Episode: 03-02 祭りの夜

 深夜にメールの着信音で目覚めた。


 バイトの募集メールだ。

 明日空いた穴をどうしても埋めたいから日給三万で雇うという。

 条件は、勤務回数が多い者、一ヶ月以内に試食を担当した経験がある者。


 条件クリアだ。


 寝ぼけた頭のまま返信を打とうとして、指が止まる。

 明日も幸の見舞いへ行く予定だった。

 季世も一緒に。


 いいか、と思って送信ボタンを押した。


 最近ずっと通っているし。

 でも、幸は季世に夢中で、自分はまるで邪魔者だ。

 何も俺が見張ってなくちゃいけない理由はない。

 幸だって、見飽きた弟よりも女の子が一緒にいたほうが嬉しいだろう。

 明日の朝、季世にメールをしよう。

 急な用事ができたんだ。仕方がない。

 


 朝になって仕事の準備をして、目的地まで向かうバスの中でメールを打った。

 返事は昼頃に来て、別に構わないという旨が書かれていた。


 仕事場は特に人の多い地域だったらしく、片時も休まず手を動かした。

 なるほど、こんなに繁盛するんじゃ派遣会社も穴を空けたがらないだろう。

 冷凍食品のデモンストレーションだった。

 在庫の箱がみるみるなくなる様は爽快だ。

 ロボットみたいに決まりきった文句を喋りながら接客をしていると、体と精神が乖離していく感覚があった。体は、表面では動いているのに、内心ではまったく別のことを考えている。


 笑うようになった季世のこと。

 嬉しそうな幸の顔。


 すっかり出来上がってしまった二人の世界に、俺の入る余地はない。

 傍らで立ち尽くして眺めるだけだ。


 別に、それで構わない。

 幸が元気になるならそれでいい。

 きっと全部上手く行くだろう。

 

 幸が言えば、その通りになるのだ。


 もやもやと考え事をする中核にあるものを、見ないようにした。



 バイト帰りの駅前で偶然高校の友達と鉢合わせて、そのまま流れでハンバーガーショップへ行った。

 部活帰りらしく制服を着た日焼けした男子学生は、チープな店内にぴったりとマッチしている。ポテトを三つ、サイズもどかんとLサイズ。

 それを全部トレーにひっくり返して山盛りにしてむさぼるように掴んで頬張る。

 きんと冷えた薄味の炭酸で流し込むと、爽快感と罪悪感が同時に訪れた。

 身体に悪そうだ。


「相庭ってバイト何やってんの? どこ?」


「どことか決まってない。あちこち。派遣みたいな」


「へー、時給いい?」


「それがなぁ、今日はな」


 日給三万円、なんて言ったら奢らされる。

 咄嗟に口をつぐんだ。

 それだけでもうバレた。


「よし、相庭の奢りだ。俺シェイク買って来る!」


「払わねぇよ!」


 飛んでいったのは小柄な川島だ。ガタイのいい片岡が窮屈そうに椅子に座って、大きな指でポテトをつまんでいる。


「家、大変か?」


 高校で知り合った川島と違って、片岡は少しだけ事情を知っている。


「まあ、ふつう」


「ふつうか」


 それ以上その話は続けず、テレビやタレントの話、クラスメイトの噂、他愛ない話題に次々に移っていった。


「そういえば進路希望出した?」


「え、夏休み前に出すんじゃないの?」


「うそ! やべ、おれ出してない。夏休み明けかと思ったのに」


 結局自腹で買ったシェイクに吸い付いていた川島が苦悶している。


「うぉー、やべぇ、呼び出される」


「どうせ部活で行くんだから呼び出されてもいいじゃん」


「ああ、そういえばそうか」


 すぐに落ち着きを取り戻す。忙しい奴だ。


「志望大学決めた?」


「まあ、身の丈をかえりみて。相庭は?」


「あ、俺も同じようなかんじ」


 志望大学を決めたわけではないが、身の丈をかえりみたのは本当だ。

 でもこの場で本当のことを話してしまうと空気が微妙になってしまうと思った。

 忠告も、心配も、今はあんまり受けたくない。身軽でいたい。


「そっかー、おれ全然考えてないんだよな。どーしよう」


「どうせ入れるとこにしか入れないって」


「ま、そうだけどさあ」


 不意に時計が視界に入る。

 今の時間なら、まだ病院に季世がいるかもしれない。

 でも、今日くらい行かなくてもいいか。

 幸だって、俺抜きで季世と過ごしたほうが嬉しいに決まっている。

 


