。

 何をするつもりなのか。直感的に理解する。


「やめろ!」


 駆け出す身体が、重い。

 雨のせいで、思うように走れない。


 まるで二人は、抱擁を交わしたように見えた。

 親しげに、恋人のように。


 季世は、何か囁いているようだった。

 幸が肯く。


 幸の腕から、季世は少しだけ身をよじって、逃げたそうに見えた。

 それは、ただの見間違いかもしれない。


 幸の手はずっと季世の手首を掴んでいた。

 季世の、カッターナイフを握ったその手首を掴んでいた。


 防ごうとしているのか。それとも。

 強引に、目的を果たそうとしていたのか。


「幸! やめろ!」


 幸の体が、腕が動く。

 雨に赤い色が混じる。

 少女のシャツが真紅に染まる。


 俺の視界も、赤に支配された。


 身体中の血の気が引くようで、気が遠くなった。

 俺のほうこそ、大量に血を失っているんじゃないか。

 身体を流れ落ちるこれは、本当に雨なのか?

 指先まで冷え切って、寒くて、震えが走る。


 崩れる幸の身体を、季世が抱きとめた。

 そのままコンクリの床に尻餅をつくようにしゃがむ。


 幸は動かない。


 屋上に流れた血は、すぐにも豪雨で洗われてしまう。

 幸のかけらが失われていくようで、怖くて仕方がない。

 心臓が皮膚を破りそうなほど大きく脈打っている。


「恵!」


 名前を呼ばれて、金縛りが解けたように、身体に力が戻ってきた。


「人を呼んできて!」


 指示をしたのは、季世だった。


 頬を幸の血で汚しながら、いつもと変わりないような平坦な表情のままだった。

 俺は、命じられてはじめて動くことが出来た。

 急いで院内へ引き返して、大声で叫んだ。


「誰か! 幸が! 幸が、死んじゃう! 血が! ――血が!」



 頭は働いていなかったと思う。


 季世が指示してくれなかったら、あの場で動けないままだった。

 俺の異様な姿に気づいて、看護士が集まった。

 屋上の惨状が明らかになると、院内はにわかに慌ただしくなった。

 サイレンの音を聞いた気がした。

 病院の屋上で怪我を負った患者が、救急車に乗るはずがない。

 だから、きっとそのサイレンは幸の件とは無関係だ。もしかしたら、警察だったのかもしれない。


 季世が、そのあとどうしていたのか、俺は良く知らない。


 俺は、思った以上に、血まみれだった。

 だから、俺までどこか怪我をしているんじゃないかと疑われて、看護士に引き止められた。

 そうするうちに、いつのまに着替えたのか、気づけば乾いた服を着ていた。


 幸の様子が知りたかった。

 親に連絡は行っただろうか。なんと説明されるのだろうか。


 どうして、なんで、幸が。


 ――自殺を選ぶはずがない。


 だって幸は、命の尊さを誰よりも知っているし、誰よりもそれを尊重している。

 人は、当たり前に生きているわけじゃない。だから、命を粗末にするようなこと、寿命を縮めるようなことを選択するはずがない。


 明日が来るのは、奇跡的なことだ。


 それを、幸が誰よりも実感しているはずなのに。

 何をしたい、って言ったんだろう。


『確かめたい』?


 それとも。


『死にたい』――?


 ふと窓の外を見ると、台風一過みたいな、澄み渡る夕空が広がっていた。

 幸の部屋から見る眺めと少し違う。ここは、診察室のようだ。

 部屋は、茜色に染まっていた。

 俺は窓の外を眺めたまま、長く息を吐いた。


 こんな状況なのにその光景を綺麗だと思った。


 感覚が麻痺していて、冷静さは欠片もなくて、何が自分をコントロールしているのか、まるで分からなかった。

 今、俺の感情はどうなっているのか。

 怒っているのか。怯えているのか。悲しんでいるのか。


「幸。そんなに、死にたいなら、死んでもいいよ」


 素直にそう思った。


 言葉に出すと、涙が滲んだ。


 それがこぼれる前に、俺は誰かに殴られた。


 母だった。

 連絡がいったのか。いつからここにいたのか。

 ずっと付き添っていたのか。

 母のほうこそ、元の顔が分からなくなるくらいに泣いている。

 俺を殴りつけたことで最後の力を使い果たしてしまったみたいに、俺の膝に顔を伏せて、震えながら泣いていた。

 なんで殴るんだよ、と怒りがわいた。

 その怒りを手がかりにして、自分の感情が戻ってきたようだった。

 びっくりして、沸いた怒りは自分自身に矛先を変えた。


 自分が言った言葉が、信じられなかった。


 出来れば過去に戻ってやり直したいくらい、自分の口からその言葉が出たことが、嫌だと思った。


 俺は幸に生きていて欲しいと思う。


 一分も経たないうちに、自分の気持ちが変わっている。

 でもそれが、本当に正直な気持ちだった。


 こんなふうに別れを迎えるのは、絶対にいやだった。

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