 その後流れで他の友達とも合流して、十時頃まで遊んだ。

 カラオケと安上がりなファミリー・レストランをはしごする。


 こんなふうに遊ぶのは、久しぶりだ。

 楽しい瞬間、くだらないことで笑いあう一瞬、幸の顔がよぎった。

 だけど、どうして俺は、幸のために自分を抑えなくちゃいけないんだろう。

 そんな義務はない。

 自分が健康でいることに罪悪感を抱くなんて、そんな理不尽な話はないだろう。


「ただいま」


 家に帰ると、母はまだ起きていて、家計簿をつけていた。


「遅いじゃない、ご飯は?」


「食べた」


 部屋の奥にテレビ台を置いたのは何年前だったか、今でもピアノがあったときの景色に馴染みがあるから、見るたびに違和感を抱く。


「そういうときはメールして。お兄ちゃんはどうだったの?」


「今日は病院行ってないよ。バイト、昨日急に入ったから」


 母は家計簿から顔を上げた。

 なんとも受け取りがたい表情は、俺には裏切り者を糾弾する目に見えた。


 まだ先日の宣告のショックが抜けていないみたいで、ここ数日、母はずっと神経質な顔をして、唇をきゅっと引き結んでばかりいる。


「恵君、バイトなんていつでもできるでしょう。お兄ちゃんになるべく会ってあげて」


 幸に会うのだって、いつでもできる。


 母は俺が薄情だと思っているけど、自分のほうこそ、幸にはもうすぐ会えなくなるようなことを無意識に口にしている。『だから、今のうちになるべく会いに行ってあげて』――母の言葉はそういう意味だ。


 反論なんて、できなかった。

 だって、きっと張り詰めている母ははじけてしまうから。


「母さんは行ってきたの?」


「仕事が休みの日はいつも行ってるでしょ。恵君、何か欲しいものがあってバイトしてるの?お金のことなんていいんだから――」


「うん、わかったよ。明日は行くから。何か持って行くものある?」


「お祖母ちゃんの家から美味しい梨届いたから、それお願い」


「わかった。もう寝る。おやすみ」


 風呂に入るのは明日の朝でいい。

 さっさと部屋に入ってベッドにもぐる。

 別に俺が行かなくても、幸はひとりぼっちじゃない。

 俺が行ったら、二人を邪魔するかもしれない。

 やっぱり風呂に入ればよかった、と後悔した。

 汗でべたつく肌に、張り付くシャツが気持ち悪い。



 翌朝。


 お祖母ちゃんの家から届いた美味しい梨を、わざと忘れて家を出た。

 その時には、もう、病院へ行くつもりなんてなかったんだと思う。


 夏祭りのバイトに誘われたのだ。


 片岡から、親戚が出店を出すから手伝わないかとメールが来たのが今朝だ。

 日給は一万円。

 実働時間は五時間で、焼き蕎麦食べ放題の福利厚生がついてくる。

 時給二千円なら大した稼ぎだ。


 ありがたい話に喜んで飛びついて、その日は一日、商店街に立ち並ぶ出店のひとつに紛れてただひたすらにそばを焼いた。

 夏休みの祭りには、地元中の中学生や高校生が集まって、グループで店を冷やかしたり、初々しいカップルが手を繋いでちんたら歩いていたり、甘酸っぱい青春のひとときを過ごしている。が、そんなものを目の端で捕らえながら、俺の筋肉は休みなく稼動していた。


 ひたすらに、焼く。

 俺は今、そばを焼くマシーン。

 隣で、キャベツを刻むマシーンと化した片岡が、親の仇を討つ勢いでキャベツを八つ裂きにしている。


「涼太っ! 切り方が雑っ!」


「ハイッ! サーセンッ!」


 片岡(名:涼太)は、出店を切り盛りする親戚のお姉さん(装備:タンクトップ、ホットパンツ)に叱られて、ちょっとデヘヘとにやけていた。

 気持ち悪いけど、羨ましいぞ、片岡。


 そんな調子で半日。

 煙にまかれて過ごし、帰る頃になると、身体中の穴という穴にソース臭が染み付いている気がしてならない。


「相庭、今日はサンキュー。これ、手土産に持って帰ってくれ」


「助かる。片岡、今日はありがとうな」


「うち祭りはいつも出店参加なんだ。また秋にもやるからそのときも声かけるよ」


「おっ、まじで。片岡、神……! ありがてえ」


 パック詰めの焼きそばの束を受け取り、片岡を拝む。


 秋。その頃のことを、あまり具体的に想像できない。

 八月から数えたら、今年も残りあと四ヶ月。

 幸のドナーはまだ見つからない。


「……じゃ、帰るわ。またな」


「気をつけて帰れよ」


 忙しく働くのは、気分がいい。何も考えなくていい。

 何か考える隙には、いつも幸が入ってくる。

 焼きそばを届けようか、と一瞬考えた。

 幸は、夏祭りに来たがっていたから。

 でも、こんな衛生的にいくつかの難点がある食品を、与えるわけにはいかない。

 季世は食べるだろうか。


「あっ――」


 お祭りの雑踏の中、一瞬、鮮やかな赤い着物が目に入った。

 黒い長い髪が流れる後姿。

 だけど、それは季世じゃない。

 はっきりと見間違いだと分かって、再び歩き出す。


 結局、焼きそばは全部俺が食べた。


 お祖母ちゃんの家から届いた美味しい梨は、母親が無事に届けたようだ。


 ――翌日から、俺はまた、日々途切れなく募集のかかる派遣バイトに身を投じ、無心で働き続けた。

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